第6話 黒うさぎを連れてこい
王宮から戻ったその夜、エリーズは夕食の席でほとんど話さなかった。
原因は分かっている。ルシアン殿下から茶会へ招かれたこと。
しかも、それを受けるかどうか自分で決めてよいと言われたこと。
その二つが、エリーズの中でまだ落ち着く場所を見つけられずにいた。
「それで」
食事が半ばを過ぎたところで、父がナイフを置いた。
「返事はどうするつもりだ」
「まだ決めておりません」
「断れ」
父は迷わなかった。あまりにも早い返答に、エリーズは顔を上げた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「今のお前は、婚約解消の話が広がり始める時期だ。そんなときに王弟殿下の茶会へ呼ばれれば、何を言われるか分からん」
母も静かに頷いた。
「お父様の仰る通りよ。エリーズ、殿下には丁重にお断りなさい」
「ですが」
自分の口からその一言が出たことに、エリーズ自身が少し驚いた。
「殿下は、私に来いとは仰いませんでした。嫌なら断ってよい、と」
「だから断れと言っている」
父の声が少し低くなる。エリーズは黙った。
ここで従えば、話はすぐに終わる。それが一番楽だった。今までずっと、そうしてきた。
「殿下は、なぜお前を呼ぶ」
「声の違いを聞くためだそうです」
「そんなもののために?」
その言葉に、胸の奥がわずかに沈んだ。
――そんなもの。昔から何度も言われてきた意味と、ほとんど同じだった。
「殿下は、曖昧なままでよいと仰いました。違うと感じたら、それだけを言えばよいと」
「エリーズ」
母の声が割って入る。
「殿下が何をお考えなのか、あなたには分からないでしょう。なら、近づかない方がいいわ」
エリーズは一度目を伏せた。それも正しいと思う。
ただ少なくとも、今まで誰も聞こうとしなかったものを、彼だけは聞いた。
――何が違った?
あの問いを思い出す。
「お父様。一晩、考えてもよろしいでしょうか」
「明日返事をする約束なのだろう。なら、朝までに決めろ」
自室へ戻り、窓辺へ座ったまま長く考え続けた。
行けば、目立つ。婚約解消の話も広がっていく。父の心配はもっともだった。
行かない理由なら、いくらでも並べられた。
それでも。ルシアンは「来い」と言わなかった。嫌なら断っていい。その上で、自分に決めさせた。
ジュリアンとの婚約も、両家が決めた。自分は、それを受け入れた。
婚約を解消することは、ジュリアンが決めた。自分は、それも受け入れた。
――では、自分が決めたことは、これまでにどれほどあっただろう。
――行きたいの?
問いが浮かぶ。誰かにどう見られるかではない。父が何と言うかでもない。
自分は、行きたいのか。それだけを考えてみる。
怖い。目立ちたくない。笑われるのも嫌だった。
けれど。もう少しだけ、確かめてみたい。
自分が聞いてきたものに、本当に意味があるのか。
「行きたい」
声に出してみる。小さな部屋の中で、自分の声だけが残った。
翌朝、朝食の席へ着く前に、エリーズは父の書斎を訪ねた。
「返事を決めました」
「断るのだな」
その前提で言われ、エリーズは一瞬だけ息を止めた。
「いいえ。参ります」
短い沈黙。
「何を言っている」
「私が、行ってみたいと思ったからです」
父は黙った。
「お前が?」
「はい。殿下に求められたからではなく」
そこだけは、はっきり言えた。
「嫌なら断ってよいと言われました。その上で、私は行こうと思いました」
「後悔しても知らんぞ」
「はい。自分で決めたのであれば、後悔も私のものです」
父も一瞬言葉を失った。やがて、深く息を吐く。
「好きにしろ」
許可というより、諦めに近い声だった。
茶会の日、エリーズは王宮東棟にある小さな応接室へ案内された。
淡い薄紫のドレスに、装飾も最低限にした。派手な色を選ぶ気にはなれなかったが、少なくとも壁と同化するほど暗いものは避けた。
それを選んだ自分に気づき、少しだけ可笑しくなる。
ジュリアンに「明るい色を着たらどうだ」と言われたときは、従う気になれなかった。今日は、自分で選んだ。
すでに数人の客が来ていた。年配の伯爵、若い文官、落ち着いた装いの夫人、それにドニ。ルシアンはまだいない。
「ベルモン伯爵令嬢」
ドニが先に立ち上がった。
「お越しいただきありがとうございます」
示された席へ座る。客同士の会話が再び始まった。領地の収穫、国境近くの道路、王都での税収。
――社交のための茶会というより、半分は情報交換の場らしい。
「ところで」
年配の伯爵が、ドニへ声をかけた。
「今日は少し珍しい顔ぶれですな」
「殿下がお選びになりました」
「しかし、あちらのお嬢さんは」
文官が、小さく笑った。
「ベルモン伯爵令嬢ですよ」
「最近、何かとお名前を聞きますね」
伯爵はカップへ口をつけた。
「殿下も変わった方をお呼びになる」
「変わった方、とは?」
夫人が穏やかに尋ねる。
「いや。社交界では、何と言ったかな」
「黒うさぎ、でしょう」
文官が口元を押さえる。
胸の奥がわずかに縮んだ。
――やはり、ここでも。
「そう、それだ」
伯爵は悪びれず頷いた。
「なるほど。確かに、黒髪ですものね」
「大人しくて、いつも壁際にいるから、と」
「まあ」
夫人が小さく笑う。嘲笑というほど強くはない。それでも、楽しいものではなかった。
