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第2話 選ばれなかった女

ジュリアンに促され、エリーズは人々の視線から離れるように大広間を出た。


 扉の向こうへ一歩進むだけで音楽は急に遠くなり、長い回廊には燭台の炎と二人分の足音だけが残る。


 ジュリアンはすぐには口を開かなかった。


 いつもなら、少なくとも歩き始めてからこれほど長く黙る人ではない。


 何かを考えている。言葉を選んでいる。それだけは分かった。


 廊下を抜けた先には、夜の庭を描いた油絵の掛かる、小さな談話室があった。


 夜会の途中で客が休むための場所なのだろう。長椅子と丸卓が置かれているが、幸い今は誰もいない。


 ジュリアンは室内へ入ると、開いた扉の向こうを一度確かめた。


「ここならいいだろう」


 そう言ってから、また黙った。


 エリーズは入り口から少し離れた場所で立ち止まる。


 壁に掛けられた小さな時計の針が、規則正しい音を刻んでいた。


 急かすつもりはなかった。言いにくい話なのだろう。それなら相手が口を開くまで待つ方がいい。


「エリーズ」


「はい」


「君には……まず、謝らなければならないと思っている」


 そこでジュリアンの声が一度途切れた。言葉の終わり方が不自然だった。


「何についてでしょうか」


「私たちの婚約についてだ」


 来ると思っていたはずなのに、胸の奥が少しだけ強く縮んだ。


「君も知っている通り、私たちの婚約は両家の父同士が決めたものだ」


「はい」


「幼い頃から決まっていた。だから私は、それを当然のことだと思ってきた」


 エリーズも同じだった。婚約することを自分で選んだ記憶はない。


 物心がついた頃には、いつかジュリアン・モローと結婚するのだと教えられていた。


 だから、好きか嫌いかを考えるより先に、彼の妻になる準備をしてきた。


 侯爵家の親族の名前を覚えた。モロー家の領地や収入について学んだ。使用人たちの出身地まで覚えた。


 そうすることが、自分の役割だった。


「ですが」


 エリーズは短く返した。


 けれどジュリアンは、その一言に押されるように息を吐いた。


「婚約を、解消したい」


 室内が静かになった。時計の音だけが聞こえる。


 ――婚約を、解消したい。


 意味は分かる。言葉も難しくない。


 ただ、その言葉が自分に向けられたものだと理解するまで、ほんの少し時間がかかった。


「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 自分でも驚くほど、声はいつも通りだった。


 ジュリアンはすぐには答えなかった。視線がエリーズから窓へ移る。


 夜の庭では、低く刈られた植え込みの向こうで白い花が揺れていた。


「私には、別に考えている人がいる」


 胸の奥が、今度ははっきり痛んだ。けれどエリーズは何も言わなかった。


「もちろん、君に落ち度があるわけではない」


 ジュリアンは続ける。


「ベルモン伯爵家との関係に問題があるわけでもない。父にも話したし、簡単なことではないと分かっている」


「それでも、私は……自分で結婚相手を選びたいと思った」


 その声には、先ほどまでとは違う強さがあった。迷いではない。決意だった。


「お相手は」


 尋ねてから、少し後悔した。知らない方がよかったのかもしれない。


 けれど、ジュリアンは答えた。


「セシル・ラロッシュ嬢だ」


 その名前を口にした瞬間だった。


 ほんのわずかに。本当に、注意していなければ気づかないほど小さく。


 ジュリアンの声が揺れた。


 ――なぜ。


 問いが浮かぶ。けれど答えはない。


 相手への後ろめたさなのか。エリーズの前で別の女性の名を出すことへのためらいなのか。


 分からない。いつもと違った。ただ、それだけだった。


「ラロッシュ伯爵家のご令嬢ですね」


「ああ」


「以前、何度か夜会でお見かけしたことがあります」


 明るい金髪と、淡い緑の瞳を持つ令嬢だった。


 エリーズとは対照的に、どこにいても自然と人が集まる。話すときは相手の目をまっすぐ見て、笑うときには周囲まで明るくなる。


「彼女とは、王女殿下の茶会で何度か会った」


 先ほど夫人が話していたことと繋がる。


 王女殿下の茶会。ジュリアンは最近よく招かれていると聞いた。その席で、彼女と親しくなったのだろう。


「エリーズ」


 ジュリアンが呼ぶ。少しだけ苦しそうな声だった。


「怒らないのか」


「怒る?」


 エリーズは一瞬、答えに迷った。


 悲しい。それは分かる。胸の中に穴が空いたような感覚もある。


 けれど怒りとなると、自分でもよく分からなかった。


「怒ってほしいのですか」


「そういうわけではない。ただ、君はあまりにも……」


 そこで言葉が止まる。


「なんでしょう」


「平静すぎる」


 エリーズは答えなかった。


 平静なのではない。どう反応すればいいのか分からないだけだった。


 泣けば婚約が戻るわけではない。怒れば彼が考えを変えるわけでもない。ジュリアンはもう決めている。


「あなたがお決めになったことなのでしょう」


「ああ」


「でしたら、私が怒っても変わりません。なら、受け入れます」


 ジュリアンの顔がわずかに曇った。安堵すると思っていたはずなのに、なぜ今、そんな顔をするのだろう。


「君は昔からそうだな。何でも受け入れる」


 ジュリアンの声に、少しだけ苛立ちが混じった。


「私が悪いのは分かっている。君を傷つけることも分かっている。だが君は、何も言わない」


