最後の英雄譚
芽が出ていた。
焦げた大地の隙間から、小さな緑が顔を出している。悪魔の痕跡が残る荒れた地面に、草が生え始めていた。千年の間踏み荒らされた土が、門が消えたことを感じ取ったように、息を吹き返している。
結界の外の世界は、まだ傷だらけだった。倒れた木。崩れた岩。黒く焼けた地面。悪魔がいた痕跡が、あちこちに残っている。だが芽が出ている。緑が少しだけある。枯れたはずの枝から、新しい葉が伸びている。
世界が回復し始めていた。
アスとアイリスが並んで歩いていた。
武器は持っていない。剣も、鎧も、何も。必要ない。悪魔はもういない。戦う相手はもういない。ただ歩いている。見たことのない景色の中を。二人の足跡が荒れた土に残っていく。
アイリスの表情が、英雄だった頃にはなかった顔をしていた。
穏やかだった。張り詰めたものが消えている。少しだけ寂しくて、少しだけ嬉しい。矛盾した表情が、自然に共存している。光を失った目が、世界をそのまま見ている。聖光のフィルターを通さない、裸の目で。
「こんなに静かなんだね。外って」
アイリスの声が広い空間に溶けた。
前は悪魔がいた。結界の外は死の世界だった。咆哮と殺気と闇が支配していた場所。今は風の音だけが聞こえる。草を揺らす音。木の葉が擦れる音。鳥が遠くで鳴いている。
静かだった。
アスの頭の中に、記憶が浮かんだ。
幼い日。結界の外。なぜ外にいたのか、もう覚えていない。迷い出たのか、連れ出されたのか。覚えているのは悪魔の影だけだ。大きな影。自分よりもずっと大きな影が迫ってきた。動けなかった。声も出なかった。死ぬと思った。
光が来た。
白い光が悪魔を貫いた。聖光。アイリスの光。幼い女の子が、幼いアスの前に立って、悪魔を倒した。命懸けで。自分より弱い子供を守るために。
あの日、アスは誓った。守る側になる、と。
全部ここから始まった。この地面の上で。結界の外で。悪魔に怯えて動けなかった日に。アイリスの背中を見て、あの隣に立ちたいと思った日に。
あの日の自分は弱かった。
今も強いかはわからない。英雄にはなれなかった。ナイトブロウは使える。エンチャントも炎もある。だが英雄ではない。七英雄の誰よりも弱い。
でも隣に立っている。
あの日の約束を果たしている。アイリスの隣にいる。守る側になると誓って、長い道を歩いて、仲間と出会って、折れて、立ち直って、戦って、失って、ここにいる。
小さな丘が見えた。
荒れた大地の中に、一つだけ緑が多い丘。草が生えている。花が咲いている。白い小さな花が、丘の斜面に散らばっている。
二人で登った。
頂上に立った。
景色が広がった。
広い。どこまでも広い。丘の上から見える世界が、果てしなく続いている。荒れた大地と、回復し始めた緑と、青い空と、白い雲。遠くに街が見える。結界のない街。小さく見える。あの中に全員がいる。
その向こうに、どこまでも続く世界がある。山が見える。森が見える。川が光っている。千年の間誰も行けなかった場所が、全部見えている。
「英雄になれた?」
アイリスが聞いた。
風が吹いていた。アイリスの金髪が揺れた。光のない目がアスを見ている。
アスが考えた。
長い沈黙があった。風の音だけが丘の上に流れていた。
英雄になれたか。一話で門の前に立った時の目標。アイリスの隣に立つこと。英雄になること。それが全ての始まりだった。
「わからない」
正直に答えた。わからない。英雄が何なのか、今でもわからない。七英雄は全員が英雄でなくなった。英雄の定義そのものが変わってしまった。
「でも——お前の隣にはいる」
アイリスの目が揺れた。
笑った。泣きそうな笑いだった。嫉妬を認めた時の涙とは違う。嬉しくて溢れる涙だ。光がない。聖光は出ない。だがアイリスの目が光っていた。涙の光。太陽の光を反射した、普通の涙の光。
「十分だよ」
その声が、丘の上の風に乗って消えていった。
風が吹いた。
強い風だった。丘の上を駆け抜けていく風。リーファの風ではない。誰の力でもない。ただの風。本物の風。結界がなくなって、世界中を吹き抜ける風が、この丘にも届いている。
二人の髪が揺れた。アスの赤い髪と、アイリスの金髪が、同じ風に揺れた。
仲間の気配がした。
見えない。聞こえない。だが感じる。
どこかでロイドが歩いている。故郷の跡地に向かって。大きな体で、静かに、一人で。だがすぐ戻る。
どこかでアテネが治療している。里に帰って、学んだ術で誰かを治している。おっとりした手つきで。自分を後回しにしながら。
どこかでミルが計算している。新しい世界の設計図を描いている。メモ帳を何冊も広げて。笑いながら。
どこかでレイが走っている。結界の外を。見たことのない土地を。先頭を走っている。
どこかでシアが研究している。魔法の新しい使い方を。戦い以外の使い方を。
どこかでクロが笑っている。誰かと話しながら。場の空気を読みながら。
どこかでガルドが黙って隣にいる。誰かの隣に。盾を置いて。ただ、いる。
八つの歯車は離れている。だが噛み合ったことがある。一度噛み合ったものは、忘れない。
アスの隣にアイリスがいる。アイリスの隣にアスがいる。
でもその向こうに、空いている場所がある。
ソラがいた場所。風魔法の男が、アイリスを慕って、アイリスを庇って、最後に「アイリスを頼む」と言った場所。
カイがいた場所。双剣の男が、軽口を叩いて、リーファと言い合って、囮になって消えた場所。
ロキがいた場所。千年を生きた教官が、飄々と笑って、八人を鍛えて、最後の幻惑で帰り道を作った場所。
三つの場所が空いている。
埋めなくていい。埋まらない。誰かが座ればいいという話ではない。ソラの場所はソラのものだ。カイの場所はカイのものだ。ロキの場所はロキのものだ。他の誰にも座れない。
空いているということは、そこに誰かがいたということだ。
空いたままの椅子は、その人がいた証拠だ。忘れない限り、椅子は残る。忘れない限り、空いたままでいい。
英雄の隣は空いている。
それがこの物語の名前だった。アスがアイリスの隣を目指して走り続けた物語。弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡いできた、最後の英雄譚。
たどり着いた今、その名前が新しい意味を持つ。
英雄の隣には常に空席がある。失った者の席。共に戦った者の席。そしてこれから出会う者の席。空いていることは悲しいことだ。だが空いていることは、そこに物語があったということだ。
空いていることが、この物語の全てだ。
アスが立ち上がった。丘の草を払って。
アイリスが立ち上がった。同じように。
二人が丘を降り始めた。街に向かって。何も特別なことは起きない。奇跡もない。覚醒もない。新しい敵も現れない。ただ帰る。日常に。仲間がいる場所に。
丘を降りる足が軽い。行きより軽い。理由はわからない。わからなくていい。
アスが歩いている。
隣にアイリスがいる。
前に道がある。
それだけで十分だった。
了




