二つの選択
市場が開いていた。
朝の光の中で、いつもと同じように店が並んでいる。果物を積んだ荷車。焼きたてのパンの匂い。魚を並べる声。値段を叫ぶ声。客が笑う声。子供が走り抜けていく。犬が吠える。誰かが怒鳴る。誰かが謝る。
普通の朝だった。
アスは一人で歩いていた。見慣れた道を。何度も通った道を。訓練場の前を通った。アリアドネに炎の癖を指摘された場所だ。「力に頼りすぎだ。細く長く」。あの声が聞こえる気がした。
ギルドの前を通った。最初に仲間を募集した場所だ。アテネとミルに出会った場所だ。掲示板にはまだ依頼が貼ってある。危険度2の悪魔討伐。素材採集。護衛任務。アスが最初に受けた依頼と同じような内容が、まだ並んでいる。
武器屋の前を通った。アイリスの剣を強化した場所だ。レイたちと再会した場所だ。店主が店先で刃を研いでいる。目が合った。店主が顎で挨拶した。アスも頷いた。
全部が眩しかった。
22話で、剣を置いた翌朝にこの街を歩いた。あの時も市場は開いていた。あの時も子供が走っていた。あの時、この景色を見て「守りたい」と思った。アイリスが守っていたのはアスだけじゃなく街全部だった。この市場も、この道も、この声も。
今も同じだ。守りたい。この景色を。
バッシュの家の前に着いた。
大きな屋敷だ。元英雄の家。ノックした。返事があった。入った。
バッシュが椅子に座っていた。窓際の椅子。日の光が差し込んでいる。体は動かない。炎は出ない。英雄の素質を失った体は、日常の動作すら重くなっている。だがバッシュの目は生きていた。
「聞いたぞ」
バッシュが言った。笑っていた。
「Bを選んだんだってな」
アスは頷いた。
「Aは確実だった。お前が楔になれば世界は救える。結界も維持できる。誰も死なない」
バッシュの声は穏やかだった。事実を述べている。責めてはいない。
「だがお前はBを選んだ」
アスを見た。炎を失った英雄の目が、アスを見た。
「正解だ」
アスの胸が動いた。
「犠牲の上にしか立てない平和は長く持たない。俺が知ってる」
バッシュ自身がそうだった。ルシファーを殺し、炎を失い、二度と戦えなくなった。その犠牲で大罪の悪魔が一体減った。だが残りの六体はいた。バッシュの犠牲だけでは終わらなかった。
「死ぬな」
バッシュが言った。
「二度目だぞ」
侵食編でも同じことを言われた。「死ぬな」。あの時は炎を継承してもらった直後だった。今は門を壊しに行く前だ。
「死にません」
アスが答えた。
「全員で帰ります」
バッシュが笑った。本物の笑みだった。炎がなくても、体が動かなくても、バッシュの笑みは変わらなかった。
門の前に全員が集まった。
街の中央にある、魔界への入り口。何度もくぐった門。最初に一人で入った場所。アテネとミルと三人で入った場所。ロイドと四人で入った場所。八人で入った場所。
英雄でなくなった七人が立っている。アーサーが柄だけのエクスカリバーを腰に差している。リーファが風のない髪を結んでいる。クールがベルの手を握っている。ナーバスが影のない足で立っている。アイリスが光のない目で前を見ている。ロキが透けた体で全員を見渡している。バッシュだけがいない。だがバッシュの言葉はアスの中にある。
パーティーメンバーたちが英雄の後ろに立っている。グレンが大剣を背負っている。ミアが回復の手を準備している。ゼンが音もなく立っている。ルナがカイの双剣を腰に差している。二本とも。いつの間にかもう一本も見つけたのか、それとも誰かが届けたのか。シェイドが黙っている。リンが涙を拭いて、笑った。笑えている。フロストが意識を取り戻していた。まだ万全ではないが、立っている。クールの隣に。ベルがクールの手を握っている。クールは感覚がない。だが握り返している。感じられなくても、ベルの手がそこにあることは知っている。
エルが一人で立っていた。ソラのいない場所で。弓を背負って、黙って。
アーサーが前に出た。英雄でなくなっても、この場を仕切るのはアーサーだった。
「作戦はシンプルだ」
柄だけのエクスカリバーに手を置いて、全員を見た。
「俺たちが壁になる。お前たちが壊す」
元英雄たちとそのパーティーが、7層の道を開ける。悪魔を蹴散らし、壁になり、アスたちが最深部に届くまでの道を作る。能力を失った英雄たちと、その仲間たち。
「英雄じゃなくても戦える。それは証明済みだ」
アーサーが拳を見せた。木を素手で叩いていた拳。皮が剥けて、治って、また剥けた拳。
「任せろ」
グレンが言った。大剣を構えた。豪快な笑みだった。
ミアが頷いた。穏やかな目に覚悟があった。
ゼンが何も言わなかった。ロキの横に立っている。最後まで。
