帰ってきた日
土の匂いがした。
草の匂いがした。風の音がした。鳥の声がした。全部、7層にはなかったものだ。
アスは地面に顔をつけたまま、匂いを吸い込んだ。土。生きている地面の匂い。冷たくない地面。暗くない地面。
全員が転がっている。石畳と草の上に。動けない。体が拒否している。もう一歩も動けない。だが全員の胸が上下している。息がある。
アスが顔を上げた。
一人ずつ数えた。
アテネ。草の上に横になっている。目を閉じている。胸が上下している。
ミル。クロの背中で気を失っている。クロが地面にうつ伏せで、ミルを背負ったまま動けなくなっている。二人とも息がある。
ロイド。壁に背を預けて座り込んでいる。斧が横に転がっている。目を閉じているが眠ってはいない。
レイ。大の字で地面に転がっている。空を見ている。
シア。レイの横で横向きに倒れている。目を閉じている。
ガルド。盾を抱えるようにして座り込んでいる。アテネの近く。
アイリス。アスの隣に横になっている。目を閉じている。
ゼン。少し離れた場所に立っている。立っている。唯一立っている。空を見上げている。
元英雄たち。アーサーが壁に寄りかかっている。グレンが隣で倒れている。ミアがグレンの腕に回復の光をかけようとして、手が光らずに止まっている。使い切ったのだろう。リーファがルナを背負ったまま座り込んでいる。クールがフロストを地面に横たえて、横に座っている。ナーバスがシェイドとリンに挟まれて寝ている。エルが一人で座っている。
全員いる。
振り返った。魔界への門があった場所を見た。
何もなかった。
更地だった。ただの地面。石畳がある。その下に土がある。門の跡すらない。千年の間そこにあった魔界への入り口が、跡形もなく消えている。
魔界が消えた。
レイが笑い始めた。
最初は小さかった。喉の奥で漏れるような笑いだった。それが大きくなった。地面に転がったまま、空を見ながら笑っている。
「帰ってきた」
声が出た。笑いながら。
クロが笑った。うつ伏せのまま、顔を横にして。「帰ってきたな」。背中のミルが微かに身じろぎした。
ガルドの口が動いた。笑っている。声は出ていない。だが口角が上がっている。ガルドが笑うのを見たのは、数えるほどだ。
アテネが泣きながら笑っていた。目を開けて、涙を流して、口元が笑っている。矛盾した表情だった。泣いているのに嬉しい。嬉しいのに泣いている。
シアが目を閉じて空を向いていた。レイの横で。笑ってはいない。だが口元が緩んでいた。クールで口が悪いエルフの口元が、ほんの少しだけ。
アスが隣を見た。
アイリスが横になっていた。目を閉じていた。が、アスの視線を感じたのか、目を開けた。
目が合った。
何も言わなかった。言葉はいらなかった。アイリスが笑った。小さく。光のない目で。英雄ではない、ただの人間の顔で。
アスも笑った。
それだけで十分だった。
門が消えたことに、街の人々が気づき始めた。
門の周辺にはいつもギルドの管理人がいた。許可証を確認し、出入りを記録していた。その管理人が、門があった場所を呆然と見ている。門がない。地面しかない。
人が集まってきた。近くにいた商人。通りかかった職人。走ってきた子供たち。門があった場所に人だかりができていく。
その人だかりの中心に、泥だらけで血まみれの英雄たちが転がっている。
子供が一人、人だかりを抜けて走ってきた。真っ直ぐに。迷わずに。ロイドのところに。
ロイドが目を開けた。子供が膝に飛び込んできた。いつも絡んでいた子供だ。ロイドの長い足にしがみついて、尻尾を掴もうとしていた子供。
「おかえり!」
子供の声が、石畳に響いた。
ロイドの手が子供の頭に乗った。大きな手。乱暴に、だが壊さないように、子供の頭を撫でた。
ゼンが空を見ていた。
立ったまま。一人で。隣に誰もいない。ロキがいた場所が空いている。千年のパートナーが、そこにいない。
アスがゼンを見た。ゼンが視線に気づいた。アスの方を向いた。
微かに首を横に振った。
小さな動きだった。それだけで全部が伝わった。ロキは帰ってこなかった。門と一緒に消えた。最後の幻惑を残して、千年の存在が消えた。
アスの胸が締まった。わかっていた。ロキが門の中に入った時から、覚悟はしていた。だがゼンの首振りを見た瞬間、それが現実になった。
エルがソラの名前を呟いた。
