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第三話 脚本第一稿

脚本が届いたのは、打ち合わせから五日後のことだった。

分厚い封筒を受け取った瞬間、私の手がかすかに震えた。

「面白いアイデアが浮かんだら都度ご相談します」という監督の言葉を思い出す。

あの言葉は「相談してから変える」ではなく「変えたものをご報告します」という意味だったのだろう。

嫌な予感がする。

封を開ける前から、なんとなく覚悟が必要だとわかっていた。

 

「エリス、一緒に読んでもらえますか」

 

「もちろんです」

 

二人で向き合い、脚本を開く。

最初の数ページはほぼ原作通りだった。

令嬢アイリスが婚約破棄を言い渡されるまでの導入部分。

台詞の言い回しが少し変わっているが、大きな違和感はない。

少し安堵しかけたのが間違いだった。

第十二ページ。

婚約破棄の場面。

ト書きにはこう書いてあった。

 

「アイリス、感情が高ぶり、突如として歌い始める」

 

私はそこで一度、脚本を閉じた。

深呼吸を三回した。

もう一度、ゆっくりと開く。

やっぱりそう書いてある。

 

「歌……」

 

「……先生、落ち着いてください」

 

「エリス、これは」

 

「落ち着いてください」

 

「ミュージカルです」

 

「……そうですね」

 

エリスが珍しく二回連続で落ち着かせようとしてくる。

しかし落ち着けるわけがない。

続きを読むと、婚約破棄を宣告されたアイリスが、そこから三分弱の独唱を披露する構成になっていた。

曲名まで記載されている。

「裏切りのアリア」というタイトルだ。

作詞作曲はバルト監督自身によるものだという注釈まで丁寧に添えてある。

さらに進むと、相手の婚約者も後半で歌い返すことが判明した。

デュエットになるらしい。

デュエットになるのだ。

婚約破棄シーンが。

私の頭痛薬が一錠消えた。

さらに読み進めると、随所に「アドリブ可」という文字が躍っている。

「アドリブ可(笑いを取ること)」という注釈のついたページもある。

そして終盤、婚約破棄シーンの直後に謎の場面が挿入されており、ト書きにはこうある。

 

「面白いおじさんが通りかかる(詳細は後で決める)」

 

面白いおじさんとは何か。

なぜ原作に存在しない人物が「詳細は後で決める」という状態で確定しているのか。

エリスのお茶を飲む音がした。

彼女も若干、目が遠くなっていた。

 

「帰りたいです」

 

思わずそう言った。

 

「先生、まだ最後まで読んでいません」

 

「読む勇気が……」

 

「頑張ってください」

 

エリスが珍しく励ましてくれた。

最後まで読み終えた頃、私は脚本を机に静かに置いた。

怒っているかと言えば怒っている。

悲しいかと言えば悲しい。

ただそれ以上に、もはや感情が追いつかなくなっていた。

 

「エリス、殿下に連絡を取っていただけますか」

 

「すでに入れています」

 

さすがだ。

エリスはこういうとき本当に頼りになる。

翌日の午後、王都劇場の会議室に三人が揃った。

バルト監督は今日も元気だ。

私が脚本を机に置くと、満面の笑みを向けてくる。

 

「どうでしたか! 面白かったでしょう!」

 

「監督、婚約破棄シーンがミュージカルになっています」

 

「なってますね! いいでしょう!」

 

「原作にありません」

 

「だから今回から作るんですよ! アリアの歌詞、自分で書きましたよ! 渾身の出来です!」

 

「読みました」

 

「どうでした!」

 

「よくありませんでした」

 

私の声が一段低くなった。

監督が首を傾げる。

私は脚本を開き、第十二ページを示した。

 

「監督、あのシーンはアイリスが感情を押し込めながら言葉を選ぶ場面です。歌にすることで全てが外に出てしまう。あの抑制された感情の緊張感が、この話の肝なんです」

 

「でも歌った方が伝わるじゃないですか!」

 

「伝わり方が違います。あのシーンで伝えたいのは、言葉にならないものが言葉になった瞬間の重さです。歌にしてしまえばその重さが消える」

 

「それがまた味わい深くて!」

 

「消えるんです」

 

監督がうーんと唸る。

珍しく、ちゃんと考え込んでいる様子だ。

私も一度言い切ってしまうと、気持ちが落ち着いてきた。

感情論ではなく、作品の構造として話せた。

そのことが少し意外だった。

そのとき、殿下が口を開いた。

 

「監督、私からも一つ申し上げてよいですか」

 

「どうぞ、殿下」

 

「私はこの原作が好きです」

 

静かな、しかしはっきりとした声だった。

監督も私も、思わず殿下の方を見る。

殿下が続けた。

 

「婚約破棄という題材は、この王国の恋愛小説においてありふれたものです。しかし先生の作品がここまで読まれたのは、アイリスの感情の描き方が他と一線を画しているからだと私は思っています。彼女は大げさに嘆かない。泣き叫ばない。それでも確かに傷ついていて、立ち上がろうとしている。その静かな強さが読者に届いた。だからこそ映画にする価値がある」

 

殿下が一拍置いた。

 

「ミュージカルにすることで、その静かさが失われます。私はそれを惜しいと思う」

 

監督がしばらく黙っていた。

今日一番長い沈黙だ。

それからゆっくりと、何度か頷いた。

 

「……殿下がそこまで言うなら」

 

「お願いします」

 

「ミュージカルは保留にしましょう」

 

また「保留」になった。

しかし今日のところは、それでいい。

私はそっと息を吐いた。

打ち合わせが終わり、監督が退室した後、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。

殿下がアイリスのことを語ったとき、不思議な感覚があった。

自分の作品の何が良いかを、自分よりも整然と言語化されたような気がしたのだ。

「静かな強さ」という言葉は、書いていたときに頭の片隅にあったものに近い。

ただ、自分ではうまく言葉にできていなかった。

 

「先生」

 

殿下の声に顔を上げた。

 

「先ほどの監督へのご説明はよかったと思います。感情論ではなく、作品の構造として話されていた」

 

「……ありがとうございます」

 

殿下が立ち上がり、荷物を手にする。

去り際に、ふとこちらを振り返った。

 

「一つ確認したことをお伝えしておきます。アイリスが立ち上がる場面は、脚本でも変わっていませんでした」

 

「……気にしてくださっていたんですか」

 

「覚えておくと言いました」

 

それだけ言って、殿下は会議室を出ていった。

エリスが隣で小さく呟く。

 

「……殿下、本当に原作をよくご存じなんですね」

 

「……そうですね」

 

私は脚本の第十二ページを開いた。

「裏切りのアリア」のト書きの横に、赤いインクで「要再考」と書き込んである。

殿下が打ち合わせの前に書き入れていたのだろう。

今更ながら、その三文字がなんだか心強く見えた。

次の脚本では、アイリスはちゃんと歌わずにいられるだろうか。

まだ安心はできない。

それでも、少しだけ信じてみてもいいかもしれない。

そう思いかけている自分がいた。










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