リンが涙を拭いた後の顔で笑った。短剣を握る手が安定している。
アスたち八人が集まった。
自然と円になった。訓練の時と同じ形。八つの歯車が並ぶ形。
レイが口を開いた。
「まあ、いつも通りだ」
クロが笑った。
「いつも通りが一番難しいんだって」
ミルが全員を見た。何も言わなかった。メモ帳は閉じている。今日は計算の日ではない。だがミルの目が全部言っていた。八人を見る目が。信じている、と。
ガルドが盾を構えた。
それが合図だった。いつもそうだ。ガルドが盾を構えたら、準備完了。言葉はいらない。
足音が近づいてきた。
アイリスだった。八人の輪の外から歩いてきた。光はない。武器もない。英雄の装備も何もない。ただの服を着て、ただの靴を履いて、歩いてきた。
「私も行く」
アスを見て言った。
アスは「来るな」と言わなかった。言う理由がなかった。アイリスは英雄ではない。光もない。戦力としては意味がない。だがそんなことはどうでもよかった。
「一緒に行こう」
アイリスが八人の輪に入った。九人になった。
ロキが全員を見渡した。
透けた体で。千年の目で。全員の顔を一人ずつ見た。その目に何が映っているのか、アスにはわからなかった。千年分の記憶。何百人もの顔。何世代もの英雄。死んでいった者たち。生き残った者たち。全部が重なっているのかもしれない。
「行くか」
それだけだった。
いつもの飄々とした声。アリアドネとして訓練をつけていた時の声。「次は3層まで行け」と言った時の声。「合格だ」と言った時の声。
だが少しだけ震えていた。千年の声が、最後の出発の前に、少しだけ。
門に全員が入っていった。
先頭はアーサーだった。柄だけの剣を腰に差して、素手で、先頭を歩く。グレンとミアが続く。リーファとルナが続く。クールとフロストとベルが続く。ナーバスとシェイドとリンが続く。他の全パーティーが続く。
最後にアスたちが入る。
振り返った。
街の人々が見送っていた。門の周りに集まっている。何が起きるのかは知らないだろう。だが英雄たちが行くことは知っている。
子供が手を振っていた。ロイドに絡んでいた子供だ。小さな手を必死に振っている。
アスが手を振り返した。それだけだった。大げさな言葉も、誓いも、何もなかった。ただ手を振った。帰ってくる約束の代わりに。
門に入った。
1層の光が包んだ。人工的だが確かな光。ここから潜っていく。1層、2層、3層、4層、5層、6層、7層。全部通って、最深部へ。
歩きながら、アイリスがアスの横にいた。
「怖い?」
アイリスが聞いた。小さな声だった。
「怖い」
アスが答えた。嘘は言わなかった。怖い。門を壊せるかわからない。全員で帰れるかわからない。ロキが消えるかもしれない。自分が死ぬかもしれない。怖い。
「私も」
アイリスが言った。
それだけで十分だった。怖くないふりをする必要がない。二人とも怖い。それでも歩いている。
各層を駆け抜けた。1層は走って通過した。2層の異変はもうなかった。大罪が消えたことで、悪魔の活性化が収まっている。3層の暗い森を抜けた。4層の深海を通過した。5層の歪んだ空間を走った。
英雄たちの力がなくても走れた。全員で走っている。先頭のアーサーが素手で道を開け、リーファが風のない足で走り、ナーバスが影のない体で進む。能力を失った英雄たちが、それでも先頭を走っている。
6層に入った。
悪魔が来た。前回はここで英雄たちが技を炸裂させて道を開けた。エクスカリバー、真空刃、氷結、影縫い。今はどれもない。
だが止まらなかった。
アーサーが拳で悪魔を殴り飛ばした。リーファが体術で蹴り飛ばした。クールが氷のない手で悪魔の急所を突いた。英雄の技はなくても、千年と数百年分の戦闘経験がある。体が覚えている。
パーティーメンバーたちが脇を固めた。グレンの大剣が悪魔を薙ぎ払い、エルの矢が急所を射抜き、ゼンが影のように悪魔の背後を取った。全員が戦っている。全員で道を開けている。
前回は英雄が道を開けた。今回は全員で開けている。
6層を通過した。
7層の入り口が見えた。
闇の裂け目。光のない穴。あの向こうに、音も光もない世界がある。大罪の悪魔はもういない。だが悪魔はまだいる。そして最深部に、原初の門がある。
アスが立ち止まった。
一瞬だけ。足が止まった。闇を見つめた。あの中に入る。もう一度。前回はソラが死んだ。カイが死んだ。今回は全員で帰ると決めた。だが闇は変わらない。同じ闇だ。
隣に来た。
ロイドだった。音もなく横に並んだ。
「行くぞ」
短かった。いつものロイドだった。
アスが頷いた。足が動いた。
八人と、アイリスと、ロキと、全員が闇に踏み込んだ。
第五十七話「二つの選択」
了




