知る資格
七人が待っていた。
アスが部屋に入った時、全員がこちらを見た。既に知っている顔をしていた。ロイドが壁に背を預けて立っている。ガルドが窓際に座っている。ミルがメモ帳を開いている。アテネが椅子に座って、手を膝の上で組んでいる。レイが床に座っている。シアがレイの隣に立っている。クロがベッドの端に腰掛けている。
全員が知っている。
「聞こえていた」
ロイドが言った。
「壁が薄い」
隣の部屋でロキと話していた声が、筒抜けだったのだ。ロイドだけではない。全員が聞いていた。門のこと。楔のこと。Aの選択肢とBの選択肢。アスが適任だということ。
アスは立ったまま、全員を見た。隠すことは何もなかった。
「全部聞いた通りだ」
声が出た。自分でも驚くほど平坦な声だった。
「7層の最深部に門がある。悪魔はそこから生まれてる。楔が朽ちかけてて、このままだと結界が消える。止める方法は二つ。俺が楔になるか、全員で門を壊すか」
言葉にすると、より重くなった。
「俺のナイトブロウが楔と同じ性質だから、Aなら俺が行く。確実に止められる。でも帰れない」
帰れない、という言葉が部屋の空気に沈んだ。
「Bは門を壊す。魔界ごと。成功すれば悪魔が全部消える。でもロキの体が透けてきてて、内側から押す力が足りないかもしれない」
全部話した。ロキから聞いた全てを。
ミルが最初に口を開いた。
「整理します」
メモ帳に視線を落とした。ペンが走る音がした。
「Aは確実ですが不可逆です。アスさんが楔になれば世界は救われますが、アスさんは二度と戻れません」
感情を排除した声だった。ミルのやり方だ。事実を正確に並べる。判断は感情ではなく情報に基づく。
「Bはリスクがありますが、成功すれば全員が帰れます。問題の核はロキの消耗です。内側から押す力が足りない可能性がある」
ペンが止まった。
「つまりBの成功確率を上げる方法を見つければいい」
冷静だった。完璧に冷静だった。だがメモ帳を持つ手が震えていた。ペンの先が微かに揺れている。ミルは気づいているのかいないのか、手を止めなかった。震えたまま書き続けた。
ロイドが黙っていた。
長い沈黙だった。ロイドの沈黙はいつも重い。考えているのか、感じているのか、外からはわからない。だがこの男の沈黙には必ず意味がある。
「お前がAを選ぶなら止めない」
ロイドの声が出た。
アスの目が動いた。止めない。その言葉の重さ。ロイドはアスの判断を否定しない。アスが自分の命を使うと決めたなら、それを受け入れる。それがロイドの信頼の形だった。
「だが俺はBで戦いたい」
短かった。それだけだった。俺は、と言った。全員で帰る方がいい、ではない。俺が戦いたい、と言った。ロイドの答えは理屈ではなく意志だった。
アテネが泣いた。
声が出た。抑えようとして、抑えきれなかった。目から涙が溢れて、膝の上に落ちた。アテネの手が顔を覆った。
「すみません。泣かないつもりだったんですけど」
声が震えていた。おっとりした声が、喉の奥で詰まっている。
「でも——アスさんがいない世界は嫌です」
素直だった。アテネはいつも素直だった。感情を隠せない。隠す気もない。回復魔法の手を止めず、自分を後回しにして、いつも誰かのそばにいる女が、今は自分の感情を素直に出していた。
レイが口を開いた。
「俺はBだ」
迷いのない声だった。床に座ったまま、天井を見上げて言った。
「全員で帰る方がいいに決まってる。そんなの考えるまでもない」
レイはいつもそうだ。熱血だが無鉄砲ではない。弱い自分を認めた上で前に立つ。その男が「考えるまでもない」と言い切った。
シアが口を開きかけて、閉じた。もう一度開いた。
「感情論だけでは——」
途中で止まった。少し黙った。シアの目が揺れていた。クールで口が悪いエルフの目が、何かと戦っている。合理的な判断を下すべきだ。感情に流されるべきではない。だが。
「……でも私もBがいい」
小さな声だった。感情論だ。合理性の欠片もない。でも、と言った。シアが「でも」を使った。あの口の悪いエルフが、論理を曲げて感情を選んだ。
クロが笑った。
「帰ってきたら飯奢れよ」
軽い声だった。場の空気を読む男が、重すぎる空気を少しだけ持ち上げた。だがクロの目は笑っていなかった。真剣だった。帰ってきたら、と言った。帰ってくる前提で話している。
ガルドが頷いた。
無言で。一度だけ。深く。盾を握る手が動いた。立つ準備をしている。いつでも立てるように。いつでも守れるように。ガルドの答えは言葉ではなく、その姿勢だった。
ドアが開いた。
全員が振り返った。
アイリスが立っていた。
部屋の入り口に。光のない目で。昨夜泣いた跡が目の下に残っている。赤い。隠そうとした跡がある。だが隠しきれていない。
全員が黙った。七人の会話が止まった。アイリスがこの部屋に来るとは思っていなかった。
アイリスがアスを見た。
「私はもう英雄じゃない」
声が出た。震えていなかった。昨夜泣いた分だけ、今朝は震えが止まっていた。
