第十一話 試写会
試写会の知らせが届いたのは、撮影とアフレコ、編集作業がすべて終わった後のことだった。
脚本第二稿から数えて、最終的に何回の改訂を重ねたのか、もう正確には覚えていない。
覚えているのは、頭痛薬の消費量だけだ。
殿下から届いた通信には、こう書かれていた。
「本日午後、王都劇場の試写室にて完成版をご確認いただきます。先生のご感想を踏まえ、最終調整を行います」
最終調整。
まだ調整の余地があるということだ。
覚悟を決めて試写室に向かった。
試写室には、いつもの面々が揃っていた。
監督、殿下、エリス、エレナ、カイル、ガルド。
そしてなぜかモールも後方の席に座っていた。
「モール殿、本日は」
「気になって」
殿下が小さく息を吐いた。
もう誰も驚かなくなっている。
それがこの数ヶ月で身につけた、ある種の処世術だった。
「では上映します!」
監督の声を合図に、照明が落ちた。
スクリーンに映像が流れ始める。
心臓が早くなった。
ここまでの数ヶ月、何度も覚悟した。
それでも、実際に映像として動くアイリスを見るのは初めてだった。
オープニングは静かに始まった。
アイリスが屋敷の窓辺に立つ場面。
柔らかな光と、エレナの落ち着いた表情。
原作の一行目をそのまま映像にしたような導入だった。
思わず手が震えた。
カイルの王子が現れる場面も、想像していたよりずっと自然だった。
あの軽やかな笑顔が、王子の静かな佇まいの中に、確かに息を潜めている。
撮影現場で見たときには気づかなかった細やかな表情の作り込みが、編集を経て一段と際立っていた。
婚約破棄の場面が来た。
身体が固くなる。
あれほど苦労して守った場面だ。
歌わない。
爆発しない。
ただアイリスが静かに婚約破棄を受け入れて、震える声で「承知いたしました」と告げる。
そこに、控えめながら確かな緊張感のある音楽が流れる。
ジョルダンのテーマ曲とは全く違う、繊細な旋律だ。
誰がこの曲を作ったのだろうと思っていると、エンドクレジットに後で答えがあった。
監督自身の作曲だった。
腹立たしいことに、また才能を見せつけられた。
中盤、ロケ地で視察した広場の場面が映った。
噴水の音、石畳の質感、光の落ち方。
あの日歩いた場所そのままの空気が、画面の中に閉じ込められていた。
隣の席で、殿下が小さく息を吸う音がした。
横目で見ると、殿下の視線はスクリーンに釘付けになっている。
普段の落ち着いた表情の奥に、何か別のものが浮かんでいた。
ジョルダンの登場場面は、想定していたほど悪くなかった。
というより、正直に言えば少し笑ってしまった。
帽子からはみ出た白髪、不思議な踊り、覚えやすいテーマ曲。
原作にいないキャラクターであることに変わりはないが、二場面という制限のおかげで物語の本筋を壊すほどではなくなっている。
隣でモールが満足げに頷いているのが、視界の端に見えた。
そして、クライマックス。
アイリスと王子が、互いの想いを正面から認め合う場面。
原作で最も力を入れて書いた部分だ。
エレナの演技が、震える声と、それでも前を向く強さを完璧に表現していた。
カイルの王子も、これまでで一番、静かで重みのある佇まいを見せていた。
画面の中で二人が見つめ合う。
台詞は、原作のものとほぼ同じだった。
誰も変えていなかった。
あの場面だけは、誰も改変しようとしなかった。
画面が暗くなり、エンドロールが流れ始めた頃、私は気づかないうちに涙をこぼしていた。
照明がついた。
誰も最初は口を開かなかった。
「……どうでしたか、先生」
監督が、いつもの元気な声とは違う、少し控えめな声で聞いた。
「……正直に言います」
深く息を吸った。
「認めたくないですが」
全員が静かに私を見ている。
「面白かったです」
試写室に小さなどよめきが起きた。
「婚約破棄の場面は、原作のままで、それでいて映像でしか出せない緊張感がありました。ロケ地の空気も完璧でした。ジョルダンは……まあ、二場面なら許容範囲です」
「やった!」
監督が両手を上げた。
「クライマックスは、想像していたものよりずっと良かったです。エレナさんとカイルさんの演技が、台詞以上のものを伝えてくれていました」
エレナが目を潤ませながら頷いた。
カイルも嬉しそうに、それでも少し誇らしげな顔をしていた。
「……でも認めたくありません」
「なぜですか!」
「あれだけ抵抗したのに、最終的に良いものになってしまったので、これまでの戦いが報われたような気もして……少し複雑です」
監督が大笑いした。
「でも最終的に良いものになったのは、先生が毎回ちゃんと止めてくれたからですよ! 爆発もミュージカルも全部止められたから、こうなったんです!」
「……それは」
「あと殿下も」
「私は補助です」
殿下が静かに言った。
「いいえ、殿下がいなければ私は途中で諦めていたかもしれません」
思わずそう言った。
殿下がこちらを見た。
何も言わなかったが、その視線には確かな何かがあった。
試写室を出ると、夕暮れの王都が広がっていた。
エレナとカイルが何やら笑いながら歩いていく後ろ姿が見えた。
ガルドが「いい仕事でした」とだけ言って静かに帰っていった。
モールはどこかにいつの間にか消えていた。
「先生」
殿下が並んで歩いてきた。
「公開まで、あと少しです」
「……まだ油断はできませんね」
「監督が何か言い出す可能性は」
「常にあります」
二人で苦笑した。
それでも、今日見た映像は、本当に良かった。
アイリスが、ちゃんとアイリスのままで、画面の中に生きていた。
それだけで、これまでの全部の頭痛薬に意味があったと思える。
「殿下、ありがとうございました」
「お礼を言うのはこちらです」
「いえ、本当に、殿下がいなければ」
殿下が立ち止まった。
夕暮れの光の中で、こちらを見ている。
「先生」
「はい」
何かを言おうとして、しかし殿下はそこで止まった。
少しの沈黙があった。
「……公開後に、改めてお話ししたいことがあります」
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
ただ、その一言が、いつまでも耳に残った。
公開後に話したいこと。
それが何なのか、聞きたいような、聞くのが少し怖いような、そんな気持ちが胸の中で渦巻いていた。
夕暮れの王都を、二人でゆっくりと歩いた。
今日だけは、頭痛薬を一錠も飲まなかった。




