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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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踏み出す理由

 まだ早かった。


 街が静かだった。市場はまだ開いていない。職人の槌の音も聞こえない。朝の光が建物の隙間から差し込んで、石畳に長い影を落としている。


 アスは一人で歩いていた。


 門があった場所に向かっている。理由はなかった。ただ足がそこに向かった。毎朝の散歩が、いつの間にかこの場所に通じている。


 着いた。


 何もなかった。門の跡には何もない。石畳が敷き直されている。誰かが整えたのだろう。瓦礫を片付けて、石を並べ直して、普通の広場にした。端に草が少し生えている。


 ここから始まった。


 第一話の記憶。門の前に立った日。魔界への入り口を見上げて、足が震えていた日。心臓がうるさかった。呼吸が浅かった。一歩を踏み出すのに、全身の勇気を使った。


 怖かった。


 弱くて、臆病で、何もできなくて。アイリスに救われた記憶だけが胸にあって、「守る側になる」と誓って、それだけを持って門の前に立った。


 一人だった。


 あの日は一人だった。誰もいなかった。仲間もいなかった。教官もいなかった。ただ一人で、怖くて、それでも踏み出した。


 今は一人じゃない。


 七人の仲間がいる。アテネがいる。ミルがいる。ロイドがいる。レイがいる。シアがいる。クロがいる。ガルドがいる。アイリスがいる。


 失った人たちがいる。ソラ。カイ。ロキ。帰ってこなかった人たち。その人たちの分だけ、背中が重くなった。


 重いのは悪いことじゃない。


 重い分だけ、足が地面を踏む力が強くなる。重い分だけ、前に進む理由が増える。ソラが託した言葉。カイが見せた笑顔。ロキが残した道。全部背負っている。全部持っている。


 バッシュの家に行った。


 朝早い訪問だったが、バッシュは起きていた。窓辺の椅子に座って、外を見ていた。いつもの場所だ。日が差し込む窓辺。だが今日の窓からの景色は、以前とは違う。


「結界がないと空が広いな」


 バッシュが言った。アスが入ってくる前から、空を見ていたのだろう。


「初めて見ました。こんなに広い空」


 アスが窓の横に立った。バッシュと同じ方向を見た。空が広い。どこまでも続いている。結界の光の線がない。境界がない。


「お前が英雄かと聞かれたらどう答える」


 バッシュが聞いた。空を見たまま。


 アスが考えた。英雄。その言葉はいろんな意味を持った。七英雄。最後の英雄。英雄の隣。英雄でなくなった人たち。


「わかりません」


 正直に答えた。


「でも——隣にいたい人がいます。守りたいものがあります。それだけです」


 バッシュがアスを見た。炎を失った目で。だが温かい目で。


「それで十分だ」


 笑った。バッシュの笑みは変わらない。炎があってもなくても、同じ笑みだった。


 街に出た。朝の街が動き始めている。店が開き始め、人が歩き始め、声が聞こえ始めている。


 アーサーに会った。


 偶然だった。復興中の通りで、アーサーが素手で壁を直していた。崩れた石壁を積み直している。セメントを手で塗っている。エクスカリバーを振っていた手が、今は壁を直している。


 アスに気づいた。手を止めずに言った。


「英雄でなくなっても壁は直せる」


 笑っていた。石壁に向かって。手が白くなっている。セメントまみれだ。最強の英雄の手が、壁を直す職人の手になっている。


「お前もこれからだ」


 アーサーがアスを見た。


「英雄が終わってからが長い」


 その言葉には実感があった。アーサーはまだ若い。これから何十年も生きる。英雄としての時間より、英雄でなくなった後の時間の方がずっと長い。バッシュもそうだ。ロキだけが千年だった。


 ゼンに会った。


 街の出口で。旅支度をしていた。小さな荷物を背負って、暗殺者の身軽な格好で。


「どこに行くんですか」


「あの人が行った場所を歩く」


 ゼンの声は静かだった。


「1000年分は無理だが」


 ロキが千年間歩いた場所。英雄を探して、育てて、失って、また探した場所。その全てを辿ることはできない。だがゼンは歩く。ロキの足跡を追って。最後まで付き合うと言った男が、最後の向こう側まで付き合おうとしている。


「伝言はありますか」


 ゼンが聞いた。ロキに届けるように。どこかにいるかもしれないロキに。


 アスが考えた。言いたいことは山ほどあった。教官。ロキ。アリアドネ。名前が多すぎる人。炎の癖を直してくれた人。「答えが出るまで剣を置け」と言った人。「合格だ」と笑った人。「失敗作じゃなかったと証明してくれ」と言った人。


