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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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空白

 街が日常を取り戻し始めていた。


 門が消えてから数日が経った。魔界がなくなったという事実が、少しずつ街に広まっていく。最初は信じられないという顔をしていた人々が、日が経つごとに変わっていった。悪魔が出ない。結界の外に出ても何も起きない。外の世界が、ただの野原と森と山であることが確認されていく。


 ギルドの掲示板から悪魔討伐の依頼が消えた。代わりに復興作業と外域調査の依頼が増えた。結界の外にどんな土地があるのか。何が育つのか。人が住めるのか。千年の間閉じ込められていた世界が、初めて外に向かって開き始めていた。


 ソラとカイの正式な葬儀が行われた。


 7層から持ち帰れなかったソラの体は、魔界の崩壊と共に消えた。カイの体も同じだ。遺体のない葬儀だった。墓石だけが並んでいる。名前と、僅かな言葉が刻まれている。


 全員が参列していた。英雄たち。パーティーメンバーたち。アスたち八人。街の人々も何人か。ソラとカイの名前を知らない人々が、英雄のパーティーメンバーだったということだけで頭を下げていた。


 エルがソラの墓の前に立った。弓を手にしていた。ソラの弓ではない。エル自身の弓だ。長い間共に戦ってきた相棒。それを墓前に置いた。


 何も言わなかった。エルは最初から何も言わなかった。ソラが死んでから一度も声を出さなかったエルが、弓を置いて、一歩下がった。


 ルナがカイの墓の前に立った。双剣を二本、墓石の前に並べた。丁寧に。柄が揃うように。カイが腰に差していた形と同じ角度で。


 アイリスがソラの墓の前に立った。


「ありがとう」


 それだけだった。他の言葉は要らなかった。ソラが最後に守ったのはアイリスだ。アイリスが言える言葉は、それだけだった。


 アスがアイリスの隣に立っていた。ソラに頼まれた場所。「アイリスを頼む」。あの言葉通りの場所に、立っている。


 リーファがカイの墓の前で立っていた。何か言おうとして、口が動いて、止まった。もう一度動いて、また止まった。言葉が見つからないのだ。欲張りだった自分への懺悔か、カイへの感謝か、どちらを言えばいいのかわからない。


 ルナが横で言った。


「言わなくていい。カイはわかってる」


 リーファの肩が震えた。一度だけ。それで止まった。頷いた。


 三つ目の場所には、墓石がなかった。


 ロキの墓。だが体が残っていない。門と共に消えた。名前すら——ロキなのかアリアドネなのか、どちらを刻めばいいのかわからない。


 ゼンが石を一つ置いた。拳くらいの大きさの、何の変哲もない石。何も刻んでいない。名前も日付も言葉も。ただの石。


「これでいい」


 ゼンが言った。


「あの人は名前が多すぎる」


 全員が少しだけ笑った。ソラとカイの葬儀の場で笑うのは不謹慎かもしれない。だがロキなら——アリアドネなら——飄々と笑い返しただろう。「好きにしろ」と言って。


 日常が戻っていった。


 アーサーが復興作業を手伝っていた。素手で瓦礫を運んでいる。エクスカリバーがなくても、アーサーの腕は太い。重い石を軽々と持ち上げて、積み直している。グレンが隣で大剣を使って——大剣で木材を切っている。武器の使い方が根本的に間違っている。だが誰も文句は言わない。


 リーファが走って物資を運んでいた。結界の外から見つかった資材を、街まで運ぶ仕事。風はない。だが誰よりも速い。ルナが荷車を押してリーファについていく。カイの双剣は家に置いてきた。墓前に並べたものとは別に、ルナが自分用に一本だけ残していた。


 クールが子供の頭を撫でていた。感覚のない手で。温もりがわからない。柔らかさがわからない。だが手は動く。子供の頭の形を、手のひらが覚えている。子供が笑っている。クールの手が好きなのだ。冷たくて気持ちいい、と子供が言った。


