走れ
世界が壊れていく。
天井が落ちてきた。7層に天井があったのかすらわからなかったが、暗闇を構成していた何かが剥がれ落ちてくる。地面が割れる。足元に裂け目が走り、闇の底が見えた。底のない底。7層の下にはもう何もない。
八人が倒れていた。
立てない。全力を五回放った体は、指一本動かすのに全身の力が要る。アスは地面に頬をつけたまま、崩壊していく世界を見ていた。天井の破片が落ちてくる。横を通り過ぎていく。当たったら死ぬ。わかっている。だが体が動かない。
足音が聞こえた。
走っている。こちらに向かって走っている。
アイリスだった。
光はない。力もない。英雄の何もかもを失った女が、崩壊する7層の中を走っている。破片を避け、裂け目を跳び越え、八人のところに走ってきた。
アスの腕を掴んだ。
「立って」
引っ張った。細い腕で。英雄の力がない、ただの人間の腕で。アスの体は重い。鎧がある。剣がある。消耗しきった体が鉛のように重い。それでもアイリスは引っ張った。
アスの体が動いた。腕が持ち上がった。アイリスに引かれて、上半身が起きた。膝をついた。立った。
ロイドが立った。自力で。斧を杖にして、体を押し上げた。レイが歯を食いしばって立った。シアがレイの腕を掴んで立った。ガルドが盾を地面に突いて立った。クロが立ち上がって、すぐにミルのところに走った。
ミルが立てなかった。バフの最大出力の反動で体が壊れかけている。腕が動かない。足に力が入らない。クロがミルの前にしゃがんだ。背を向けた。
「乗れ」
ミルがクロの背中に掴まった。クロが立ち上がった。ミルを背負って。右手に魔剣、左手にメモ帳。いつもの姿のまま、クロの背中で。
アテネが膝をついていた。回復の力を使い切っている。立とうとして、膝が折れる。ガルドが横に来た。肩を貸した。アテネの腕をガルドの肩に回して、二人で立った。
八人が立った。全員が。
門があった場所から、声が聞こえた。
微かだった。ほとんど消えている。空気の震えのような声。壊れていく世界の音に紛れて、消えかけている声。
「走れ」
それだけだった。
ロキの声だった。門と一緒に消えたはずの声だった。体はもうない。姿も見えない。だが声だけが残った。最後の力で、一言だけ。
走れ。
ゼンが門のあった場所を見ていた。何もない空間。光も闇もない、ただの空白。ロキの姿はない。声だけが残って、それも消えた。
ゼンが一瞬だけ目を閉じた。
開けた。
走り出した。
「行くぞ」
短い声だった。ロキの言葉を引き継ぐように。暗殺者の体が闇の中を駆け始めた。最後まで付き合うと言った男が、最後の仕事を引き継いだ。
全員が走り始めた。
崩壊する7層の中を走る。天井が落ちる。壁が倒れる。地面が割れる。何もかもが壊れていく。千年の間存在し続けた空間が、門を失って崩れていく。
アスが走っている。アイリスが隣を走っている。ロイドが先頭を走っている。レイが続く。シアが続く。クロがミルを背負って走っている。ガルドがアテネを支えて走っている。ゼンが全員の前を駆けて道を読んでいる。
元英雄たちがまだ戦っている場所に着いた。
悪魔の群れがまだ来ている。だが悪魔たちの動きがおかしくなっていた。門が砕けたことで、悪魔の生成源が消えた。新しい悪魔が生まれなくなった。既にいる悪魔たちも、存在の基盤を失って動きが鈍くなっている。
アーサーが振り返った。拳が血まみれだった。息が荒い。だが立っている。
「終わったか」
「終わった。逃げろ!」
アスが叫んだ。走りながら。
アーサーの顔が変わった。一瞬だけ笑った。それから全員に叫んだ。
「撤退!全員走れ!」
全パーティーが撤退に切り替えた。悪魔との戦いを放棄して、走り始めた。悪魔たちは追ってこなかった。追えなかった。足元の地面が崩れている。悪魔たちも崩壊に巻き込まれていく。
7層から6層への道を駆け上がった。
6層も崩壊し始めていた。下から壊れていく。7層が消え、その上の6層の床が崩れ、5層の床が崩れ、順番に消えていく。追いつかれたら終わりだ。崩壊の速度より速く走らなければ、足元がなくなる。
走る。ただ走る。
ナーバスが遅れた。影のない足では走りにくい。バランスが取れない。シェイドが右腕を掴んだ。リンが左腕を掴んだ。三人で走る。ナーバスの足が地面を蹴るたびに、二人が支えている。
「面倒だ」
ナーバスが言った。息が切れている。
「黙って走ってください」
リンが泣きながら言った。
フロストが倒れた。まだ傷が癒えていない体が限界を超えた。膝から崩れ落ちた。クールが振り返った。感覚のない手でフロストの腕を掴み、肩に担いだ。力がどこに入っているのかわからない。痛みも重さも感じない。だが体は動く。クールはフロストを担いで走った。
