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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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最後の真実

 ロキが中央に立っていた。


 透けた体で。手袋を外して、長袖を脱いで、自分の状態を隠すのをやめた姿で。指先の向こうに壁が見える。腕の輪郭が揺れている。千年を生きた存在が、消えかけている。


 全員が集まっていた。英雄たち。パーティーメンバーたち。アスたち八人。宿の一階の広間に、椅子も足りない人数が詰め込まれている。座っている者、立っている者、壁に寄りかかっている者。全員がロキを見ていた。


 ロキが口を開いた。


「7層の最深部に門がある」


 声は静かだった。飄々とした響きはない。事実を伝える声だった。


「原初の門。悪魔が生まれる場所だ」


 全員が息を止めた。


「1000年前、原初の英雄がそこに自らを楔として打ち込んだ。自分の命を使って、悪魔の生成を抑えた」


 楔。人間一人の命を使って、悪魔の源を封じた。それが1000年前。ロキが約束を交わした相手。原初の英雄。


「俺はその場にいた。約束を交わした。悪魔を滅ぼすと。あいつが命を賭けて抑えている間に、俺が方法を見つけると」


 ロキの目が遠くなった。千年前を見ている。


「1000年経った。楔が朽ちかけている」


 広間の空気が重くなった。


「大罪の悪魔は、楔の綻びから生まれた存在だった。封印が緩んで、門の力の一部が漏れ出し、それが大罪の形を取った」


 アスの頭の中で繋がった。大罪の悪魔が力を取り戻していたのは、楔が朽ちているからだ。悪魔たちが強くなっていたのも、門の力が漏れ出していたからだ。


「大罪を殺しても、門が残っている限り、次の悪魔が生まれる。いずれ大罪と同等の存在が、また」


 ミルが目を伏せた。計算していたのだろう。結界が数ヶ月で消えること。その先に何が起きるか。ミルの計算は正しかった。大罪を殺しただけでは解決にならない。


「門を止める方法は二つある」


 ロキが右手を上げた。透けた指が二本立った。


「一つ目。楔を打ち直す」


 広間が静まった。


「誰かが門の中に入り、自らを楔にする。原初の英雄と同じだ。自分の命で門を封じる。確実だ。千年以上は保つ」


 確実。その言葉が重い。確実ということは、失敗しないということだ。だが。


「二度と帰れない」


 ロキの声が落ちた。


「門の中に入った者は、そこに留まり続ける。生きているとも死んでいるとも言えない状態で。千年以上」


 誰かが息を呑んだ。誰の声かわからなかった。


「二つ目。門そのものを壊す」


 ロキが左手を上げた。


「門を壊せば、魔界が崩壊する。悪魔の生成源がなくなる。悪魔が全て消える。結界も要らなくなる」


 全てが終わる。悪魔がいなくなる。千年の戦いが終わる。


「だがリスクがある。門を壊す際に魔界が崩壊する。中にいる全員が巻き込まれる可能性がある」


 二つの手を下ろした。


 沈黙が落ちた。


「楔の適任者について話す」


 ロキの目がアスを見た。


 アスの体が強張った。見られている。千年の目に。


「ナイトブロウは守る意志が形になった力だ」


 アスの手が膝の上で握られた。


「楔の本質は、守る力だ。門を押さえ続ける力だ。アス。お前のナイトブロウは楔と同じ性質を持っている」


 全員の目がアスに集まった。


「お前が最も適任だ」


 音が消えた。


 アスの鼓動が聞こえた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。適任。自分が。門の中に入って、楔になって、二度と帰れない。それが一番確実だと。


 アイリスの顔が視界の端に入った。


 凍っていた。アイリスの顔から全ての色が消えていた。目が見開かれて、唇が開いて、何か言おうとして何も言えない顔。嫉妬と戦った時よりも、ソラが死んだ時よりも、凍りついた顔だった。


「二つ目の方法について」


 ロキが続けた。アスから目を外した。


「門を壊すには、外側から力をぶつける必要がある。英雄の素質を持つ者の力を」


 英雄の素質。だが英雄たちは素質を失っている。


「同時に、内側から門を支えている楔——原初の英雄の残滓を解放しなければならない。内側に入る者が一人要る」


 ロキが自分の胸に手を置いた。


「俺がやる」


 ロキが門の中に入る。原初の英雄の残滓と向き合い、内側から門を押す。外からアスたちが力をぶつけて、門を砕く。


「だが俺はもう万全じゃない」


 ロキが右手を持ち上げた。透けた手。向こう側が見える手。


「内側から押す力が足りない可能性がある。外からの力で補う必要がある」


 本来の計画では、ロキは万全の状態で門の中に入るはずだった。強欲を殺す前の、消えかけていない体で。だが大罪を殺した呪いがロキの存在を削った。計画が狂った。


「つまりBは確実じゃない」


 ミルが言った。声は平坦だった。だが目がロキを射抜いていた。


「確実じゃない」


 ロキが認めた。


 沈黙が広間を満たした。


 A。アスが楔になる。確実。だが帰れない。


 B。全員で門を壊す。悪魔が消える。だがロキの消耗で成功が不確実。失敗すれば全員が魔界の崩壊に巻き込まれる。


 どちらも重かった。


 誰も口を開けなかった。アーサーが腕を組んで目を閉じている。リーファが唇を噛んでいる。クールが窓の外を見ている。ナーバスが壁に寄りかかって動かない。


 アスは黙っていた。


 頭の中で二つの選択肢が回っている。A。自分が行く。確実に世界を救える。仲間は助かる。アイリスは助かる。だが二度と会えない。B。全員で行く。成功すれば全員帰れる。失敗すれば全員死ぬ。


