第九話 王子の過去
その日の撮影は、アイリスが屋敷を出る場面だった。
婚約破棄の後、実家の執事長に「お荷物をおまとめください」と告げられる場面。
エレナの演技は素晴らしかった。
泣かない。
嘆かない。
ただ静かに頷いて、小さな鞄をひとつ持って廊下を歩く。
その背中を、カメラが追う。
監督が珍しく口を挟まなかった。
バルト・ギャグウェルが撮影中に黙っている場面は、この仕事が始まって以来初めてのことだ。
「カット」の声がかかるまで、撮影所全体が息をひそめていた。
休憩に入ってから、私はセットの端に立って、さっきの場面を反芻していた。
アイリスが廊下を歩く、あの背中。
エレナが作り出したものだが、それは確かにアイリスだった。
四年前に私が書いたアイリスが、そこにいた。
感動というより、不思議な感覚だった。
自分が書いた人物が、自分の手を離れて存在している。
「いい演技でした」
殿下が隣に来た。
「はい。エレナのアイリスは想像以上で」
「先生の書いたものが良いからだと思います」
「……ありがとうございます」
「アイリスが屋敷を出る場面は、最初から書こうと決めていましたか」
少し意外な問いかけだった。
「最初から決めていました。婚約破棄された後、実家にも居場所がなくなる場面は絶対に入れたかった」
「なぜですか」
「居場所がなくなることの方が、婚約破棄そのものより辛いと思ったから。相手への失望より、自分の立つ場所がなくなることの方が、もっと根本的な痛みで」
殿下がしばらく黙った。
「……そうですね」
その「そうですね」は、いつもと少し違う響きがあった。
遠いところから来る言葉のような、そういう感触があった。
「殿下は原作の中で、どの場面が一番好きですか」
「アイリスが一人で借りた小さな部屋で、窓から外を眺める場面です」
私は少し驚いた。
大きな感情が動く場面ではない。
ただアイリスが窓の外を見ているだけの、静かな一幕だ。
「……あの場面は連載時代からですか」
「はい。あの場面を読んだとき、初めてこの作品を続けて読もうと思いました」
「なぜあの場面が」
殿下がすぐには答えなかった。
セットの向こうでスタッフが次の準備を進めている。
遠くでガルドの指示する声が聞こえた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「私は第二王子です」
唐突な言葉だった。
「第一王子である兄が王位を継ぐことは、生まれたときから決まっていました。それは当然のことで、不満もない。ただ」
殿下が少し間を置いた。
「自分がどこに立つべきか、何をすべきかが、しばらくわからない時期がありました。十九か二十の頃です」
その頃というのは、ちょうど私が連載を始めた時期に近い。
「第一王子が優れた方で、私が補佐として動く分には何も困らない。ただ、自分だけの何かを持てているかどうか、という問いに、答えが出なかった」
殿下の視線が遠くに向いていた。
「そんな時期に、アイリスの話を読みました。婚約破棄されて、家を追われて、役割も肩書きも何もなくなった彼女が、小さな部屋の窓から外を眺めながら、ここが今の自分の場所だと思う場面。あそこを読んで、そうか、と思った」
「……そうか、と」
「何もなくても、自分の立つ場所は自分で決めていい。誰かのために存在するのではなく、自分のために立っていい。そういうことが、あの場面に書いてありました」
私は何も言えなかった。
あの場面を書いたのは深夜で、アイリスが窓の外の小さな灯りをひとつ見つける場面をどうしても入れたかった。
大げさな希望ではない。
ただ小さな灯りが一つあれば、今夜は眠れるという、そういう場面だ。
それが誰かにそういう形で届いていたとは、考えたこともなかった。
「あの場面も、実は連載版にしかないんです」
「……書籍化で削除されましたね」
「地味すぎると言われて。自分でも、テンポが悪いかと思って消しました。でも書いていたとき、あの場面だけは絶対に必要だと確信していた」
「そうだったんですね」
殿下が静かに呟いた。
「削除されたことを惜しいと思う理由が、よくわかります」
「……殿下がそう言ってくださるなら、あの場面を書いたことは正しかったと思えます」
「正しかったです」
迷いなく言ってくれた。
その声の確かさが、不思議なくらい胸に届いた。
しばらく二人で黙って、撮影所の遠い喧騒を聞いていた。
監督がスタッフに何かを指示している声がする。
ガルドが「何故ここに馬を連れてくるんです」と言っている声も聞こえた。
今日は馬らしい。
昨日がドラゴンで、今日が馬だ。
「……馬も原作にはいませんね」
「いません」
「行かなければいけませんね」
「行かなければいけません」
でもすぐには動けなかった。
もう少しだけ、ここにいたかった。
そういう気持ちが確かにあった。
殿下も同じだったのかどうかはわからない。
ただ、二人ともしばらくそこから動かなかった。
現場に戻ると、馬はすでに撤収されていた。
エリスが「先生、お顔の色がいつもと違います」と囁いた。
「違いますか」
「なんというか……穏やかです」
「視察の疲れが取れてきたのかもしれません」
エリスが何かを言いかけて、止めた。
今日はそれでよかった。
うまく言葉にできないことは、言葉にしなくていい。
そういうことを、アイリスを書くときに私自身が一番よく知っていたはずだった。
帰り道、頭の中に先ほど殿下の言った言葉が残っていた。
何もなくても、自分の立つ場所は自分で決めていい。
それを書いたとき、私は自分のために書いていた。
新人作家で、まだ何も持っていなかったあの頃。
あの言葉がアイリスのものであり、同時に自分自身のものでもあった。
そしてそれが、あの時期の殿下にも届いていた。
作品が誰かに届くということの意味を、今日改めて考えた。
それはこれほど真剣に映画化と戦っている理由でもある。
アイリスの物語は、誰かの話だ。
だから守らなければならない。
帰り道が、いつもより少しだけ明るく見えた。