「——ありがとうございました、と」


 それだけだった。それで全部だった。


 ゼンが頷いた。小さく。一度だけ。ロキと同じ頷き方だった。千年の付き合いではないが、ゼンはロキに似ている。意図を読み取る目。無駄のない動き。最小限の言葉。


 ゼンが歩いていった。街の出口を出て、結界のない外の世界に向かって。振り返らなかった。ロキと同じだ。


 ミルが来た。


 アスが街を歩いていると、後ろからミルが追いかけてきた。メモ帳を持って。息が少し上がっている。走ってきたのだろう。


「結界がなくなった後の世界のことなんですが」


 開口一番がそれだった。挨拶もなかった。ミルらしい。


「やることは山ほどあります」


 メモ帳を開いた。数字が並んでいる。


「外の世界の探索。安全地帯の拡大。交易路の構築。農地の開拓。資源の調査。人口増加への対応」


 指が項目を追っていく。


「暇にはさせません」


 ミルの目がアスを見た。冷静な目だ。だが笑っている。隠さない笑顔で。右手に魔剣、左手にメモ帳。戦いは終わったが、ミルの仕事は終わっていない。


「頼もしいよ」


「当然です」


 即答だった。ミルが踵を返して歩いていった。メモ帳をめくりながら。やるべきことがある人間の背中は、迷わない。


 アテネが荷造りをしていた。


 宿の部屋で。小さな鞄に荷物を詰めている。おっとりした手つきで、丁寧に。


「里に帰ります」


 アスが部屋に来たのを見て、アテネが言った。


「学んだ術を持ち帰らないと。里はまだ衰退しています。でも悪魔がいなくなったから、状況は良くなるはずです」


 アテネの目が穏やかだった。最初に会った時と同じ目だ。里のために外に出た女。術を学んで持ち帰るために旅をした女。その目的が、やっと果たせる。


「でもまた来ます。絶対」


 アテネが笑った。泣きそうな笑顔ではなかった。約束の笑顔だった。


 ロイドが門の跡に立っていた。


 アスが朝に来た場所。草が生え始めている更地。ロイドがそこに立って、一つの方角を見ていた。街の外。遠くの山が見える方角。


「村の跡地に行ってくる」


 ロイドが言った。アスが横に立ったのを感じて、振り返らずに。


 村。堕天使に襲われて失われた故郷。家族を失った場所。ロイドがずっと背負ってきた場所。


「……すぐ戻る」


 短かった。だがその二言の間に、ロイドの全部があった。行ってくる。だが戻る。ここに。仲間のところに。


 レイが来た。シアとクロとガルドを連れて。


「俺たちは外の探索に出る」


 レイの声は明るかった。冒険者の声だった。


 シアが腕を組んで言った。


「誰かが最初に行かないと。結界の外がどうなっているか、まだ誰も知らないんだから」


 クロが笑った。


「冒険者だしな。悪魔がいなくなっても、やることは同じだ」


 ガルドが荷物を担いでいた。大きな荷物。多い。四人分だ。全員の分を一人で担いでいる。ガルドらしかった。


 レイがアスの前に立った。手を出した。


「またな。次は仕事で呼べよ」


 アスがその手を握った。強く。レイも強く握り返した。ガルム戦から始まった関係が、ここまで来た。


 全員がバラバラになる。


 アテネは里に帰る。ロイドは故郷に行く。レイたちは外の探索に出る。ミルはここに残って計画を立てる。ゼンはロキの足跡を追う。


 だが繋がっている。距離が離れても、時間が経っても、八つの歯車は噛み合ったことがある。一度噛み合ったものは、もう一度噛み合える。


「またここで集まろう」


 アスが言った。全員がいる時に。特に約束の日は決めない。いつか。また。ここで。


 全員が頷いた。言葉は要らなかった。頷きだけで十分だった。


 夕方になった。


 アスが一人で街を歩いていた。いつもの道。訓練場の横を通った。ギルドの前を通った。武器屋の前を通った。


 全部が同じだった。石畳は同じだ。建物は同じだ。匂いは同じだ。だが全部が違った。結界がない。門がない。悪魔がいない。世界が変わった。同じ景色が、違う意味を持っている。


 いつもの場所にアイリスが待っていた。


 どこかで待ち合わせたわけではない。だがアイリスはここにいると知っていた。アイリスもアスが来ると知っていた。


「どこか行く?」


 アイリスが聞いた。光のない目で。だが明るい目で。


「結界の外。見てみたい」


 アスが答えた。結界の外の世界。千年の間、誰も行けなかった場所。悪魔がいた場所。今は何もない場所。何もないからこそ、何でもある場所。


「一緒に行こう」


 アイリスが頷いた。


 二人が歩き出した。街の端に向かって。結界があった場所に向かって。結界はもうない。光の壁はない。境界線を示すものは何もない。ただ街が終わって、野原が始まるだけだ。


 境界を越えた。


 足の下の感触が変わった。石畳から草に変わった。土の匂いが強くなった。風が吹いていた。


 ロキの幻惑ではない。本物の風だ。千年の間結界の中にいた世界には、本物の風がなかった。結界が空気の流れを遮っていた。今、遮るものがない。外の世界から風が吹いている。


 草が揺れている。木の葉が鳴っている。雲が流れている。鳥が飛んでいる。全部が本物だ。全部が初めてだ。


 アスが歩いた。アイリスが隣にいた。


 英雄ではない。ナイトブロウは使えるが、英雄ではない。光もない。特別な力もない。ただの二人が、結界のない世界を歩いている。


 広い。


 どこまでも広い。道がない。行き先がない。だからどこにでも行ける。


 アスが隣を見た。アイリスが同じ方向を歩いている。同じ速さで。同じ歩幅で。


 英雄の隣は空いている。ロキが消えた。バッシュが戦えなくなった。アーサーが剣を失った。英雄たちの隣に、空席がある。


 だがアイリスの隣は空いていない。


 アスがいる。


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