 ベルが泣いていた。クールが子供の頭を撫でているのを見て。嬉しくて泣いているのだと、ベル自身が一番わかっていなかった。


 ナーバスがベンチで寝ていた。街の広場のベンチ。影がない体で、日向で寝ている。以前のナーバスなら影の中にいた。影がなくなったから、日向しか選べない。面倒そうな顔で眠っている。シェイドが少し離れた場所で本を読んでいる。リンが屋台でナーバスの分の食事を買っている。


 レイが朝から走っていた。街の外周を。毎朝。体を鍛え続けている。戦う相手はもういない。だが走ることをやめない。レイはそういう男だ。


 シアが魔法の研究を再開していた。悪魔がいなくなった世界で魔法が何に使えるか。農業。建築。医療。戦い以外の使い道を模索している。クールで口が悪い態度は変わらない。だが研究中の横顔は穏やかだった。


 クロが市場で値切っていた。八人分の食材を買い出しに来ている。軽い口調で店主と駆け引きしている。場の空気を読む才能は、市場でも発揮される。


 ガルドがアテネの買い物に付き合っていた。薬草を買いに来たアテネの横を、大きな体が歩いている。何も言わずに。荷物を持つでもなく、道を教えるでもなく、ただ隣にいる。自然に。いつからこうなったのか、二人とも覚えていないだろう。アテネが薬草を選んでいる間、ガルドは黙って立っている。アテネが「これにします」と言うと、ガルドが頷く。それだけの関係が、何より自然だった。


 ミルが計算していた。


 結界がなくなった後の世界の構造について。外の土地の広さ。使える資源の推定。人口の増加に耐えられる食糧生産量。戦いがなくなっても、ミルの頭は止まらない。メモ帳に数字が並んでいる。


 アスが話しかけた。何の用事もなかった。ただ通りかかっただけだ。


「ミル」


 ミルが顔を上げた。


 笑っていた。


 隠していない笑顔だった。37話で一瞬だけ見えた、名前のない表情。あの時アスが指摘したら即座に無表情に戻った笑顔。今は戻さない。隠さない。笑ったまま、アスを見ている。


「何ですか」


「いや、笑ってるなと思って」


「……うるさいです」


 無表情に戻そうとして、戻りきらなかった。口元が微かに上がったまま、メモ帳に目を落とした。


 ロイドが子供に囲まれていた。いつもの光景だ。三人だった子供が五人に増えている。ロイドの足にしがみつく子供、尻尾を掴む子供、肩車を要求する子供、ロイドの斧を触ろうとして叱られる子供、ロイドの耳を引っ張る子供。


 一人の子供が聞いた。


「英雄ってなに?」


 ロイドが少し考えた。子供を見下ろして。いつもの無表情で。だが目は優しかった。


「隣にいてくれる奴のことだ」


 子供が首を傾げた。わかっていない。だがいつかわかる日が来る。


 アスとアイリスが街を歩いていた。


 二人で。並んで。特に目的地はない。ただ歩いている。街の復興を見ながら。新しく建てられた壁を見ながら。植えられた花を見ながら。


 アイリスに光はない。英雄の装備もない。ただの服を着て、ただの靴を履いて、街を歩いている。以前よりも表情が柔らかい。英雄だった頃の張り詰めた顔が消えている。笑うことが増えた。小さな笑いだが、確かに増えた。


「英雄じゃなくなって、少しだけ楽になった」


 アイリスが言った。歩きながら。空を見ながら。


「ずるいよね」


 声が少し震えた。


「みんなが戦って失って、やっと手に入れた自由を——嬉しいと思ってる」


 ソラが死んだ。カイが死んだ。ロキが消えた。英雄たちは能力を失った。たくさんのものを失った末に手に入れた平和。その平和の中で、アイリスは「楽になった」と感じている。英雄でなくなったことを。それを嬉しいと感じる自分が、ずるいと思っている。


