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第5話 小さな綻び

王宮から戻った翌日、エリーズは朝から自室の窓辺に座り、開いた本の同じ頁を何度も読み返していた。


 文字を追っているつもりなのに、頭へ入ってこない。理由は分かっていた。


 昨日、ルシアンに言われた言葉が、まだ胸の中に残っている。


 ――確認する理由にはなる。


 それまでエリーズは、自分が聞き取る小さな違いを、意味のないものだと思っていた。


 理由が分からない。嘘かどうかも分からない。それなら、知らないのと同じだと考えていた。


 けれどルシアンは、そうではないと言った。答えが分からなくても、もう一度見る理由にはなる。


 その考え方は、エリーズにとって初めて触れるものだった。


 本を閉じる。窓の外では庭師が植え込みを整えていた。何気ない朝だった。


 扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様」


 侍女の声だった。


「王宮からお使いの方がお見えです」


 エリーズは思わず顔を上げた。


「また?」


「はい。ルシアン殿下のお名前を仰っています」


 昨日に続いて二日目だった。胸が小さく跳ねる。嫌な予感ではない。けれど、落ち着かない。


 玄関広間へ向かうと、昨日とは別の王宮侍従が待っていた。


「殿下より、本日もう一度王宮へお越しいただけないかとの仰せです」


「何かございましたか」


「詳しいことは存じません。ただ、昨日確認していた件について進展があったと伺っております」


 エリーズはすぐに思い当たった。あの二通の書状の件だ。


「承知いたしました」


 侍従が去ったあと、父が書斎から出てきた。すでに話を聞いていたらしい。


「また殿下か」


「はい。書類について、何か分かったそうです」


 父の表情が険しくなる。


「お前が関わる必要がある話なのか」


「分かりません」


「なら、余計なことはするな」


 昨日と同じ言葉だった。エリーズは少しだけ迷ってから頷いた。


 けれど昨日とは、その言葉を受け取る感覚が少し違っていた。


 午後、再び王宮へ向かった。案内されたのは昨日と同じ部屋だった。


 扉が開くと、ルシアンとドニがいる。それに加えて、もう一人。若い男が部屋の端に立っていた。


 顔色が悪い。エリーズが入ると、男はほんの一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を落とす。


「急に呼んで悪かった」


「いいえ」


「座って」


 昨日と同じ椅子へ腰を下ろす。空気が重い。昨日のような試すための穏やかさはなかった。


「昨日の書状の件だ」


 ルシアンが机の上の紙束へ手を置く。


「原因が分かった。書類を入れる箱を間違えたのではなかった」


 ドニが引き取る。


「正確には、間違えた者はいました。しかし、問題はその後です。間違いに気づいた者がいた」


 エリーズの視線が、部屋の端に立つ男へ向いた。男は俯いたまま動かない。


「この者です」


 若い側近の肩がわずかに強張った。


「本来、昨日の昼までに返書が届いていなければ、先方へ確認を入れる決まりになっていました。しかし確認はされなかった」


「なぜでしょう」


 エリーズが尋ねると、若い男の指が小さく動いた。


「自分の失敗だと思ったからだ」


 ルシアンが答える。


「彼は前日に、返書の到着記録を処理していた。それで届いたと思い込んだ。だが実際に届いていたのは、別件の書状だった」


「この者は途中でおかしいと気づいた」


 ルシアンの声が少し低くなる。


「だが、確認しなかった」


「申し訳ございません」


 若い男が初めて声を出した。細い声だった。かすかに震えている。


「理由を」


「先月も、私の確認不足で一度連絡が遅れています。また同じことをしたと思われれば、担当を外されると……怖くなりました」


「届いているはずだと思いました。記録にも到着とありました。それなら、少し待てば見つかるかもしれないと」


「だから黙った。問題ありません、と報告させた」


 男は顔を上げた。何か言おうとして、言葉が詰まる。


 そこでエリーズは理解した。あの夜、ドニが「問題ありません」と言ったとき、ドニ自身は書類の中身を完全には確認していなかった。


 部下から問題ないと報告され、それを前提にルシアンへ話していた。だから声が硬くなった。


「私は」


 ドニが静かに口を開いた。


「彼から『確認済みです』と聞きました。私自身でも確認すべきでした。それを怠ったのは私の責任です」


「黙っていなさい」


 強い声だった。けれど怒鳴ったわけではない。


「部下の報告を信じることと、自分の責任を放棄することは別です」


 男が再び俯く。


「それで」


 ルシアンが突然、エリーズへ視線を向けた。


「君はどう思う?」


 予想していなかった問いだった。


「私には、判断できません」


「なぜ」


「事情をすべて知りません。先月の失敗がどの程度のものだったのかも、この方が普段どのようなお仕事をされているのかも知りません」


「では、処分すべきかどうかは?」


「分かりません」


「隠したのは事実だ」


「はい。それでもです」


 ルシアンの目がわずかに細くなる。怒っているようには見えない。むしろ、続きを待っている。


「私が聞いたのは、この方が怖かったと仰ったことだけです」


「それは本当だと思う?」


 エリーズは若い男を見る。


「分かりません。声は震えていました。でも、震えているから本当だとは言えません」


「怖いから震えたのかもしれません。殿下の前にいるからかもしれません。処分されると思っているからかもしれません。だから、私には分かりません」


「なるほど。では、君が今ここで分かったことは?」


 また、その問いだった。エリーズは少し考える。


「一つだけ、少し気になったことがあります」


 男の肩が跳ねた。


「先ほど、『また同じことをしたと思われれば、担当を外される』と仰いました。そのときだけ、『担当を外される』というところより、『また同じこと』の方が強く聞こえました」


