第八話 実質デート
ロケ地の視察は、殿下の提案で決まった。
「原作の舞台となった場所を実際に確認することで、映像化の際に活かせる要素が見つかるかもしれません。先生にも同行していただけますか」というのがその理由だ。
理にかなった話だと思った。
仕事だ。
立派な仕事である。
当日の朝、王都劇場の前でエリスと合流すると、彼女は普段とわずかに違う表情をしていた。
「エリス、何か」
「いいえ、なんでもありません。先生、今日は一日ご視察ですので、メモ帳と頭痛薬はカバンに入れておきました」
「……ありがとうございます」
「楽しんでください」
「視察ですが」
エリスが微かに微笑んだ。
何かを含んだ笑みだ。
そこに殿下が来た。
「おはようございます、先生」
「おはようございます、殿下。エリスも来るのでは」
「私は本日、別の業務がありまして」
エリスが一歩引く。
つまり今日は二人だということだ。
殿下と二人で、一日。
仕事だ。
仕事なので問題ない。
「では行きましょう、先生」
「はい」
歩き出した背後で、エリスが何かを呟いた。
聞こえなかったが、おそらく業務連絡ではない気がした。
最初に向かったのは、王都の旧市街にある石畳の広場だ。
原作の中で、アイリスが婚約破棄の知らせを受けた後に一人で歩いた場所はここがモデルになっている。
古い石造りの建物が並び、中央には小さな噴水がある。
昼前の柔らかな光が石畳に落ちていた。
「ここです」
思わず呟いた。
「原作に出てくる広場ですね」
「はい。アイリスがここを歩くとき、噴水の音だけが聞こえていて……という描写を書いたんですが、実際に来てみると、確かに周囲の音が少なくて静かで」
「書いたときにここへ来たことは」
「ありませんでした。偶然似ていたんです。でも来てみてよかった。映画でもここを使ってもらえたら」
殿下が小さく頷き、メモを取った。
その横顔が、いつもより穏やかな気がした。
気のせいかもしれないが。
次は、原作で王子が初めてアイリスに言葉をかける橋の場面のモデルを探した。
王都の古い石橋をいくつか歩いて回り、水面への光の落ち方や欄干の高さを確認する。
これは完全に仕事だ。
メモを取りながら、殿下と並んで橋の上に立つ。
川面が光を跳ね返してまぶしかった。
「あの場面は、王子が初めて素のままで話すところですね」
殿下がそう言った。
「そうです。それまでずっと礼儀正しかった王子が、アイリスを見て咄嗟に本音が出てしまう場面で。あそこを書くのが一番楽しかったんです」
「なぜあの場面に?」
「取り繕った言葉より、うっかり出た言葉の方が信用できると思って。王子という立場の人が、一瞬だけ王子じゃなくなる瞬間を書きたかったんです」
殿下がしばらく黙った。
川の流れを見ながら、何かを考えているようだった。
「……なるほど」
それだけ言ったが、その「なるほど」は、少し別の意味を含んでいるような気がした。
気のせいかもしれないが。
昼頃、石畳の路地に面した小さな食堂を見つけた。
原作でアイリスが立ち寄る食堂に雰囲気が似ている。
「ここで昼食にしますか」
「はい。原作の食堂のモデルになりそうです」
仕事の話だ。
仕事として食事を取る。
ただ店に入ってみると、温かくて、静かで、二人掛けの小さなテーブルが窓際にあって、外の石畳が見えた。
「雰囲気がありますね」
「原作そのままです。アイリスが泣きながら紅茶を飲む場面を書いたとき、なんとなくこういう場所を想像していました」
「泣きながら紅茶を飲む場面は、書いていて辛くなりませんでしたか」
「辛いというより……アイリスが泣くべき場面だとはっきりわかっていたので、迷いはなかったです。辛いのはアイリスであって、私は少しだけ後ろから見ている感じで」
「作者というのはそういうものですか」
「そういうものだと思います。登場人物と同一化するのではなくて、傍にいる感覚」
殿下が少し考えながら、コーヒーを一口飲んだ。
「だから先生の書く人物は、自立しているんですね。作者の感情を代弁するのではなく、その人自身の感情で動いている」
言葉が出なかった。
そういうことを、意識してやっていたわけではなかった。
でも言われてみると、確かにそうだと思う。
「……殿下は、どうしてそんなによくわかるんですか」
「よく読むからだと思います」
さらりと言った。
照れもなく、自慢でもなく、ただ事実として。
なぜかその答えが、妙に可笑しくて温かかった。
午後の視察を続けていた頃、石畳の段差で私が少しよろめいた。
殿下の手が、反射的に腕を支えた。
一瞬のことだった。
「大丈夫ですか」
「……はい、すみません」
殿下はすぐに手を離した。
私も特に何も言わなかった。
ただ、心臓が少し速くなった気がした。
仕事の緊張だろう。
視察は体力を使うものだ。
旧市街の路地を曲がったところで、私は見慣れた顔を見つけた。
若い女性が、広場のベンチに座って魔導端末を猛烈な勢いで操作している。
原作ファンクラブ会長の、セシリアだ。
彼女も私に気づいた瞬間、目が丸くなった。
そして私の隣に立つ殿下を見て、再び端末を見て、また私を見た。
「せ、先生……!」
「こんにちは、セシリア。ロケ地の視察中で」
「そ、そうなんですね、視察……」
セシリアの目が殿下に向いたまま離れない。
「今日は先生と視察をしていました」
殿下が静かに説明する。
「……そ、そうなんですね、お二人で、視察……」
セシリアは何度か頷いた後、
「お、お邪魔してすみません! 気をつけてください!」
と言って走って行った。
端末を持ったまま、猛烈な速さで。
「……熱心なファンですね」
殿下が静かに言う。
「はい、とても大切にしてくれている子で」
なぜかセシリアが焦っていたのか、少し気になったが、よくわからなかった。
視察が終わった頃、日が傾いていた。
一日歩いて、たくさん話した。
原作のこと、映画のこと、アイリスのこと、王都の景色のこと。
気づけば仕事の話だけではなくなっていたが、それもまあ、視察の一部だろう。
「今日はありがとうございました、先生」
「こちらこそ。有意義な視察でした」
「有意義でしたね」
殿下が頷いた。
その顔が、朝よりわずかに柔らかかった。
気のせいかもしれない。
でも今日は、気のせいと片付けるのが少しだけ惜しかった。
「また明日」
「はい、また明日」
王都の夕暮れの中を帰りながら、頭痛薬を一錠も飲まなかった今日のことに、ふと気づいた。
撮影が始まってから初めてのことだ。
なぜだろうと考えかけて、やめた。
考えすぎるのは、作家の悪い癖だ。
翌朝、魔導端末を開くと、セシリアのアカウントからの投稿がトレンドに入っていた。
「昨日、先生と殿下が二人で王都を歩いているところをお見かけしました。なお視察とのことです(震え声)」
コメント欄が千件を超えていた。
私はそっと端末を閉じた。




