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第4話 何が違った

翌朝、ベルモン伯爵邸へ王宮から使者が来た。


 朝食を終え、自室へ戻ろうとしていたエリーズは、玄関広間から聞こえた父の声に足を止めた。


 普段なら来客の応対は執事へ任せる父が、自ら玄関まで出ている。それだけで、普通の訪問ではないことが分かった。


「エリーズ」


 ほどなくして呼ばれ、彼女は階段を下りた。


 広間にはベルモン伯爵と、王宮の紋章を胸につけた侍従が立っていた。父の表情は硬い。


「ルシアン殿下がお呼びだ」


 一瞬、昨日の廊下が脳裏に蘇った。


「私を、ですか」


「ああ」


 父はそれ以上説明せず、侍従へ視線を移した。男は丁寧に頭を下げる。


「殿下より、本日の午後、王宮へお越しいただきたいとの仰せです」


「理由を伺っても?」


「昨日のお話について、とだけ」


 ――昨日のお話。それで十分だった。


 ドニの「問題ありません」という声。ルシアンの問い。そして、自分が口にした違和感。


「承知いたしました」


 答えると、侍従は再び一礼した。必要なことだけを伝え、男はほどなく屋敷を去っていった。


 玄関扉が閉まる。父はしばらく黙っていた。


「昨日、殿下と何を話した」


 声は低かった。怒っているわけではない。けれど、警戒している。


「廊下で偶然お会いしました」


「偶然?」


「正確には、殿下と側近の方がお話ししているところへ、私が通りかかりました」


「それだけで翌日に呼ばれるものか」


 エリーズは少し迷った。何も隠す必要はない。


「側近の方の声が、少し気になったのです」


 父の眉が寄る。この表情を、エリーズは知っていた。


「またか」


 短い言葉だった。胸の奥がわずかに沈む。


 幼い頃から、父も母も彼女の耳を理解していなかった。正確には、理解する必要がないと思っていた。


 声の高さが違った。いつもより返事が早かった。同じ人なのに呼び方が変わった。


 そんなことを口にするたび、「人を疑うようなことを言うな」と窘められた。


「お前は昔から、妙なところに気づく」


「はい」


「だが、それは証拠にはならん」


「分かっています」


「殿下の前で、余計なことは言うな」


 エリーズは顔を上げた。


「余計なこと、とは」


「憶測だ」


 父は即座に答えた。


「王宮では一つの言葉が家を巻き込む。誰かの声が違ったなどという曖昧な話で、人を疑わせるような真似はするな」


「疑ってはいません」


「相手がそう受け取るかどうかは別だ」


 それは正しい。エリーズもそう思った。だから今まで、気づいても黙ってきた。


「承知しました」


 答えると、父は少しだけ表情を緩めた。


「婚約の件もある。今は目立つべきではない」


 その一言に、別の痛みが重なった。


 ジュリアンとの婚約解消について、昨夜のうちにモロー侯爵家から連絡が入ったのだろう。


 父からまだ何も言われていなかったため、正式な話はこれからだと思っていた。


 エリーズはそれ以上何も言わず、自室へ戻った。


 午後になるまでの数時間は、妙に長かった。


 衣装を整えながら、昨夜の出来事を何度も思い返す。


 声が硬かった。息が止まった。返事が早かった。それ以上は分からない。何度考えても、同じところへ戻ってくる。


 もし今日、殿下がもっと詳しく尋ねてきたら。何を答えればいいのだろう。


 馬車で王宮へ向かう間も、その問いは消えなかった。


 昨日と同じ正門を通り、侍従の案内で王宮の東棟へ進む。


 夜会の華やかさはなく、昼の王宮はまるで別の場所に見えた。


 廊下を行き交うのは着飾った貴族ではなく、書類を抱えた文官や侍従たちが多い。


 エリーズは案内された扉の前で立ち止まった。


「ベルモン伯爵令嬢をお連れしました」


「入って」


 聞き覚えのある声が返る。扉が開いた。


 室内は思っていたより質素だった。壁一面に書棚があり、大きな机には何束もの書類が積まれている。


 その机の向こうにルシアンが座り、少し離れた場所にドニが立っていた。昨日とは違い、もう一人の側近はいない。


「お呼びにより参りました」


 エリーズが礼をすると、ルシアンが顔を上げた。


「急に呼んですまない」


「いいえ」


「座って」


 示された椅子へ腰を下ろす。ドニと目が合った。昨日の険しさはなかった。


「昨日は失礼いたしました」


 先に頭を下げたのはドニだった。エリーズは慌てて首を振る。


「そんな」


「いえ。結果として、私の確認不足でした」


 その声は落ち着いている。昨日の最初の報告とは、まるで違った。


 同じ「確認」という言葉を使っているのに、今は息が詰まらない。