「何を言えばよいのでしょう」


「それくらい、自分で考えてくれ」


 強い言葉だった。エリーズはわずかに息を止めた。


 ジュリアン自身も言い過ぎたと思ったのか、すぐに顔を伏せる。


「すまない。君を責めたいわけではない」


「分かっています」


 それも本当だった。少なくとも今の言葉に、悪意は感じなかった。


 ただ、彼は何かを求めている。泣くことか。怒ることか。婚約を終わらせないでほしいと頼むことなのか。


 分からない。声が教えてくれるのは、違いだけだ。答えではない。


「ジュリアン様」


「何だ」


「一つだけ伺ってもよろしいですか。私との結婚が、嫌だったのですか」


 自分から聞いたことに、エリーズは少し驚いた。ずっと知りたくなかった問いだった。


 ジュリアンはしばらく黙っていた。


「嫌だったわけではない」


 静かな声だった。


「君は穏やかだし、家柄にも問題はない。妻として必要なことも学んでいる。父も君を評価している」


 妻として。必要なこと。家柄。


 どれも間違っていない。けれどエリーズは、胸の奥に小さな冷たさが広がっていくのを感じた。


「では、なぜ」


「君といると、自分まで静かになっていく気がする」


 ジュリアンは困ったように笑った。


「悪い意味ではない。だが、私はもっと華やかな場所で生きたい。人と会い、話し、王都でも家の立場を広げたい。君はそういうものを望まないだろう」


「望んではいません」


「だからだ」


 ジュリアンの声が、今度ははっきりした。


「君が悪いんじゃない。ただ、隣に立つには地味すぎるんだ」


 その言葉だけが、妙に鮮明に残った。


 隣に立つには地味すぎる。


 黒うさぎ。大人しい。華がない。目立たない。どれも新しい言葉ではない。


 それでも、婚約者から言われた一言だけは、今まで聞いてきたどんな陰口より深く入り込んだ。


「そうですか」


 やっと、それだけ答えた。


「正式な手続きについては、両家で話すことになる」


「はい」


「父からベルモン伯爵にも話が行くだろう」


「分かりました」


「社交界には、すぐには広めないつもりだ」


「お気遣いありがとうございます」


 エリーズがそう答えるたび、ジュリアンの表情が少しずつ硬くなる。それでも、他に何を言えばよいのか分からなかった。


 ――本当に、これでいいのだろうか。


 簡単なはずなのに、胸が痛い。


「戻ろうか。夜会の途中で二人とも長く消えていれば、かえって噂になる」


 扉へ向かおうとしたとき、ジュリアンが再び口を開いた。


「エリーズ。セシルのことは、恨まないでほしい」


 まただ。その名が出た瞬間だけ、わずかに声が揺れる。


「恨む理由はありません。あなたがお決めになったのでしょう。でしたら、彼女を責める理由もありません」


 ジュリアンは返事をしなかった。その沈黙の中に何があるのか、エリーズには分からない。


 二人は再び大広間へ戻った。


 扉が開くと、先ほどまで遠かった音楽と話し声が一気に押し寄せてくる。


「私は知人に挨拶をしてくる。君はどうする?」


「少しここにいます」


「そうか」


 彼は一度だけエリーズを見て、それから何も言わず、人の輪へ戻っていく。


 少し先で誰かに呼び止められ、すぐにいつもの笑顔へ戻った。


 もう自分の婚約者ではなくなる男。そう考えてみても、まだ現実味はなかった。


 彼は華やかな場所で生きたいと言った。自分は、それを望まない。


 彼の言葉だけを取れば、二人は合わなかったのだ。それなら婚約解消は正しい。


 なのに胸が痛い。


 エリーズは人目を避けるように、再び壁際へ移動した。


 いつもの場所だった。誰かの邪魔にならない場所。呼ばれなければ、誰とも話さなくてよい場所。


 さきほどまでと、何も変わっていない。けれど今は、その場所が少しだけ違って見えた。


 婚約があるから選ばれていたのではない。最初から、ジュリアンは自分を選んでいなかった。


 両家が選んだ相手を受け入れていただけだった。そして今日、彼は初めて自分で選んだ。


 その選択から外れたのが、エリーズだった。


「……そうなのね」


 誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


 黒うさぎと呼ばれることには慣れている。地味だと言われることにも慣れている。


 けれど、選ばれなかったという事実には、まだ慣れていなかった。


 エリーズは静かに息を吐いて、その場を離れた。


 扉を開けた先、廊下を歩き、人の少ない方へと足を向ける。


 少し先の角を折れようとしたとき、その向こうから、誰かの声が聞こえた。


「――問題ありません」


 男の声だった。誰かに向かって、短く、事務的に。


 エリーズは、その一言に、思わず足を止めた。


 言葉自体には何もおかしなところはない。よくある報告の一言だ。


 けれど、その「問題ありません」という一言だけ、妙に――何かを押し込めたような、硬い響きがあった。


 自分の婚約が解消された直後だからこそ、こんな小さなことに引っかかるのかもしれない。


 エリーズは一度そう思い直した。


 その日の出来事を、エリーズは夜になってもう一度だけ思い返した。すぐに答えを出さず、聞こえたことと自分の考えを分けておく。それだけでも、以前とは少し違う一日になった。


 それでも、その声の違和感は、耳の奥に小さく残り続けていた。


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