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第七話 撮影開始

撮影初日の朝、私は王都劇場が所有する撮影所の入口に立っている。既に頭痛の予防薬を二錠飲んでいる。

まだ撮影は始まっていない。

準備として飲んでおくことにした。

エリスが隣で「先生、摂取量を」と言いかけたが、今日ばかりは何も言わないでほしい。

広い撮影所に入ると、思っていたよりずっと大勢の人間が動いていた。

照明スタッフ、カメラを構えるスタッフ、衣装を調整する人たち。

セットには婚約破棄の舞台となる豪奢な広間が組まれていて、思わず息を呑んだ。

原作の中でアイリスが立っていた場所が、目の前にある。

 

「素晴らしい出来ですね」

 

殿下が隣に来た。

珍しく、わずかに目が穏やかになっている気がした。

 

「……はい。セットは本当に」

 

「原作のイメージ通りです」

 

「そうなんです。この広間は、読者の方からいただいた手紙や読者のファンアートにもよく描かれていた場所で」

 

思わず話し込んでしまいそうになったとき、監督の大きな声が現場に響いた。

 

「では本日の撮影を始めましょう! まず第一場面、アイリスと王子の出会いのシーンから! エレナさん、カイル君、準備はいい!?」

 

エレナが凛とした表情で頷く。

カイルは少し緊張した顔をしていた。

撮影は最初の数分、驚くほど順調だった。

エレナのアイリスは想像以上に原作のイメージに近く、カイルの王子も立っているだけなら確かに絵になっていた。

これはもしかしたら、うまくいくかもしれない。

そう思いかけたのが間違いだった。

 

「ちょっと待って! カイル君、もう少しアドリブで!」

 

「どんなアドリブですか」

 

「なんでもいいです! 感情の赴くままに!」

 

エリスが囁く。

 

「先生、アドリブで、と言っています」

 

「聞こえています」

 

私の声が低くなった。

カイルは少し考えた後、台詞の語尾をほんの少し変えた。

ほぼ原作通りだった。

偉い。

 

「もっと自由に!」

 

「やめてください」

 

反射的に言った。

監督がこちらを見る。

 

「先生! 現場の空気を大事に!」

 

「原作の台詞を大事にしてください!」

 

殿下が静かに割り込んだ。

 

「監督、まず脚本通りで撮影したものを確認してからにしましょう。比較があってこそ、アドリブの良し悪しも判断できます」

 

「なるほど! それは合理的だ!」

 

監督が素直に頷いた。

殿下の言い方は上手い。

「アドリブは後で」と言わず「比較のため先に原作通りを」と言う。

私では絶対にこういう言い方はできない。

次の場面の準備が始まった頃、セットの端から人影が現れた。

見慣れない顔だった。

三十代後半くらいの男性が、自然な足取りでカメラの前を歩いている。

スタッフではない。

俳優のような立ち振る舞いだ。

 

「あの……この方は誰ですか」

 

思わず監督に聞いた。

 

「モールだよ」

 

「知っています」

 

モール・ヨール。

王国でも指折りの人気俳優だ。

しかし今作の脚本に、彼の名前はどこにもなかったはずだ。

 

「なぜここに」

 

「僕が呼んだ」

 

「どうこうわけで……」

 

「モールさ。最近のスケジュールは?」

 

監督がモールに気軽に聞く。

 

「最近暇なんすよ」

 

「そうだよな。じゃあやってくれよ」

 

「OK!やったりますわ」

 

「やめてください」

 

私とエリスが同時に言った。

殿下が静かに手を挙げる。

 

「モール殿、本日はオブザーバーという形でお願いできますか。正式な出演については所定の工程を経てから」

 

「あ、殿下、それで」

 

モールが気軽に頷いた。

監督は少し残念そうだったが、殿下の言葉には従うらしい。

しかしモールはその後もなぜか撮影所の隅に座り続けた。

そして気づくといつの間にか画面の端に映っている。

撮影監督のガルドが「また映っています」と静かに指摘するたびに全員で確認作業が発生した。

合計三回あった。

昼過ぎ、今度は別の問題が起きた。

ジール・ウィンスが登場したのだ。

五十二歳。

王国を代表する名脇役として知られる俳優で、今作では門番の老執事という小さな役を担っている。

台詞は三行だ。

本番が始まった。

一行目。

二行目。

そこから先が、終わらなかった。

 

「……その昔、私がまだ若かりし頃、この屋敷に初めて足を踏み入れた日のことを、今でも鮮明に覚えております。あれはちょうど春の終わりで、庭の薔薇が最後の一輪を咲かせておりました。今思えばあれは、この屋敷が私に向けた歓迎の印だったのかもしれません。いや、歓迎というよりも……試練と申しましょうか……」

 

スタッフが全員静止している。

エレナが困った顔のまま、懸命に相槌を打っていた。

カイルはどこを見たらいいかわからない様子だ。

五十代の職人気質の撮影監督ガルドが、困惑した顔でモニターを見ながら監督に聞いた。

 

「……止めますか」

 

「面白いからヨシ!」

 

「面白いからヨシ、とおっしゃいましても……」

 

ジール・ウィンスはまだ話していた。

脚本担当のスタッフが静かに頭を抱えていた。

私は頭痛薬をもう一錠飲んだ。

 

「先生、今日は三錠目です」

 

エリスが小声で言う。

 

「知っています」

 

そのとき監督が突然立ち上がった。

 

「そうだ、このシーンにドラゴン出しましょう!」

 

「何故ドラゴンを出すんです?」

 

ガルドが静かに言った。

口数の少ない人だが、今日一番大切な一言を放った気がした。

 

「雰囲気が出るじゃないですか!」

 

「原作にドラゴンは……」

 

「ありません」

 

私が言う前に殿下が言った。

完璧なタイミングだった。

監督がうーんと唸る。

 

「じゃあドラゴンは保留で」

 

また保留になった。

「保留」という言葉に、今日だけで四回救われた。

撮影終了後、ガルドが私の隣に来た。

 

「アルフォード先生ですね」

 

「はい」

 

「頑張ってください」

 

それだけ言って、彼は去っていった。

同志だ。

間違いなく同志だ。

日が暮れて撮影所から出てくると、殿下が隣に並んだ。

 

「お疲れ様でした」

 

「……お疲れ様でした。殿下も全部ご覧になっていたんですね」

 

「全部」

 

「全部ですか」

 

二人でしばらく、夕暮れの空を見た。

 

「モールの件は次回の会議で整理します。ジール氏のアドリブは編集で対応できる範囲に収める方向で調整します。ドラゴンは保留のままにします」

 

「ありがとうございます」

 

殿下がわずかに、ほんのわずかに、口元を動かした。

笑ったのかどうか確認しようとしたが、もう元の表情に戻っていた。

気のせいかもしれない。

でも、気のせいではなかった気もする。

 

「また明日」

 

「はい、また明日」

 

撮影初日が終わった。

頭痛薬は三錠消えた。

ガルドは同志で、エレナとカイルは原作を守ろうとしていて、殿下はいつも適切なタイミングで止めてくれる。

誰かと一緒に消耗できるというのは、案外悪くないものだ。

そういう一日だった。











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