「それで」


 ルシアンが書類を一枚持ち上げた。


「昨日の件だが、単なる書類の取り違えではなかった」


 エリーズは顔を上げる。


「違ったのですか」


「ああ」


 ドニが説明を引き取った。


「本来別々の棚へ収められるはずの書類が、同じ箱へ入れられていました。今のところ、故意かどうかは分かりません」


 ルシアンが書類を机へ置く。


「大きな話ではない。少なくとも、今のところは」


「でも、昨日のまま『問題ありません』で終わっていれば、この確認はされなかった」


「それは」


「君のおかげだ、と言うつもりはない」


 エリーズが否定するより先に、ルシアンが言った。


「君はそう言われるのを嫌がりそうだから」


 返事に困った。


「では、違う?」


「私が見つけたわけではありません。ただ、少し気になっただけです」


「だから、その『少し』について聞きたい。昨日は廊下だったから、十分に聞けなかった」


 エリーズの手が膝の上で重なる。


「何が違った?」


 その問いに、エリーズは瞬きをした。


「昨日も申し上げたと思います」


「声が硬かった。返事が早かった。そこまでは聞いた。でも私は、君がどうやってそれを違うと感じたのかを聞いていない」


 思っていなかった方向の質問だった。


「例えば、声の高さ?」


「それだけではありません」


「間の取り方?」


「それもあります」


「話す速さ?」


「場合によります」


「では何?」


 エリーズは言葉に詰まった。


 今まで感覚だけで捉えてきたものを、説明したことがない。聞けば分かる。ただ、それだけだった。


「分かりません」


「なら、今考えてみよう」


 ルシアンはドニへ視線を向ける。


「昨日と同じ報告をしてみて」


「殿下」


「今度は嘘をつく必要はない」


 ドニは明らかに気が進まない顔をした。しかし、やがて小さく息を吐く。


 机の脇へ移動し、昨日と同じように書類を手にした。


「では」


 ドニがルシアンを見る。


「確認したところ、問題ありません」


 昨日と同じ言葉。けれど違う。エリーズには、すぐに分かった。


「今は違います」


「何が」


「昨日は……『問題』の少し前で息が止まりました。今日は、その前に息を吸っています」


「それだけ?」


「いいえ。昨日は、『ありません』を少し強く言っていました。今日は同じくらいです」


「つまり昨日は、否定する部分を強く言った」


「そう、だと思います」


「それで何かを隠していると思った?」


「いいえ。そこは分かりません」


「でも気になった」


「はい」


「なぜ」


「普通に答えるなら、そこまで強く言う必要がないように聞こえたから……でしょうか」


 口にしてから、自信がなくなる。


「申し訳ありません。うまく説明できません」


「謝らなくていい。今のは十分分かる」


「では、別の言葉で」


 ルシアンが促すと、ドニは少し考えた。


「午後は財務院との打ち合わせがございます。その後、陛下への報告。夕刻にはヴァレンヌ公爵家からの使者と面会予定です」


 エリーズは耳を傾けた。特に何もない。少なくとも、そう感じた。


「どう?」


「普通だと思います」


「では、ドニ。今の中で一つだけ、予定を変えて話して」


「彼女を、試すのですか」


「そうなるね」


 あっさり認められ、エリーズの方が困った。


「殿下、私は」


「当てなくていい。違いがなければ、ないと言えばいい」


 その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。


 ドニがもう一度口を開く。


「午後は財務院との打ち合わせがございます。その後、陛下への報告。夕刻には王女殿下の使者と面会予定です」


 エリーズは聞いた。同じ速さ。同じ声の高さ。間も、ほとんど変わらない。


 少なくとも、自分には何も引っかからない。


「分かりません」


 ドニが一瞬、意外そうな顔をした。


「本当に? 変更した箇所があります」


「そうなのですか」


 エリーズは素直に驚いた。ルシアンが笑った。


「面白い」


「殿下」


「いや、失礼」


 口元に浮かんだ笑みを消さないまま、ルシアンはエリーズを見る。


「君は当てようとしないんだね」


「分からなかったので」


「普通なら、何か言いたくなる」


「間違える方が困ります」


「どこを変えたと思う? 推測でも」


「推測なら、どこでも言えます」


 エリーズは膝の上の指を組み直した。


「殿下へのご報告が実はないのかもしれません。財務院との打ち合わせが別の日なのかもしれません。最後のお相手だけ変えたのかもしれません。でも、それは聞こえたものではありません」