ベルが隣で叫んでいる。「無茶しないで!」。クールには聞こえていないかもしれない。それでもベルは叫び続けている。
ルナが足を捻った。崩れた地面の段差に足を取られた。転んだ。リーファが振り返った。走り戻った。ルナの前にしゃがんだ。
「乗れ」
ルナがリーファの背中に掴まった。リーファが立ち上がった。風はない。だが足は速い。ルナを背負ったまま、リーファの足が地面を蹴った。カイの双剣がルナの腰で鳴っている。
5層と4層の間で、崩壊が迫った。
天井が落ちかけていた。通路の上に巨大な岩盤が亀裂を入れながら沈んできている。あと数秒で通路が塞がれる。全員が通過する前に。
アーサーが立ち止まった。
グレンが叫んだ。
「何してる!」
アーサーが天井を見上げた。落ちてくる岩盤を見上げた。そして手を伸ばした。素手で。エクスカリバーのない手で。落ちてくる天井に手を当てた。
支えた。
英雄の能力はない。魔法もない。スキルもない。ただの人間の腕力で、崩れてくる天井を支えている。支えきれるはずがない。だがアーサーの足が地面にめり込みながら、天井の落下が遅くなった。完全には止められない。だが遅くなった。
グレンが走り戻った。大剣を天井に当てた。支柱のように。グレンの腕がアーサーの横で天井を支えている。
「一人で格好つけるな」
グレンの声は笑っていた。
ミアが走り戻った。二人の横に立って、回復の光を当てた。崩れていく腕と足を修復し続ける。
「バッシュのパーティー出身を舐めないで」
穏やかな声だった。穏やかな笑顔だった。崩れかける天井の下で、穏やかに笑っている。
三人が天井を支えている間に、全員が通路を走り抜けた。一人ずつ。パーティーごと。最後の一人が通過した。
アーサーが叫んだ。
「行くぞ!」
三人が同時に手を離した。天井が落ちた。三人が走った。岩盤が背中のすぐ後ろで砕けた。破片がグレンの背中に当たった。ミアが転びかけた。アーサーが二人の腕を掴んで引きずるように走った。
通路が塞がった。三人が通過した直後に。
ギリギリだった。
3層。2層。崩壊の速度が上がっている。走る。ただ走る。後ろを見たら足が止まる。前だけを見る。アスが先頭を走っている。アイリスが隣を走っている。光がないアイリスの足が、アスと同じ速度で地面を蹴っている。
1層に着いた。
門が見えた。地上への出口。最初にアスが一人で入った門。アテネとミルと三人で入った門。八人で入った門。何度もくぐった門が、向こう側に光を見せている。
だが1層も崩れ始めていた。床が割れている。壁が傾いている。通路が歪んでいる。
道が塞がれた。
崩壊した壁が通路を塞いでいた。瓦礫の山が門への道を遮っている。回り道をしている時間はない。足元の床が崩れ始めている。
どこに行けばいいかわからない。
その瞬間、道が見えた。
光の道。瓦礫の隙間に、一筋の光が差した。道がある。ここを通れば門に出る。瓦礫の奥に、通れる隙間がある。見えなかったはずの道が、見えている。
幻惑だった。
ロキの幻惑。門の中で消えたはずのロキの、最後の力。もう体はない。声すら消えた。だが幻惑だけが残っている。千年間使い続けた力の残滓が、崩壊する魔界の中に、帰り道を映し出している。
全員がその道を走った。
光の道を。ロキが残した道を。瓦礫の隙間を抜け、崩れる壁の合間を縫い、割れる床を跳び越えて。
門が見えた。地上への出口。光が差し込んでいる。本物の光。太陽の光。
全員が門を抜けた。
地上の光が目に刺さった。
7層の闇の中にいた目には、太陽の光が痛かった。眩しくて何も見えない。だが温かい。光が温かい。空気が軽い。呼吸ができる。喉が焼けない。
全員が地面に倒れた。門を出た直後に。走り続けた体がこれ以上を拒否した。石畳の上に倒れ込んだ。冷たい石の感触。街の石畳。地上の地面。
背後で音がした。
門が崩壊していた。地面の中に門が沈んでいく。光が消えていく。門の枠が砕けて、地面に吸い込まれていく。魔界への入り口が閉じていく。
消えた。
門が消えた。地面にあったはずの入り口が、跡形もなく消えた。石畳だけが残っている。何もなかったかのように。
ロキの幻惑が消えた。
1層に見えていた光の道が、消えた。最後の残滓が、魔界と一緒に消えた。ロキが残した最後のものが、なくなった。
アスは石畳に頬をつけたまま、空を見た。
青かった。
雲が一つ浮いている。白い雲。風に流されている。普通の空だ。7層の闇ではない。6層の歪みでもない。ただの空。ただの青。
全員が地面に転がっている。八人と、アイリスと、ゼンと、元英雄たちと、全パーティーと。全員が地上の石畳の上で、空を見ている。
青い空の下で、誰も声を出さなかった。
第六十一話「走れ」
了




