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第3話 聞こえたもの

角の向こうから聞こえた「問題ありません」という一言が、なぜか耳の奥に残り続けていた。


 言葉そのものに不自然なところはない。王宮で政務に携わる者なら、一晩に何度も使うような報告だろう。


 けれど、その声は硬かった。


 緊張している、というのとも少し違う。何かを隠している、と言い切れるほどでもない。


 ただ、いつもの調子から外れている。


 もちろん、エリーズは声の主を知らない。知らない相手の「いつも」を知るはずもなかった。


 それでも違和感が残ったのは、言葉の途中でほんのわずかに息を呑み、それを押し殺すように最後まで言い切ったからだった。


 ――問題ありません。


 そう言いながら、本当は何かあるのではないか。


 そんな考えが一瞬浮かぶ。けれど、エリーズはすぐにそれを打ち消した。


 違う。自分に分かるのは、そんなことではない。


 聞こえたものに、自分で意味を足してはいけない。


 それを何度も自分へ言い聞かせてきた。


 エリーズはそのまま角を曲がらず、少しだけ足を止めていた。


 けれど、そこで立ち聞きを続けるのも礼を欠く。このまま戻ろう。


 そう思って踵を返しかけたところで、別の低い声が聞こえた。


「本当に?」


 短い問いだった。声の主は穏やかだったが、その一言には相手の答えを鵜呑みにしていない響きがあった。


「はい、殿下。予定通りです」


 先ほどの男が答える。


 ――殿下。


 その呼び方で、エリーズの足が完全に止まった。


「では、先方からの返答も届いている?」


「はい」


「確認した?」


「もちろんです」


 返事が早い。あまりに早い。


 エリーズは眉を寄せた。最初の「問題ありません」よりも、今の「もちろんです」の方が違和感は強かった。


 質問が終わるより少し早く答えようとしたような、そんな息の動きがあった。


 考えれば考えるほど、理由はいくらでも作れる。だから、意味を決めてはいけない。


 エリーズは息を殺した。


 そして次の瞬間、自分が立ち聞きをしていることに気づき、慌てて一歩下がった。


 靴の踵が、床に小さく触れる。乾いた音が廊下に響いた。


 会話が止まった。


 ――まずい。


「誰だ」


 低い声が飛んだ。


 逃げるわけにはいかない。エリーズは一度目を閉じ、それからゆっくり角を曲がった。


 そこには三人の男がいた。一人は見覚えがある。先ほど大広間で遠くから見た、国王の弟。ルシアン殿下だった。


 残る二人は側近らしく、片方は書類を手にしている。その男こそ、先ほどから報告をしていた声の主だった。


 エリーズはすぐに深く頭を下げた。


「申し訳ございません。立ち聞きをするつもりではございませんでした」


 沈黙。顔を上げるのが怖かった。


「君は」


 ルシアンの声がする。


「ベルモン伯爵家の令嬢か」


「……はい」


「エリーズ・ド・ベルモン」


 名まで知られている。その事実に、今度は別の意味で言葉を失った。


「申し訳ございません。すぐに失礼いたします」


「待って」


 踵を返そうとしたエリーズを、ルシアンが止めた。声は強くない。けれど、逆らいにくい響きだった。


 ルシアンは彼女をしばらく見た。


 人を見るというより、相手の中にあるものを静かに測っているような目だった。


「聞いていた?」


「少しだけ」


「どこから」


「『問題ありません』と仰ったところからです」


 報告をしていた男の表情がわずかに強張った。


「殿下」


「分かっている」


 ルシアンは片手を上げて制し、再びエリーズを見る。


「何か気になった?」


 エリーズは答えられなかった。それを自分が口にしてよいのか分からない。


「いいえ」


 そう答えかけた。けれど、声が出る直前に止まった。


 ――今、自分は何をしようとしたのだろう。


 気になったのに、気にならなかったと答えようとした。それは違う。


「……少しだけ」


 言い直した。側近の男が眉を動かす。


「何がです」


 声に硬さが混じった。


「申し訳ございません。ただ、何かがおかしいという意味では」


「では、何が気になったのです」


 男は一歩だけ前へ出た。


「私が嘘をついていると?」


「いいえ」


「ならば」


「ドニ」


 ルシアンが名を呼んだ。短い一言で、男――ドニは口を閉じた。


 エリーズはその名を覚えた。王弟の側近。それも、殿下がこうして直接制するほど近い位置にいる人物なのだろう。


「すまない。彼は仕事に厳しい」


「当然のことです」


「で、君は何を聞いた?」


 ――聞いた。


 その言葉に、エリーズは戸惑った。


 普通なら、「何を思った」と問うのではないだろうか。けれどルシアンは、何を聞いた、と言った。


 意味を求めるのではなく、事実だけを尋ねている。


「『問題ありません』と仰ったときに、少しだけ……声が硬かったように聞こえました」


「硬い?」


「はい」


「緊張していたということ?」


「分かりません」


 ルシアンの眉がわずかに上がる。


「緊張なのか、疲れているのか、それともただ急いでいただけなのか、私には分かりません」


「でも違った」


「……はい」


「何と比べて?」


 その問いは鋭かった。エリーズは一瞬答えに詰まる。


「正確には、普段との違いではありません。言葉の中で、そこだけ違いました」


 ルシアンは黙った。


「『問題ありません』と仰った前に、一度だけ息が止まりました。そのあと、最後まで一息で言い切ろうとされました」