 男の顔色が変わった。


「ですが、理由は分かりません」


 ルシアンの目が男へ向く。


「先月の件だけ? 彼女は先月のことは知らない。私も今、その話しかしていない。何が『また』なんだ」


 沈黙。エリーズは胸の奥が冷えるのを感じた。


 長い沈黙のあと、男が小さく息を吐いた。


「……先月だけではありません。その前にも、一度」


 ドニの眉が動く。


「連絡を遅らせました」


「聞いていない」


「報告していませんでした。結果的には間に合ったからです」


「では、今回で三度目か」


「……はい」


 ルシアンは何も言わなかった。若い側近は、俯いたまま動かない。


「ドニ」


 やがてルシアンが言った。


「この者を一度、外へ」


「承知しました」


 若い男は深く頭を下げ、部屋を出ていった。


 扉が閉まると、ドニが大きく息を吐いた。


「三度とは」


「それは後で話そう」


 ルシアンは淡々と言った。


「まず、止められた」


「はい。今回の返書の遅れは、今朝のうちに別便を出しました」


「ならいい」


 ルシアンはそこで初めてエリーズを見る。


「ベルモン伯爵令嬢。君は、何をしたと思う?」


「……声を聞きました。それだけです。ドニのときも、今の人のときも」


「答えは知らなかった」


「知りませんでした」


「でも、小さな違いを見つけた」


 その言い方に、エリーズは少し迷った。


「君は答えを出していない。ドニが何を間違えたのかも、彼が何を隠したのかも知らなかった。でも、綻びは見つけた」


 ――綻び。その言葉が、耳に残った。


「小さなものだ」


 ルシアンは机に積まれた書類へ視線を落とした。


「見落とす程度の。放っておけば、そのままになる程度の」


 指先で一枚を抜き取る。


「でも、そこから確かめればいい」


「私は、君が真相を知っているとは思っていない。人の心を読めるとも思っていない」


「はい」


「むしろ、読めない方がいい」


「なぜでしょう」


「答えを知っている人間は、確認しなくなるから」


 父の言葉を思い出す。証拠にはならない。それは正しい。


 そしてルシアンも、同じことを別の方向から言っているのだと気づいた。


「君は違うと言う。その先は分からないと言う。だから調べる。それでいい」


 エリーズの胸の奥で、何かが静かにほどけた。


 自分ができることは、答えを出すことではない。違う、と気づくこと。そして、分からないと言うこと。


「殿下、一つ伺ってもよろしいでしょうか。もし私が違うと言って、何もなかった場合は」


「何もなかった、と分かる。それだけだよ」


「誰かを疑わせてしまうことには」


「調べることと、疑うことは同じではない。少なくとも、私はそう分ける」


「間違っていたら、間違っていたで終わりだ」


「怒られませんか」


「誰に。君は私を何だと思っているんだ」


「王弟殿下です」


「そういう意味ではない」


 少しだけ声に柔らかさが混じった。


「間違えたと言って怒るなら、最初から聞かない。君に求めるのは、正解じゃない。気づいたことを、そのまま言うことだ」


 胸の奥に、その言葉が残った。


 気づいたことを言ってほしい、と頼まれたことは、これまでなかった。


「分かりました」


「ありがとう」


 礼を言われるほどのことをした実感がない。けれど今度は、「何もしていません」と否定するのをやめた。


「……はい」


 ドニがその様子を見ていた。昨日までの警戒は、もうほとんど感じられない。


「殿下。この件については、私の方で改めて連絡経路を確認します。同様の処理が他にないかも調べます」


「任せる」


 ルシアンは再び書類へ視線を落とす。


 それで面会が終わるのだと思った。エリーズが立ち上がろうとすると、ルシアンが顔を上げた。


「そうだ。明後日、王宮で小さな茶会がある」


 突然話が変わった。


「姉上が主催するものではない。私の方で何人か呼んでいる」


 エリーズは戸惑う。


「それが、何か」


「君も来る?」


「私が、ですか。なぜ」


「一度だけなら偶然かもしれない。二度目も、偶然かもしれない。なら、もう少し聞いてみたい」


 あまりにも実務的な理由だった。それなのに、不思議と嫌ではなかった。


「ただ、嫌なら断っていい」


 エリーズは目を瞬いた。


「断っても?」


「もちろん」


「考えてもよろしいでしょうか」


「いいよ。返事は明日で構わない」


 部屋を出たあとも、その招待について考え続けた。


 昨日までの自分なら、迷うまでもなく断っていたかもしれない。目立つ場所へ出る理由がない。


 それでも。王宮の廊下を歩きながら、エリーズは先ほどのやり取りを思い返した。


 小さな綻びを見つける。答えは、その先で誰かが確かめる。自分にできるのは、それだけ。


 けれど、「それだけ」でいいと言う人がいる。


 馬車へ乗り込む前、エリーズは足を止め、王宮を振り返った。


 まだ、自信と呼べるほどではない。ただ、ずっと役に立たないと思っていたものを、ルシアンは二度使った。


 そして二度とも。答えではなく、入口として。


 馬車が動き始めるまでの短い間、エリーズは静かに自分の手を見つめていた。


 これまでは、誰かに求められたら受け入れるだけだった。婚約もそうだった。


 けれど今回、ルシアンは言った。嫌なら断っていい。


 選ばれなかったばかりの自分に、初めて、選ぶ余地が渡されたような気がした。


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