第十四話 公開
公開初日の朝、私は王都劇場の前に立っていた。
劇場の正面玄関には、巨大な看板が掛けられている。
アイリスと王子の絵姿が、朝の光の中で輝いていた。
四年前、机に向かって一人で書き始めた物語が、今この瞬間、王国中の劇場で同時に幕を開ける。
その事実が、まだ実感として追いついていなかった。
「先生、緊張していますか」
エリスが隣で聞いた。
「……していないと言ったら、噓になります」
「正直でいいと思います」
劇場の前には既に長い行列ができていた。
朝早くから並んでいる人々の中に、見慣れた顔を見つけた。
セシリアが、ファンクラブの仲間たちと一緒に最前列に並んでいる。
こちらに気づいて、大きく手を振ってきた。
「先生! ついに来ました!」
「セシリア、おはようございます」
「徹夜で並びました!」
「お体に気をつけてくださいね」
「大丈夫です! 今日のために生きてきましたから!」
その熱量に、思わず笑ってしまった。
劇場のロビーには、王都劇場の関係者が集まっていた。
監督は今日も元気に走り回っている。
「先生! いよいよですよ!」
「監督、緊張していますか」
「全然してません! むしろ楽しみで仕方ないです!」
「私はしています」
「先生はもう十分頑張りましたよ! 今日は楽しんでください!」
そう言われて、少しだけ気持ちが軽くなった。
エレナとカイルも到着し、二人とも今日のために特別に装った姿で現れた。
「先生、今日はよろしくお願いします」
エレナが優雅に礔をした。
「ついに公開ですね。何度見返しても、自分の演技に納得できないところがあって少し緊張します」
カイルが少し硬い表情で言った。
「カイルさんの演技は素晴らしいですから、大丈夫です」
「ありがとうございます」
ガルドも来ていた。
「先生、これで終わりではありません。これは始まりです」
短いが、重みのある言葉だった。
モールは、なぜかいつの間にか会場の隅に立っていた。
「モール殿、今日は」
殿下が静かに聞いた。
「やっぱ自分も出た作品だしさ」
「そうですか」
「まあ問題ないっしょ」
モールは相変わらず緊張感が無かった。
開場時間が近づき、劇場のスタッフが正面玄関の扉を開けた。
歓声が上がる。
行列の人々が、次々と劇場の中へ入っていく。
私は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
殿下が隣に並んだ。
「先生、上映を一緒に観ますか」
「……はい、ぜひ」
劇場の最後方の特別席に、殿下とエリス、そして私の三人が座ることになった。
照明が落ち、スクリーンに映像が流れ始める。
試写会で見たときと、内容は変わっていない。
それでも、今この瞬間、王国中の劇場で同時に同じ映像が流れているという事実が、全く違う緊張感を運んでくる。
劇場の客席から、様々な反応が聞こえてきた。
婚約破棄の場面では、静かな息遣いが広がった。
誰も声を出さない。
ただ、画面に集中している空気が伝わってくる。
ジョルダンの登場場面では、控えめな笑い声が起きた。
完全な拒絶ではない。
むしろ、ちょうどいい清涼剤として受け入れられているような反応だった。
クライマックスの場面に近づくにつれ、客席の空気が変わった。
誰も身動きしない。
息を呑む音だけが、静かに広がっている。
アイリスと王子が、互いの想いを認め合う台詞を口にする瞬間、隣の席で小さく鼻をすする音が聞こえた。
セシリアの席の方からだ。
他の場所からも、似たような音が聞こえてきた。
画面が暗くなり、エンドロールが流れ始めると、劇場全体が静かな拍手に包まれた。
大げさな歓声ではない。
ただ、確かに満たされた空気の拍手だった。
照明がついた後、私は隣の殿下を見た。
殿下も、こちらを見ていた。
「……良かったと思います」
「私もそう思います」
それだけの言葉だったが、十分だった。
劇場を出ると、観客たちが口々に感想を語り合っていた。
「最後、泣いちゃった」
「ジョルダン、思ったより嫌じゃなかったね」
「アイリス役の人、本当に良かった」
「原作読んでみようかな」
最後の声を聞いたとき、思わず足を止めた。
原作を読んでみようかな、という言葉。
映画から原作へ、物語が新しい読者の元へ届く瞬間だ。
これ以上嬉しい言葉はなかった。
その夜、王都劇場の関係者が集まる小さな祝賀の場が設けられた。
監督、エレナ、カイル、ガルド、殿下、エリス、そして私。
皆が、それぞれの今日の感想を語り合った。
「初日の評判、悪くないですよ!」
監督が嬉しそうに端末を見せてきた。
「劇場ごとの反応も、王都だけじゃなく地方からも届いてます!」
「……良かったです」
「先生のおかげですよ!」
「監督のおかげでもあります」
正直に認めるのは少し悔しいが、嘘ではなかった。
監督の独創性がなければ、この映画はただの原作の再現に終わっていたかもしれない。
原作を守りながら、映画として独立した魅力を持つ作品になったのは、衝突を繰り返しながらも互いに譲らなかった結果なのだろう。
夜が更け、祝賀の場が落ち着いた頃、殿下と二人、劇場の外に出た。
夜風が心地よかった。
「先生、お疲れ様でした」
「殿下も、お疲れ様でした」
夜空を見上げる。
今日という日が、ようやく実感として胸に染み込んでくる。
アイリスが、本当に世界に出た。
「公開後にお話ししたいと言ったこと、覚えていますか」
殿下が静かに言った。
心臓が跳ねた。
「……覚えています」
「もう少しだけ、待っていただけますか」
「……はい」
それ以上は、何も聞かなかった。
ただ、夜空の下で並んで立つこの時間が、不思議と穏やかだった。
公開初日が、静かに終わろうとしていた。




