第1話 黒うさぎ
王宮の大広間には、春の終わりを惜しむように白い花が飾られ、磨き上げられた床へ無数の燭台の光が落ちていた。
音楽に合わせて色鮮やかな衣装が行き交うたび、絹の裾と宝石のきらめきが重なり、夜会そのものが一枚の絵のように見える。
その華やかな景色の端で、エリーズ・ド・ベルモンは壁際に立ち、手にしたグラスへほとんど口をつけないまま人の流れを眺めていた。
黒に近い髪は飾り気なく結い上げ、瞳も同じように深い色をしているため、遠目には表情まで沈んで見えるらしい。
今夜のドレスも伯爵家の令嬢として恥ずかしくない品ではあったが、淡い灰青は人目を引く色ではなく、胸元の飾りも控えめだった。
豪奢な装いを好まないのは自分の趣味でもあったし、何より、どれほど飾ったところで似合わないと昔から言われ続けてきた。
だから今さら、夜会の中心に立つ令嬢たちと比べて傷つくほど、エリーズは自分に期待していなかった。
少し離れたところで、若い令嬢たちの笑い声が上がる。
「見て。今夜も黒うさぎが壁にいるわ」
「本当に。いつ見ても同じね。あれでモロー侯爵家に嫁ぐなんて、少し不思議だわ」
「ジュリアン様はお優しいもの。きっと家同士のお話なのでしょう」
聞こえないように抑えたつもりなのだろうが、その声は音楽の切れ目を縫って、十分すぎるほど耳まで届いた。
続いた含み笑いに、エリーズは視線を動かさなかった。
黒うさぎ。
いつ頃からそう呼ばれるようになったのか、もう正確には覚えていない。
黒髪と黒い瞳、それに背の低さと大人しい性格を合わせれば、名づけた者にとっては気の利いた冗談だったのだろう。
反論したことは一度もなかったし、傷ついた顔を見せたこともなかったため、呼び名だけが便利に残った。
社交界では、嫌がる者ほど面白がられ、黙っている者ほど勝手に意味を与えられる。
それなら、何も返さないのが一番早い。
そう覚えたのは、十五歳で初めて王宮の夜会へ出た頃だった。
「エリーズ」
背後から名を呼ばれ、彼女はゆっくり振り返った。
ジュリアン・モローが、二人の青年を伴ってこちらへ歩いてくる。
淡い金の髪に整った顔立ち、背も高く、立っているだけで人目を引く彼は、モロー侯爵家の嫡男にふさわしい華やかさを持っていた。
「こんなところにいたのか」
「ええ。少し人が多かったので」
ジュリアンはそう言いながら、エリーズの隣ではなく半歩前に立った。
その位置が偶然ではないことを、彼女はもう知っている。
二人で並んだとき、彼はほとんどいつも同じように少し前へ出る。
婚約者同士だと示すほど近くはいるが、並んで見られることは避けたいという、説明されなくても分かる距離だった。
「モロー殿、こちらが?」
同行していた青年の一人が、興味を隠さずエリーズを見る。
「ああ。婚約者のエリーズ・ド・ベルモンだ」
ジュリアンの声は滑らかだった。
名を紹介するときの調子も、肩書きを告げる間の取り方も、いつもと変わらない。
けれど最後に、ほんの少しだけ息が抜けた。
「ベルモン伯爵令嬢ですか。お噂は」
青年は言葉を途中で止め、無難な笑みを作った。
何の噂かは、尋ねる必要もない。
「初めまして」
エリーズが頭を下げると、二人の青年も礼を返した。
そのまま短い挨拶が続いたが、話題はすぐに狩猟や領地経営へ移り、エリーズに向けられる言葉はなくなった。
ジュリアンも気にする様子はなく、彼らの話へ自然に加わっている。
だからエリーズは、会話の邪魔をしないよう半歩だけ後ろへ下がった。
その瞬間、ジュリアンの肩からわずかに力が抜ける。
――やはり。
胸の奥で浮かんだ言葉を、エリーズは表には出さなかった。
自分が横に立っていることを、彼は好まない。
それはずっと前から分かっていたし、本人も遠回しに口にしたことがある。
「もう少し明るい色を着たらどうだ」
昨年の冬、彼はそう言った。
「君はただでさえ地味なんだから、せめて衣装くらい華やかにした方がいい」
悪意のある声ではなかった。むしろ助言をしているつもりなのだと、その響きから分かった。
だからこそ、エリーズは傷ついたと言えなかった。