来なければよかった。一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。
「それで」
伯爵がドニを見る。
「殿下は、なぜ黒うさぎをこちらへ?」
その瞬間、扉が開いた。
「私が呼んだからだ」
聞き覚えのある声だった。全員が立ち上がる。
「殿下」
伯爵が慌てて頭を下げる。
「これは失礼を」
「何が?」
ルシアンは自然な足取りで席へ向かう。その途中、エリーズを一度見た。
「来たんだね」
「はい」
「そう」
それだけだった。けれど、その短い一言に、エリーズの胸の緊張が少しだけほどけた。
「で、何の話?」
「いえ、その。ベルモン伯爵令嬢をお招きになった理由について」
「聞きたい? 何を、でしょう」
「声を」
ルシアンは、自分が理解している範囲だけを説明する。
「彼女は、人の話し方の小さな違いによく気づく」
「嘘を見抜くと?」
「違う。本人もそう言っている」
「では、何を」
「違うことが分かるだけ」
「それに、何の意味が?」
「調べる理由になる」
その言葉に、エリーズはわずかに顔を上げる。
ルシアンは、エリーズにできないことを無理に増やそうとしなかった。できる範囲だけを見る。それが妙に安心できた。
そこで夫人が小さく笑った。
「殿下は本当に変わったものを拾われますね。失礼。けれど、社交界で黒うさぎと呼ばれているご令嬢を、こうしてお連れになるとは」
「あの黒うさぎを?」
文官が軽く笑う。
「殿下もずいぶん珍しい趣味をお持ちだ」
ドニの表情が硬くなった。
「その呼び方は」
制止しようとしたのだろう。けれど、それより先にルシアンが言った。
「可愛い呼び名じゃないか」
あまりにも普通の声だった。エリーズは顔を上げた。聞き間違えたのかと思った。
「……可愛い、ですか」
「うん。黒うさぎ」
もう一度、その言葉を口にする。
エリーズは反射的に声の響きを探った。嘲り。皮肉。慰め。どれかが混じっているのではないかと思った。
けれど、なかった。少なくとも、エリーズには聞こえなかった。
「黒髪で、小柄で」
ルシアンがエリーズを見る。
「確かにうさぎみたいではある」
「殿下、それは褒めておられるので?」
「褒めてるよ」
「そうは聞こえませんが」
「本人に聞けばいい」
突然、視線が集まった。
「私、ですか」
「嫌なら答えなくていい」
すぐに逃げ道が渡される。それで少し呼吸が楽になった。
「以前よりは」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「以前よりは?」
「……嫌ではなくなったかもしれません」
口にしてから、自分でも驚いた。
「それならよかった」
その声にも、余計なものはなかった。ただ、自分が可愛いと思った。だからそう言った。それだけなのだと、エリーズには聞こえた。
「それより、今日は別に聞きたいことがある。北部の街道についてだ」
そこから茶会は、先ほどまでとはまるで違うものになった。
春の雨で一部の道路が傷んでいること。荷馬車の通行が遅れていること。修繕費をどこから出すか。
エリーズは黙って聞いた。無理に何かを見つけようとはしない。
今のところ、耳に引っかかるものはない。それでいい。何もなければ、何もない。
しばらくして、茶会が終わりに近づいた。一人、また一人と席を立つ。
「ベルモン伯爵令嬢。殿下が少しお話を、と」
ルシアンは窓辺に立っていた。客がすべて出たあと、エリーズはそちらへ向かう。
「今日はどうだった?」
「緊張しました」
「それは見れば分かった」
「分かったのですか」
「途中から、カップを持つ手に力が入っていた」
エリーズは思わず自分の手を見る。
「黒うさぎと言われたとき?」
「はい」
「嫌だった?」
「最初は」
「殿下が仰ったあと、少しだけ違って聞こえました」
「私が?」
「はい。でも、悪いものだけではないのかもしれないと」
ルシアンはしばらく黙っていた。
「そう」
それだけ言った。
「今日は来てくれてありがとう」
「何も聞こえなくても?」
「何もなかったなら、それでいい。それに」
少しだけ間がある。
「自分で来ると決めたんだろう?」
エリーズは驚いて彼を見る。
「なぜ、それを」
「昨日、考えると言ったから。嫌なら断ると言っていた人が来た。それなら、来る方を選んだんだと思っただけ」
言葉は簡単だった。けれど、それを他人から言われたことで、初めて実感が生まれた。
自分が選んだ。父に言われたからでもない。婚約者に求められたからでもない。王弟殿下に命じられたからでもない。
「はい。私が決めました」
ルシアンが微笑む。
「なら、それでいい」
王宮を出るころには、空が夕暮れの色へ変わり始めていた。
馬車へ向かう途中、遠くから二人の令嬢の声が聞こえる。
「あれ、ベルモン伯爵令嬢じゃない?」
「本当。黒うさぎが、こんなところに」
いつもの呼び名だった。エリーズの足が、一瞬だけ止まる。胸は少し痛んだ。
急に何も感じなくなるわけではない。それでも。先ほどの声が重なる。
――可愛い呼び名じゃないか。
エリーズはそのまま歩き出した。
黒うさぎ。まだ好きではない。けれど、以前ほど嫌いでもない。
そのことが、なぜなのか。今のエリーズには、まだうまく説明できなかった。
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