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第四話 共同戦線

殿下からの連絡が届いたのは、第三回打ち合わせの前日のことだった。

 

「明日の会議の前に、事前対策を行いたいと思います。よろしければ夕方に王都劇場の別室をお使いください。バルト監督には連絡しません」

 

短い文面だったが、最後の一行に思わず苦笑した。

「バルト監督には連絡しません」という一言が、妙に殿下らしくて少しおかしい。

もちろん、二つ返事で了承した。

指定された部屋に着いたのは夕刻少し前のことだ。

王都劇場の奥まった一室とは思えない静かな空間で、殿下がすでにテーブルに資料を広げていた。

脚本の第二稿、過去の監督作品の傾向分析、そして原作との相違点をまとめた一覧表。

量を見るだけで、本気で準備してきたのがわかる。

 

「お待たせしました」

 

「いいえ。早速ですが、始めましょう」

 

殿下が資料を一枚こちらに差し出した。

「監督の改変傾向と対応案」というタイトルが書いてある。

私はそれを受け取りながら、思わず目が丸くなった。

監督の過去作品をいくつか挙げ、どの場面でどのような変更が加えられたかを整理し、そのパターンから次の改変を予測するという内容だ。

徹底的すぎる。

 

「殿下、これは……」

 

「先日の打ち合わせで気になった点をまとめました。監督は感情が高まる場面と、間が生じる場面を特に変えたがる傾向があります。主人公が泣く場面と、クライマックス直前が特に危ない」

 

「同感です。あと観客が笑えそうな余白も狙われますね」

 

「その通りです。今朝届いた第二稿にも、すでに変更の痕跡が複数ありました」

 

「もう確認されていたんですか」

 

「今朝届きましたので」

 

ちなみに私は別の用事のためまだ読めていない。

殿下の情報処理の速さが若干こわい。

でも今はそれが頼もしかった。

 

「第七場面と第十四場面が特に問題です。第七場面のト書きには、こう書いてありました」

 

殿下が脚本を開いて一点を示す。

そこには「アドリブ可(この場面、変顔推奨)」と書いてあった。

 

「変顔……」

 

「推奨ですが」

 

「原作に変顔はありません」

 

「分かっています」

 

二人で脚本を見つめた。

短い沈黙が落ちた。

 

「明日は、ここから潰していきましょう」

 

「賛成です」

 

気を取り直して資料を広げ、二人で脚本を読み直していく。

気になる箇所に付箋を貼り、変更理由を書き込み、代替案を考える。

「面白いおじさん」については、二人で顔を見合わせた後、「詳細不明につき対策不能」という結論に落ち着いた。

怖いから考えないことにした。

殿下は的確だ。

変えるべき理由を明確に言語化してから、代替案を出す。

感情でなく論理で整理する。

私がどうしても感情的になりがちなところを、殿下が構造として整えてくれる感覚があった。

気づけば窓の外が暗くなっていた。

 

「先生、少し休憩しますか」

 

顔を上げると、殿下がお茶の準備をしていた。

いつの間に用意していたのか、ほんのり湯気が立っている。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「三時間ほど経っています」

 

「そんなに」

 

窓の向こうはすっかり夜になっていた。

お茶を一口飲んだ。

体の緊張が、じわりとほぐれていく気がした。

 

「先生は、なぜ婚約破棄ものを書こうと思ったのですか」

 

唐突な問いだった。

殿下が資料から目を上げて、こちらを見ている。

普段通りの落ち着いた表情で、ただ純粋に聞いているだけのようだった。

 

「……最初は単純な理由です。当時、婚約破棄を描いた小説がたくさんあって、でもどれも令嬢が一方的に傷つく話か、逆に相手をやっつける話のどちらかで」

 

「その間がなかった」

 

「そうです。傷ついて、でも誰かに復讐するわけでもなく、ただ自分の足で立つ話が読みたかった。なければ書こうと思って」

 

殿下がふむ、と小さく頷く。

 

「それがアイリスになった」

 