夫婦に必要なのは、華やかさではない。家同士の信頼と、互いに役割を果たす意思があればよい。
そう教えられて育ち、自分でもその通りだと思っている。
それでも、隣に立つことを喜ばれない事実だけは、何度経験しても胸の奥に薄い冷たさを残した。
しばらくして、話が一段落したところで、ジュリアンが振り返った。
「エリーズ、私は向こうへ行く。モロー家と縁のある方々に挨拶をしてくる」
「分かりました」
「人の多いところへ無理に出なくてもいい。君はこういう場が得意ではないだろう」
気遣うような言い方だった。けれど、その言葉の最後には安堵が混じっていた。
――連れていかなくて済む。
エリーズには、そう聞こえた。
「お気遣いありがとうございます」
微笑んで答えると、ジュリアンも満足そうに頷き、青年たちとともに広間の中央へ戻っていく。
その背中を見送りながら、エリーズはグラスの縁へ指を添えた。
彼が嘘をついたとは思わない。人混みが苦手なのも事実だし、壁際にいる方が楽なのも本当だった。
ただ、同じ言葉の中に別の気持ちが混ざっていることがある。
声が少し高くなる。返事までの間が、普段より長くなる。呼び慣れた人の名だけ、妙に丁寧になる。
何が正しいのかは分からない。嘘なのか、本当なのかも分からない。
ただ、いつもと違う。それだけが、不思議なくらい耳に残った。
幼い頃、母に「そんなところばかり気にしてはいけません」と窘められたことがある。
相手の言葉を疑う癖は、伯爵令嬢として美しいものではない。
そう言われてから、エリーズは気づいても口にしなくなった。
聞こえた違いには、それぞれ理由があるのだろう。
けれど理由を知らない自分が勝手に意味を決めれば、ただ人を疑うだけになる。
だから聞く。覚えておく。それ以上はしない。
それが、エリーズが長い時間をかけて身につけた習慣だった。
「ベルモン伯爵令嬢」
別の声に呼ばれ、エリーズは顔を上げた。父と付き合いのある年配の夫人が、扇を片手に近づいてくる。
「今夜もお一人なのね」
「婚約者はご挨拶へ参りましたので」
「あら。置いていかれたの?」
夫人は笑った。言葉だけなら冗談だったが、語尾に浮いた軽さが、純粋な親しみではないことを知らせていた。
「人が多いので、こちらで待つことにしました」
「まあ、あなたらしいわね。大人しくしていれば波風も立たないもの」
褒めているようで、褒めてはいない。けれど、そんなことも珍しくなかった。
「ありがとうございます」
エリーズが礼を返すと、夫人は少しだけ拍子抜けした顔をした。
傷つくことを期待されていたわけではないだろう。ただ、自分の言葉が相手へどう届いたかを確かめたかったのかもしれない。
「そういえば、モロー侯爵家のご子息は最近よく王女殿下の茶会に呼ばれているそうね」
「そうなのですか」
「ご存じないの?」
夫人の声が、少し弾んだ。
「ええ。ジュリアン様のお付き合いについて、すべて伺っているわけではありませんので」
「まあ。それは……信頼していらっしゃるのね」
一瞬だけ間があった。その間の中に、何か別の話題が隠れている。
けれどエリーズは尋ねなかった。夫人が自分から語らないことを、こちらから引き出す理由はない。
やがて夫人は別の知人を見つけ、そちらへ歩いていった。
残されたエリーズは、ようやくグラスの水を一口飲む。喉は乾いていたが、冷たい水はほとんど味がしなかった。
王女殿下の茶会。ジュリアンはそんな話をしたことがなかった。
もちろん、だから何かがあるとは限らない。婚約者だからといって、互いの行動をすべて報告し合う必要はない。
そう思いながら、なぜか胸の奥に小さな棘が残った。
――何かあるのだろうか。
すぐに、自分でその問いを打ち消す。聞こえていないものまで想像してはいけない。
声の違いに気づくことと、相手の心を知ることは別なのだから。
広間の中央で笑い声が上がった。ジュリアンが誰かと話しているのが見える。
彼の周囲には華やかな令嬢たちもいて、その中の一人が何かを言うと、ジュリアンは声を立てて笑った。
その笑い方を、エリーズは自分の前でほとんど聞いたことがない。
胸の奥が、今度は棘ではなく、静かに沈むような痛みに変わった。