 室内が静かになる。ルシアンはすぐには返事をしなかった。ドニも、先ほどまでとは違う表情でエリーズを見ている。


「最後だ」


 やがてルシアンが言った。


「ヴァレンヌ公爵家を王女殿下に変えました」


「悔しくない?」


「何がでしょう」


「外したことが」


「当てるものだと思っていませんでした」


 ルシアンが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。


「では、もう一つ。昨日、ドニの声を聞いたとき。君は『嘘だ』とは言わなかった」


「分かりませんでしたから」


「書類が間違っているとも言わなかった」


「分かりませんでした」


「何かを隠しているとも?」


「それも」


「なら、君が分かったことは本当に一つだけなんだね」


「違った、ということだけです」


「それが何と違ったのか、理由は分からない。でも、違いは聞こえる」


「聞こえることがあります。必ずではありません。聞き逃すこともあります。間違えることも」


「それでも」


 ルシアンはそこで言葉を切った。


「入口にはなる。確認する理由にはなる」


 エリーズは顔を上げた。


 ルシアンは机の上の書類を指先で軽く叩いた。


「昨日、私にはドニの報告を疑う理由がなかった。彼は長く私に仕えているし、仕事も正確だ。でも、君が『違った』と言った。だから確認した」


「それは、殿下がお決めになったことです」


「そう。そこが大事なんだろうね。君の言葉だけで決める必要はない。でも、もう一度見る理由にはなる。それなら十分使える」


 ――使える。


 その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。


 これまで声の違いに気づいても、余計なことだと言われてきた。気にするな。人を疑うな。黙っていなさい。それが普通だった。


「殿下」


「何?」


「本当に、そんなものでよいのでしょうか。答えが分からないのに」


 ルシアンは少し考えるように視線を落とした。


「答えが分かる人間の方が怖いよ」


 エリーズは瞬きをした。


「人の声を聞いただけで全部分かる、と言う者がいたら、私はそちらを信用しない。君は分からないと言う。昨日も今日も」


「分からないものは、分かりませんので」


「それでいい」


 その声には迷いがなかった。エリーズは、ほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 褒められたわけではない。特別な力があると言われたわけでもない。


 それでも。これまで役に立たないと思っていたものを、誰かが役に立つかもしれないと言った。


「今日はこれを聞きたかった。呼びつけて悪かったね」


「いいえ」


 エリーズは立ち上がる。


「お役に立てたのでしたら」


 そこまで言って、自分で少し驚いた。役に立つ。自分の口からその言葉が出るとは思わなかった。


「立ったよ。昨日も」


「また何かあれば、聞くかもしれない」


「私に?」


「君以外に誰がいる?」


 ルシアンはそれ以上何も言わず、再び書類へ視線を落とした。


 面会が終わったのだと分かり、エリーズは深く礼をする。


「失礼いたします」


 扉へ向かう。その途中、ドニとすれ違った。


「ベルモン伯爵令嬢」


「はい」


「昨日の件ですが」


 ドニは少し言いにくそうに間を置いた。エリーズはその間に耳を向けた。けれど、不自然には感じない。


「ありがとうございました」


 素直な声だった。エリーズは小さく頭を下げる。


「私は何もしておりません」


「殿下と同じことを言いますが」


 ドニはわずかに苦笑した。


「確認するきっかけにはなりました」


 その言葉が、先ほどよりも深く残った。


 エリーズは王宮を出るまで、何度もそれを思い返していた。


 答えを知る必要はない。違いを見つける。そこから先は、確かめればいい。


 今まで自分は、理由が分からないのなら何の意味もないと思っていた。だから黙っていた。


 けれど、もし。分からないままでも、役に立つことがあるのなら。


 馬車へ乗り込む直前、エリーズは一度だけ王宮を振り返った。


 華やかな人間が集まり、選ばれる者たちが立つ場所。黒うさぎと呼ばれる自分は、隅にいるのが一番似合う。そう思っていた。


 それなのに今日、王弟殿下は自分を呼んだ。聞いた。何が違った、と。


 そして、分からないと答えた自分を追い返さなかった。むしろ、それでいいと言った。


 エリーズは馬車の座席へ腰を下ろした。扉が閉まり、車輪がゆっくり動き始める。


 胸の中にはまだ、婚約を失った痛みが残っている。それが消えたわけではない。


 けれど、その隣に。ほんの小さく、別のものが生まれていた。


 自分の聞いてきたものには、もしかすると意味があるのかもしれない。


 まだ、それだけだった。


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