「はい。アイリスは強くないんです。強くなろうとしているだけで。その違いを大事にしながら書きました」

 

「だから読者が自分を重ねる」

 

少し驚いた。

さらりと言ったが、それは私がずっと大切にしてきたことだった。

共感を狙って書いたわけではない。

ただ、アイリスが本当に傷ついていて、本当に立ち上がろうとしている姿を正直に書いた。

それだけのことが、なぜか多くの人に届いた。

その理由をこんなに簡潔に言われたのは初めてかもしれない。

 

「……殿下はどこで原作を読まれたんですか」

 

少し踏み込んだ問いかけだったが、聞かずにはいられなかった。

殿下が一瞬だけ、資料に視線を落とした。

 

「書籍化される前に、魔導通信網で連載されていた頃から読んでいました」

 

「え?」

 

それはかなり初期からということになる。

書籍化前の連載版は、今とは随分と荒削りだった。

誤字もあったし、構成も今ほど整理されていない。

それでも読んでいたということだ。

 

「当時は誰でも読める状態でしたから。偶然見つけて、最初の一話で続きが読みたくなりました」

 

「……第一話はかなり地味だったんですが」

 

「地味ではありませんでした。アイリスが婚約破棄を言い渡された後、泣きながら家に帰る場面がありましたね。雨の中で、傘を差すのを忘れている場面」

 

私は息を呑んだ。

その場面は書籍化の際に削除した。

地味すぎると編集に言われて、自分でも納得して消した場面だ。

それを覚えているとは。

いや、待て。

書籍化前の連載版は何年も前の話だ。

一度きりしか公開されなかった場面を、なぜそこまで鮮明に覚えているのか。

 

「あの場面が好きでした。泣いているのに傘を差すのを忘れるくらい、呆然としているアイリスが。悲しさより放心の方が先に来る、そういう感情の描き方は珍しかった」

 

しばらく、言葉が出なかった。

削除した場面を覚えていてくれた人がいたということ。

そしてその人が今この場にいるということが、なんだか不思議だった。

 

「……ありがとうございます」

 

「お礼を言われることではありません。面白いものを書いてくださったお礼を言うべきはこちらです」

 

殿下が資料に視線を戻した。

その横顔は相変わらず表情が読みにくいが、先ほどの言葉が作り話ではないということだけははっきりとわかった。

気づけばさらに一時間が経っていた。

まとめた対策案は三ページに及んでいる。

監督の改変が予想される場面と、その都度の反論案。

殿下が論拠を整理し、私が原作の意図を補足する。

二人で作ったものは、どちら一人では作れなかったものだと思う。

 

「これだけあれば、明日の打ち合わせで対応できます」

 

殿下がそう言って、資料を揃えた。

 

「ありがとうございました、殿下。お時間を取っていただいて」

 

「私も必要なことでしたので」

 

殿下が立ち上がりながら、ふとこちらに目を向けた。

 

「先ほどの話ですが」

 

「はい」

 

「削除した場面は、惜しかったと思います」

 

それだけ言って、殿下は資料を手にした。

思わず笑ってしまった。

声に出さないように口を押さえたが、伝わったかもしれない。

殿下が僅かに首を傾けた。

 

「何か」

 

「いいえ。……嬉しかったので」

 

殿下は特に何も言わなかった。

ただ、こちらを向いたまましばらくの間、何かを考えているような表情をしていた。

それからゆっくりと頷いた。

 

「また明日」

 

「はい、また明日」

 

殿下が退室し、私は一人で部屋に残った。

机の上に広がった対策案を眺めながら、ひとつため息をつく。

疲れた。

でも、嫌な疲れではない。

誰かと真剣に話して、言葉を積み上げていく時間の疲れだ。

頭痛薬を飲まずに済んだ夜は、映画化が決まってから初めてかもしれない。

窓の向こうに王都の夜景が広がっている。

明日の打ち合わせで、また監督の奇抜な提案が来るだろう。

それはほぼ確実だ。

それでも今は、不思議と怖くない。

そういう夜だった。








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