聞こえないほど小さな声だった。地面に座ったまま、空を見て、名前を呟いた。一回だけ。弓使いの口から、パーティーメンバーの名前が漏れた。
ルナがカイの剣を胸に抱えていた。二本の双剣を、両腕で抱えている。目を閉じている。泣いてはいない。泣き切った後の顔をしている。
帰ってきた。でも全員ではない。ソラはいない。カイはいない。ロキはいない。
少しずつ、全員が立ち上がり始めた。
最初にアーサーが立った。壁から体を起こして、自分の足で立った。柄だけのエクスカリバーを腰に差したまま。
ロイドが子供を膝から降ろして立った。レイが地面から起き上がった。シアがレイの手を借りて立った。クロがミルを背負い直して立った。ガルドがアテネに手を貸して、二人で立った。
ボロボロの体。折れた武器。汚れた服。血が乾いた鎧。千切れたマント。だが立っている。全員が、自分の足で。
アスがアイリスの手を取って立った。アイリスが立った。二人で。
全員で街に歩いていった。
門があった場所を通り過ぎて、街の通りに出た。人々が道を開けた。両側に並んで、英雄たちが通る道を作った。
拍手が起きた。
最初は小さかった。一人が叩き始めた。隣の人が続いた。その隣の人が続いた。小さな拍手が、通りの端から端まで広がっていった。やがて大きくなった。街全体に響くような拍手になった。
英雄たちは黙って歩いていた。手を振る者はいなかった。笑顔を見せる者もいなかった。ただ歩いていた。ボロボロの体で、一歩ずつ。
街の入り口が見えた。
バッシュがいた。
椅子に座っている。動けないから。誰かがバッシュの椅子をここまで運んできたのだろう。街の入り口に、炎を失った英雄が座って待っていた。
アスが近づいた。バッシュの目が開いた。アスを見た。
「帰ってきたか」
アスの目が熱くなった。
「帰ってきました」
バッシュが目を閉じた。長く。深く。閉じた目の端に何かが光った。
「よくやった」
その声を聞いた瞬間、何かが切れた。
全員の中で、張り詰めていた糸が切れた。
街に入った瞬間、全員が崩れるように倒れていった。緊張が解けた。戦いが終わった。帰ってきた。もう走らなくていい。もう戦わなくていい。その実感が体を襲った瞬間、足が消えた。
グレンが膝から崩れた。ミアが隣で倒れた。リーファがルナを降ろして座り込んだ。ナーバスがそのまま寝た。
街の人々が駆け寄った。倒れていく英雄たちを支えた。肩を貸した。水を持ってきた。布を持ってきた。名前も知らない人たちが、名前も知らない英雄たちを支えていた。
アスが倒れた。膝が折れて、前のめりに倒れかけた。
倒れる直前にアイリスの手を握った。
アイリスの手が握り返した。二人で倒れた。手を繋いだまま。石畳の上に。
全員が眠った。
長い、長い眠りだった。戦いが終わった。魔界が消えた。悪魔がいなくなった。千年の戦いが終わった。
その実感を噛み締める前に、体が眠りを要求した。
目が覚めた。
夕方だった。窓の外に夕焼けが見えている。オレンジ色の光が部屋に差し込んでいる。宿の部屋だ。ベッドの上にいる。誰かが運んでくれたのだろう。
隣のベッドにアイリスが眠っていた。静かな寝顔だった。光がなくても、アイリスの寝顔は穏やかだった。
アテネが椅子で寝落ちしていた。アスとアイリスのベッドの間の椅子で。回復魔法をかけようとして、そのまま眠ったのだろう。手が中途半端に伸びている。
ミルが壁にもたれて寝ていた。メモ帳が膝の上に開いたまま。何かを計算しようとして、途中で意識が落ちたのだろう。
アスは体を起こした。痛い。全身が痛い。だが動く。手が動く。足が動く。生きている。
窓の外を見た。
夕焼けの空が広がっていた。オレンジと赤と紫が混ざった空。雲が流れている。鳥が飛んでいる。
結界がなかった。
空にあったはずの結界の光がない。街を覆っていた薄い膜が消えている。結界が要らなくなったのだ。悪魔がいない。魔界がない。守るべき外敵がない。だから結界が消えた。
空がどこまでも広かった。
結界に区切られていない空。どこまでも続く空。境界のない空。初めて見る空だった。この街に生まれてから、ずっと結界の中にいた。結界の向こう側を見たことがなかった。
今、結界がない。空がどこまでも広い。
「終わったんだ」
声に出した。小さな声だった。自分にしか聞こえない声だった。
初めて実感した。終わったのだ。全部。
第六十二話「帰ってきた日」
了