「光もない。何の力もない」
手をかざした。何も起きなかった。聖光も、光の剣も、何も。ただの手だ。
「でもあなたの隣にいる資格くらいはあると思う」
アスの胸が痛んだ。痛みではない。もっと温かいものだった。資格。アイリスがそれを口にした。英雄の資格ではなく、隣にいる資格。
「だから——一緒に考えさせて」
アスが頷いた。声が出なかった。喉が詰まっていた。だが頷いた。何度目かの頷きだった。ソラの前で頷いた。ロキの前で頷いた。今度はアイリスの前で。
アイリスが部屋に入ってきた。アスの隣に座った。
足音が廊下に響いた。重い足音と、軽い足音と、何人かの足音が近づいてきた。
アーサーが現れた。ドアの枠に寄りかかるように立っている。柄だけのエクスカリバーを腰に差したまま。グレンとミアが後ろにいる。
「Bだ」
短かった。
「犠牲の上に成り立つ勝利はもういい」
アーサーの目はアスを見ていなかった。ロキの透けた手を見ていた。原初の英雄が命を差し出した。バッシュが炎を差し出した。ロキが千年を差し出した。もう誰かが何かを差し出す終わり方は要らない。
リーファが来た。ルナと一緒に。
「同じく」
風のない髪を揺らして。カイの双剣を背負ったルナが、リーファの横に立っている。
ナーバスがシェイドとリンに挟まれて現れた。影のない足で、ゆっくりと。
「面倒だが……まあ」
それだけ。ナーバスらしかった。リンが小さく笑った。泣きすぎて腫れた目で、それでも笑った。
クールが来た。ベルに手を引かれて。フロストはまだ意識が戻らない。ベルがクールの目の代わりをしている。
「合理的に考えてもBの方が失うものが少ない」
クールの声は無表情だった。だが「失うもの」という言葉の重さを、クールは誰よりも知っている。感覚を失った英雄が、これ以上失いたくないと言っている。
全員がBに傾いた。
だが部屋の空気は晴れなかった。問題が残っている。全員がそれを知っていた。
ロキの消耗分をどう補うか。八人の力だけで門を壊せるのか。足りるのか。「足りるのか」が全員の中にある。Bを選びたい。全員が選びたい。だが選んだ結果が全滅なら、それはAより悪い結末だ。
アスがミルを見た。
「足りるか」
ミルに聞いた。この場で最も正確に計算できる人間に。
ミルが目を閉じた。
長い沈黙だった。ミルの頭の中で数字が回っている。ナイトブロウの出力。エンチャントの維持回路。炎の最大火力。八人の合計出力。ロキの残存戦力。門の推定強度。破壊に必要なエネルギー量。
目が開いた。
「理論上は……足りません」
部屋の温度が下がった気がした。全員の顔が曇った。足りない。計算上、足りない。八人の最大出力とロキの残存戦力を足しても、門を壊すには届かない。
ミルがメモ帳を閉じた。閉じて、もう一度開いた。
「理論上は」
ミルの声が変わった。平坦な声に、微かな色がついた。
「でも私たちは理論上不可能なことを何度かやってきました」
メモ帳をめくった。過去の記録。過去の計算。過去の結果。
「5層踏破。八人で危険度8上位を倒しました。計算上は無理でした」
ページをめくる。
「侵食編。ルシファーにアスさんのナイトブロウが届きました。計算上はあり得ませんでした」
ページをめくる。
「大罪戦。英雄たちが罪を認めて核に届きました。計算に入れようがない変数です」
メモ帳を閉じた。今度は閉じたまま。
「足りない分は根性で——とは言いません」
ミルの目がアスを見た。冷静な目だ。だがその奥に、ミルにしか見せない感情がある。
「でも八人が完全に噛み合えば、上振れの可能性はあります」
上振れ。計算を超える力。理論上は足りない。だが理論上は不可能なことを、この八人は何度もやってきた。
アスが立ち上がった。
「全員で帰る」
迷いが消えていた。昨夜から回り続けていた二つの声が、一つになった。アイリスの「行かないで」。ソラの「アイリスを頼む」。矛盾していると思っていた。守ることと隣にいること。どちらかしか選べないと思っていた。
違った。
全員で帰ることが、全部を叶える答えだった。
「足りないなら足りるようにする。それだけだ」
言い切った。根拠はない。計算上は足りない。だが根拠がないことと、不可能であることは違う。八人で戦ってきた。八人で不可能を越えてきた。もう一度やる。
アイリスの手がアスの手を握った。
光はない。聖光も、光の剣も、何もない手。ただの手がアスの手を握った。冷たくも温かくもない、普通の温度の手だった。
「一緒に帰ろう」
アイリスが言った。涙は出なかった。昨夜泣き切った目で、まっすぐにアスを見ていた。
全員がBを選んだ。
だが問題は解決していない。理論上足りない分をどう補うか。ロキの消耗をどう埋めるか。上振れの可能性はある。だが可能性だけでは賭けになる。
ミルが立ち上がった。メモ帳を胸に抱えて、ドアに向かった。
「一つ確認させてください」
振り返らずに言った。
「ロキのところに行ってきます」
メモ帳を持つ手が、もう震えていなかった。
第五十五話「知る資格」
了