それでも彼女は視線を逸らさなかった。
婚約は家同士の取り決めで、恋物語ではない。選ばれた理由が愛情でなくても、結婚してから穏やかな関係を築けばいい。
何度もそう考え、何度も自分を納得させてきた。
けれど本当は、たった一度でいいから、あんなふうに自分を見て笑ってほしかった。それだけだった。
大きな望みではないつもりでいた。けれど、叶わない望みほど、人は小さく言い換えるものなのかもしれない。
曲が終わり、拍手が広がる。次の曲が始まるまでのわずかな間に、人々は組み合わせを変え、また新しい会話へ移っていった。
その流れの中で、エリーズだけが同じ場所に残っている。
誰にも迷惑をかけないように。誰かの邪魔にならないように。
呼ばれたときだけ返事をし、求められたときだけ前へ出る。それで十分だと思っていた。
「黒うさぎって、誰が最初に言ったのかしらね」
近くを通った令嬢の声がした。
「さあ。でも、よく似合っているじゃない。小さくて、大人しくて、隅にいるところまで」
また笑い声が重なった。エリーズはグラスを持つ指に、少しだけ力を込めた。
慣れている。そんな言葉で傷つく年齢ではない。
そう思った直後、別の声が聞こえた。
「でも、モロー様は本当にあの方と結婚するのかしら」
「侯爵家同士でもないし、もっと良いお話はいくらでもありそうなのに」
「ベルモン伯爵家との約束は古いそうよ。断りにくいんじゃない?」
エリーズは呼吸を止めかけた。自分でも理由は分からなかった。
黒うさぎと呼ばれることより、そちらの方が痛かった。
ジュリアンが自分を選んだわけではないことなど、最初から分かっていたはずなのに。
それでも他人の声で言葉にされると、曖昧にしていた事実だけが輪郭を持つ。
自分は選ばれたのではない。ただ、決められていただけだ。
そのとき広間の入口で人の動きが変わり、ざわめきが波のように奥から広がった。
国王陛下ではない。それでも人々が自然に道を空けていくほどの身分を持つ人物が、数人の側近を伴って入ってくる。
「ルシアン殿下だわ」
誰かが小さく囁いた。
国王オーギュストの弟、ルシアン殿下。王位継承権を持ち、政務にも深く関わる王弟だということは、社交界に疎いエリーズでも知っている。
ただし、これまで直接言葉を交わしたことは一度もなかった。遠くから見た印象では、華やかさよりも静かな鋭さを持つ人だった。
人々が次々と挨拶へ寄っていく。エリーズは自分には関係のないことだと思い、邪魔にならないようさらに壁際へ寄った。
ルシアン殿下の一行が広間を横切る。側近の一人が何かを報告し、殿下が短く返事をする。その声までは聞き取れない距離だった。
けれど、一瞬だけこちらへ向いたルシアン殿下の視線と、エリーズの目が重なった。
偶然だろう。人の多い広間では、視線が合うことくらい珍しくない。
エリーズはすぐに目を伏せた。王弟殿下が、自分のような壁際の令嬢を気に留める理由などない。
――選ばれない側にいる方が、ずっと簡単だから。
胸の内でそう結論づけ、エリーズは静かに息を吐いた。
しばらくして、人の輪を離れたジュリアンが、こちらへ戻ってきた。
「待たせたね」
「いいえ」
エリーズが答えると、ジュリアンは一度唇を結んだ。それから周囲を見回し、人の少ない廊下のほうへ目を向ける。
「エリーズ」
今度の声は、先ほどとは違っていた。ほんのわずかに低く、言葉を選ぶ前の硬さが混じっている。
長い付き合いだからこそ分かる程度の、小さな変化だった。
エリーズはグラスを持った指に、知らず力を込めた。
――何かを言うつもりなのだろう。
楽しい話ではない、と断定することはできない。けれど、彼がいつものように気軽な会話を始めるときの声ではなかった。
「少し、話があるんだ」
その一言だけで、夜会のざわめきがほんの少し遠のいたように感じられた。
エリーズは何も尋ねず、ただ頷いた。
聞こえた違いの意味を、まだ知る必要はない。
そう思いながらも、胸の奥ではすでに、何かが静かに終わろうとしていた。
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