 アイリスを見た。


 アイリスが目を逸らした。アスの目を見ていられない。見たら何かが壊れる。アイリスの目が逸れた先は床だった。床を見つめている。拳が白くなるまで握られている。


「今日は考えろ」


 ロキが言った。


「明日答えを出す」


 全員が散った。椅子が引かれ、足音が重なり、広間から人が消えていく。アーサーがグレンと出ていった。リーファがルナと出ていった。クールがベルに手を引かれて出ていった。ナーバスがシェイドとリンに挟まれて出ていった。


 八人も出ていった。ロイドが最後に一度だけアスを振り返った。何も言わなかった。ドアが閉まった。


 アスだけが残った。


 ロキと二人になった。


 広間には椅子が散らばっている。さっきまで全員が座っていた椅子が、乱雑に残っている。アスはその一つに座ったまま動けなかった。


「……教官」


 声が出た。


「ロキでいい」


 ロキが椅子を引いて、アスの向かいに座った。透けた体で。柔らかい音で椅子が軋んだ。


「お前を犠牲にするために育てたんじゃない」


 ロキの目がアスを見ていた。飄々とした仮面の下の、素の目だった。


「俺はBを選びたい。1000年間、誰かが犠牲になる方法しかなかった。原初の英雄がそうだった。バッシュもそうだった。誰かが何かを差し出して、残った者が泣く。そういう終わり方しかなかった」


 ロキの声が震えた。初めてだった。千年を生きた存在の声が震えた。


「もう終わりにしたい」


 その一言が、広間の空気を変えた。


「だがAが確実なのも事実だ」


 震えが止まった。事実に戻った。


「選ぶのはお前だ。俺はどちらでも付き合う」


 ロキが立ち上がった。椅子が軋んだ。透けた手がテーブルの端を掴んで、体を支えている。立ち上がるのに力が要るようになっている。


 アスの方を見ずに歩いていった。ドアが開いて、閉まった。


 アスが一人残った。


 広間は静かだった。散らばった椅子と、冷めたお茶と、誰かが置いていったパンの欠片。日常の残骸みたいなものが、テーブルの上にある。


 足音がした。


 ドアが開いた。アスは顔を上げなかった。誰が来たか、わかっていた。


 アイリスだった。


 広間に入ってきた。アスの向かいではなく、隣に座った。ロキが座っていた椅子ではなく、アスのすぐ横の椅子を引いて、座った。


 何も言わなかった。


 アスも何も言わなかった。


 長い沈黙が続いた。窓の外で復興作業の音がしている。誰かが板を打ちつけている。子供の声が遠くに聞こえる。日常の音だ。守りたい音だ。


「行かないで」


 アイリスの声が聞こえた。


 小さかった。英雄の声ではなかった。光を失った、ただの人間の声だった。


「行かないで」


 二度言った。同じ言葉を。二度目の方が震えていた。


 アイリスの初めてのわがままだった。英雄として生きてきた女が、初めて自分のために何かを求めた。普通に笑いたかった。普通に泣きたかった。嫉妬を認めた時にそう言った。その先にある言葉が、これだった。行かないで。あなたがいなくなるのは嫌だ。


 アスは何も答えられなかった。


 答えたかった。行かない、と。ここにいる、と。だがAが確実だとロキは言った。自分が楔になれば世界が救える。仲間が助かる。アイリスが助かる。


 ソラの声が聞こえた。「アイリスを頼む」。頼まれた。託された。アイリスを守ると。


 守るとは何だ。世界を救うことか。隣にいることか。


 答えが出なかった。


 夜が来た。


 宿の部屋で、アスは天井を見ていた。眠れなかった。横になっているが目が閉じない。仲間の顔が浮かぶ。


 アテネ。「終わったんですね」と言った声。まだ終わっていない。アテネの治療の手はまだ必要だ。


 ミル。結界の残り時間を計算していた。ミルが計算を続けてくれるから、何が必要なのかがわかる。


 ロイド。「知ってた」。あの一言。まだ終わっていないことを、ロイドは最初から知っていた。


 レイ。空を見上げていた。何を探していたのだろう。


 シア。目を閉じていた。赤い目をしていた。泣いていたのだろう。


 クロ。ミルの隣にいた。何も言わずに。


 ガルド。盾を横に置いて、黙っていた。いつでも立てるように。


 七人の顔が浮かんでは消える。


 アイリスの「行かないで」が消えなかった。あの声が耳の奥に残っている。二度言った声。二度目の方が震えていた声。


 ソラの「アイリスを頼む」が重なった。


 二つの声が、アスの中でぶつかっている。


 朝が来た。


 窓から光が差し込んだ。復興途中の街に、いつもと同じ朝が来た。人の声がする。作業の音がする。子供が走る音がする。


 アスが立ち上がった。


 答えはまだ出ていない。


第五十四話「最後の真実」


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