「嫉妬を認めたんだ。それでいい」


 アスが言った。


 アイリスが少し笑った。そうだった。嫉妬を認めた。普通に笑いたかった。普通に泣きたかった。それを認めたから嫉妬を殺せた。楽になったと感じることは、嫉妬を認めた先にあるものだ。


 訓練場を通りかかった。


 アリアドネが使っていた訓練場。街の外れにある広場。アスとアテネとミルが、最初に訓練を受けた場所。ロイドが加わった場所。八人で走り回った場所。


 誰もいなかった。だが踏み固められた地面が残っている。何度も何度も足で踏み、剣を振り、転がり、立ち上がった地面。草が生えない。踏みすぎて土が硬くなっている。


 アスが立ち止まった。


 ここで訓練した日々が蘇る。


 アリアドネが最初に現れた日。飄々とした顔で、アスの炎の癖を一目で指摘した日。「やっと見つけた」と呟いた声。あの声はアスには聞こえなかった。だが今ならわかる。ロキが千年間探し続けていた最後の一人を見つけた瞬間だったのだ。


 ナイトブロウを命名した日。「名前はお前がつけろ」と言われて、「ナイトブロウ」と答えた。ロキが「悪くない」と言って笑った。あの笑顔。


 「時間はあまりない」と言った目。笑っていなかった。千年の目が、初めて焦りを見せた瞬間だった。


 全部が繋がっていた。最初から最後まで。ロキの千年の計画の中に、全部があった。だが計画だけではなかった。ロキはアスたちを駒として育てたのではない。教え子として育てた。飄々と笑いながら、千年分の愛情を注いでいた。


 アイリスがアスの横に立っていた。何も言わずに。訓練場を見ている。アイリスもここに来たことがある。アリアドネを紹介したのはアイリスだった。全ての始まりは、アイリスがアリアドネをアスに繋いだことだった。


 夕方になった。


 復興中の酒場に全員が集まった。壁がまだ一部修理中で、隙間から夕焼けが見える酒場。大きなテーブルが中央にある。椅子が並んでいる。


 アスたち八人が座った。アイリスが座った。エルが座った。ルナが座った。元英雄たちが座った。アーサー。リーファ。クール。ナーバス。グレン。ミア。ゼン。シェイド。リン。フロスト。ベル。


 テーブルは大きかった。全員が座ってもまだ余裕がある。


 椅子が三つ空いていた。


 ソラの席。カイの席。ロキの席。


 誰も座らなかった。誰も片付けなかった。空いたまま。テーブルの端に三つの椅子が、主を待っている。


 レイが杯を上げた。


「帰ってきた奴らに」


 全員が杯を上げた。


「帰ってこなかった奴らにも」


 レイの声が少しだけ震えた。全員が杯を傾けた。


 酒場が騒がしくなっていった。グレンが大声で笑い、リンがナーバスに絡み、クロがシアと言い合い、ベルがクールに話しかけ続け、ルナがリーファの杯に酒を注ぎ足している。ミルがメモ帳を閉じてクロの話を聞いている。アテネがガルドの隣で微笑んでいる。ロイドが隅で静かに飲んでいる。レイが誰かれ構わず杯をぶつけている。


 アスがその三つの椅子を見ていた。


 空いている。ずっと空いている。ソラが座るはずだった場所。カイが座るはずだった場所。ロキが座るはずだった場所。


 空いたままだ。


 でもそこにいた人たちのことは、忘れない。ソラの風。カイの軽口。ロキの飄々とした笑い。全部覚えている。全部持っている。空いている席は埋められない。だがその席を守ることはできる。


 アスが顔を上げた。


 全員がいる。ボロボロで、能力を失って、傷だらけで。でもここにいる。同じテーブルで、同じ酒を飲んで、笑っている。


 窓の外に夕焼けが見えた。結界のない空。どこまでも続く、広い空。オレンジ色の光が酒場に差し込んで、全員の顔を照らしている。



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