 ドニが険しい顔になる。


「そんなことを」


「申し訳ありません。それだけではありません」


 言ってから、エリーズは自分で驚いた。ドニも同じように目を見開く。ルシアンだけが、表情を変えなかった。


「続けて」


「『もちろんです』とお答えになったときも、少し早かったです。殿下のご質問が終わる前に、息を吸っておられました」


 廊下に静寂が落ちた。


 ――自分は何を言っているのだろう。


 考えれば考えるほど無礼だった。


「申し訳ございません。ですが、本当に、それ以上は分かりません」


 エリーズは深く頭を下げた。


「嘘だという意味ではありませんし、何かを隠しているとも思っておりません。ただ、そこだけ、違って聞こえました」


 ルシアンはしばらく何も言わなかった。ドニも沈黙している。


 やがてルシアンが口を開いた。


「ドニ」


「はい」


「確認して」


「殿下、先方からの書状は確認したと言ったね」


「もう一度」


「しかし」


「なら、もう一度見ても同じ結果になるだけだ」


 ルシアンの声は穏やかだった。けれど、退く余地を残さない言い方でもあった。


 ドニは一瞬黙り、それから頭を下げる。


「承知しました」


 その返事には、今度は違和感がなかった。少なくとも、エリーズにはそう聞こえた。


 ドニがもう一人の側近を連れて去っていく。


 廊下に残されたのは、ルシアンとエリーズだけだった。


「殿下、私も」


「もう少しだけ」


 また止められた。エリーズは黙って待つ。


「今夜はもう戻る?」


「そのつもりです」


「一人で?」


「迎えの馬車があります」


「そう」


 ルシアンは一度頷いた。


「では引き止めて悪かった」


「いいえ」


 エリーズは礼をする。


「失礼いたします」


 数歩進んだところで、背後から呼び止められた。


「ベルモン伯爵令嬢」


 エリーズは振り返る。ルシアンは同じ場所に立っていた。


「君は、黒うさぎと呼ばれているそうだね」


 胸がわずかに冷えた。


 ――やはり知っている。あの蔑称は、王弟の耳にまで届いているのだ。


「……はい」


「嫌い?」


 そんなことを聞かれるとは思わなかった。


「好きではありません」


 少し迷って、正直に答えた。


「そう」


 ルシアンはそれ以上何も言わなかった。エリーズも、意味を尋ねなかった。


 ただ、そのときの彼の声だけは不思議と耳に残った。


 嘲る響きがなかった。慰めるような響きもなかった。ただ、知りたいと思って聞いた。そんな声だった。


 エリーズは再び礼をして、その場を離れた。


 長い廊下を歩きながら、今夜起きたことを一つずつ思い返す。


 ジュリアンに婚約解消を告げられた。自分は選ばれなかった。


 そして、誰にも必要とされないと思っていたその夜に、王弟殿下から初めて問いかけられた。


 何を思った。ではなく。何を聞いた。と。


 その違いが、胸の奥に小さく残った。


 それが何を意味するのか、今のエリーズにはまだ分からなかった。


 ただ一つ。今まで役に立たないと思っていたものを、初めて誰かが確かめようとした。


 ドニが去ったあとも、エリーズはすぐにはその場を離れられなかった。


「さっき」


 ルシアンが言う。


「何か気になったか、と聞いたとき、最初は『いいえ』と言おうとしたね」


 胸を見透かされたようで、エリーズは息を詰めた。


「……はい」


「どうして?」


 答えに困る。


 余計なことを言うな。


 気にしすぎだ。


 そんなことを、これまで何度も言われてきた。


「私が気づいたことは、たいてい、気にするほどのことではないと言われますので」


「だから、気になっても言わない?」


「はい」


「でも今日は言った」


「殿下が、何を聞いたかとお尋ねになったので」


 ルシアンは少し考えるように目を細めた。


「君の言ったことが正しいかどうかは、まだ分からない」


「はい」


「でも、確認する価値はあると思った」


 エリーズは顔を上げる。


「価値、ですか」


「違いを見つけたことに。答えそのものじゃなくて」


 その言葉は、胸の中へ落ちたあと、しばらく消えなかった。


 自分はずっと、答えを持っていないから役に立たないと思っていた。


 なぜ声が違うのか。


 何を隠しているのか。


 嘘なのか。


 そこまで分からないなら、何も分からないのと同じだと。


 けれど今、王弟は違うと言った。


 入口だけでも、確かめる価値がある。


「また何か気づいたら、言って」


「私が、ですか」


「君が」


 当然のように返される。


「ただし、分からないことは分からないでいい。今日みたいに」


 エリーズはゆっくり頷いた。


「……はい」


 その返事をした自分の声が、少しだけいつもと違うことに気づいた。


 緊張ではない。


 何なのかは分からない。


 自分の声でさえ、意味までは分からないのだ。


 だからこそ、今日のことをすぐ特別な何かに決めるのはやめた。


 ただ、初めて誰かに「また」と言われた。


 それだけを、覚えておこうと思った。


 帰りの馬車へ乗り込んでからも、エリーズは『また何か気づいたら』という言葉を何度も思い返した。命令ではなく、期待でもなく、次があることを前提にした言葉だった。自分にも、もう一度呼ばれる理由があるのかもしれない。その考えを、まだ信じ切ることはできなかった。


 それだけは、確かだった。


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