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忘れてなんか、いない

第三章 忘れてなんか、いない

春が来た。

大学を卒業した僕は、小さな会社へ就職した。

満員電車。

慣れないスーツ。

毎日怒られて、帰る頃には終電が近かった。

部屋へ帰れば、ベッドに倒れ込む。

朝になれば、また会社へ行く。

そんな毎日だった。

「北村くん、飲み行くぞ。」

「……はい。」

断れなかった。

仕事を覚えるには付き合いも必要だと、先輩は笑う。

帰宅したのは夜中の一時。

スーツのままベッドへ倒れた。

スマホが震える。

画面には病院からの通知。

『面会時間変更のお知らせ』

そういえば、最近行けてないな。

そう思った。

でも、その通知を閉じると、別の通知が重なる。

取引先。

会議。

母からの電話。

気付けば、病院の通知は下の方へ埋もれていた。

ある日、実家へ帰ると、母が言った。

「最近、あの子のところ行ってる?」

箸を持つ手が止まる。

「あ……。」

名前が出てこなかった。

頭の中では顔が浮かぶ。

白い病室。

窓際。

折り紙。

笑顔。

なのに。

名前だけが思い出せない。

「ほら、高校の頃の。」

「あぁ……。」

曖昧に笑ってごまかした。

「忙しくて。」

母は何も言わなかった。

「そう。」

その一言だけだった。

病室では。

少女が窓を開けていた。

春風がカーテンを揺らす。

「今日は来るかな。」

看護師は困ったように笑う。

「きっと忙しいんですよ。」

「うん。」

少女は笑う。

「知ってる。」

知っている。

だから責めない。

責められない。

でも。

待ってしまう。

毎週。

毎週。

毎週。

ノートを開く。

『四月三日』

今日も来なかった。

社会人って忙しいんだって。

看護師さんが教えてくれた。

だから仕方ない。

でもね。

駅で新しいスーツを見るたび、君に似てる人を探しちゃう。

全然似てないのに。

馬鹿だよね。

『五月九日』

折り紙の鶴が少し色あせてきた。

埃もついてる。

新しいの、折ってほしいな。

『六月一日』

夢を見た。

海へ行く夢。

君と歩いてた。

起きたら病室だった。

少しだけ泣いた。

一方、その頃の僕は。

会社のデスクで資料をまとめていた。

「北村。」

「はい。」

「来月から大阪支社な。」

「え?」

突然の辞令だった。

引っ越し。

新しい職場。

覚えることが山ほどある。

病院のことを思い出す余裕なんて、どこにもなかった。

大阪での生活が始まって一年。

休日。

部屋の掃除をしていると、小さな箱が出てきた。

高校時代の思い出箱。

卒業アルバム。

文化祭の写真。

部活の寄せ書き。

そして、一枚の折り紙。

青い蝶。

「……。」

息が止まる。

指先が震えた。

胸の奥が締めつけられる。

「そうだ。」

思い出した。

全部。

病室。

約束。

毎週会いに行くと言ったこと。

彼女の笑顔。

最後に会った日のこと。

「僕……。」

何してたんだ。

忘れてなんか、いない。

そう思っていた。

違う。

忘れていた。

生きることに必死で。

仕事に追われて。

「あとで」

「落ち着いたら」

「今度」

その言葉を繰り返すうちに、一番大切だった約束を、僕は置き去りにしてしまっていた。

僕は青い蝶を握りしめたまま、病院の名前をスマホで検索した。

検索結果は表示されなかった。

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