残ったもの
音がなかった。
7層に音がなかった。ずっと聞こえていた咆哮が消えていた。地面を揺らしていた衝撃波がなかった。空気を裂いていた風の刃も、闇を染めていた聖光も、何もなかった。
静寂だけがあった。
戦いが終わった場所に残るのは、いつも静寂だった。侵食編の後もそうだった。だがあの時の静寂は街の上にあった。壊れた建物と、泣いている人と、それでも朝が来る場所の上にあった。
ここには朝が来ない。7層には光がない。闇と、冷たい空気と、動かなくなった全員がいるだけだった。
アスはその場に座っていた。立てなかった。体が動かないのではない。力が残っていないのでもない。ただ、立つ理由がまだ見つからなかった。
アイリスの手を握っていた。いつから握っていたのか、もうわからない。嫉妬が消えた後からずっとだったかもしれない。アイリスの指は冷たかった。光を失った手は、ただの人間の手だった。アスの手と同じ温度の、同じ大きさの、普通の手だった。
アイリスも座っていた。何も言わなかった。目が開いているのか閉じているのか、暗闘の中ではわからなかった。ただ指だけが、アスの手を握り返していた。
少しずつ、足音が聞こえ始めた。
各戦場から、英雄たちが戻ってきた。
最初に来たのはアーサーだった。グレンが肩を貸している。アーサーの右手に柄だけのエクスカリバーがある。刃のない柄を、まだ握っている。捨てていない。グレンの顔が強張っている。何か言いたそうで、何も言えない顔だった。ミアがグレンの後ろを歩いている。穏やかな目が赤い。泣いた後だった。
リーファが来た。ルナと二人で歩いてきた。リーファの髪が垂れている。いつも風に揺れていた長い髪が、今は重力に従って肩に落ちている。風がない。リーファの周りにはいつも微かな風があった。その風が、もうない。ルナがリーファの腕を掴んで歩いている。ルナの手にカイの双剣の片方が握られていた。
クールが来た。フロストを背負っていた。意識のないフロストを背負って、一歩ずつ歩いてきた。ベルが横にいる。泣きながら歩いている。クールの顔は無表情だった。だがフロストを背負う手が白くなるまで握られていた。感覚がない手で、落とさないように。
ナーバスが来た。シェイドとリンに両腕を支えられている。影のない足元が不安定だった。ナーバスはずっと影と共に歩いてきた。影がなくなった体は、まっすぐ歩くことすら覚え直さなければならなかった。リンの目が腫れている。泣きすぎて腫れていた。シェイドが黙ってナーバスの腕を支えている。初めて見る表情だった。寡黙な男の顔が、崩れかけていた。
ロキが来た。一人で歩いてきた。ゼンが少し離れて後ろについている。ロキの体が透けていた。7層の暗闇の中でも、透けているのがわかった。輪郭がぼやけている。腕を通して向こう側の闇が見えた。
アイリスが座ったまま顔を上げた。光のない目でロキを見た。
七人が並んだ。
アーサー。リーファ。クール。ナーバス。ロキ。アイリス。そしてどこか遠くでバッシュが。七人の英雄。世界を守ってきた七人。全員が英雄でなくなっていた。剣を失い、風を失い、感覚を失い、闇を失い、体を失い、光を失い、炎を失った。
残ったものは何だろう。
アスはその七人を見て、答えが出なかった。
弔いをした。
ソラとカイの亡骸を回収するために、何人かが7層の奥に戻った。ロイドとレイが先に行き、アスが続いた。嫉妬がいた場所の近くで、ソラの体を見つけた。横たわっていた。胸の傷は塞がっていない。血が乾いて黒くなっている。目は閉じていた。誰かが閉じたのか。エルだろうか。
エルがソラを背負った。
アスが手を貸そうとした。エルが首を振った。自分で背負う。一言も喋らなかった。物静かな弓使いは、パーティーメンバーを失ってから一言も声を発していなかった。ソラの体を背中に乗せて、ゆっくりと歩き出した。
暴食がいた場所にはカイの体は残っていなかった。喰われたのだ。ルナがカイの双剣の片方だけを握っている。もう片方は見つからなかった。ルナの手がカイの剣を離さない。白くなるまで握っている。
7層で簡素な弔いをした。
花はない。7層に花は咲かない。言葉だけだった。
リーファが口を開きかけて、閉じた。何度か繰り返して、やっと声が出た。
「カイ。欲張りだったのは私の方だった」
それだけだった。それ以上は声にならなかった。ルナが何も言わずにリーファの横に立って、カイの剣を胸に抱いた。
エルがソラを地面に横たえた。丁寧に。壊れ物を扱うように。ソラの服の乱れを直し、髪を整えた。
アイリスがソラの前に来た。膝をついた。ソラの顔を見た。
「ごめんね」
小さな声だった。英雄の声ではなかった。ただの、仲間を失った人間の声だった。涙が落ちた。ソラの頬に。アイリスの涙がソラの冷たい頬を濡らした。
アスはその後ろに立っていた。ソラの顔を見ていた。笑おうとして笑えなかった顔を思い出した。最後に頷いた顔を思い出した。「アイリスを頼む」。あの声が耳に残っている。
頷いた。もう一度。ソラには見えない。だが頷いた。
全員が7層の入り口に集まった。
グレンがアーサーの隣に座っている。大剣を膝の上に置いて、何も言わない。アーサーは柄だけのエクスカリバーを眺めている。二人の間に会話はなかった。必要なかった。
フロストの意識が戻らない。ベルがずっとフロストの手を握っている。アテネが治療の光をかけ続けている。「大丈夫です、意識は戻ります」とアテネが言った。ベルが頷いた。ベルの目から涙が止まらない。明るいツッコミ役の女が、声もなく泣き続けている。
シェイドが初めて表情を崩していた。寡黙な闇魔法使いの顔が、歪んでいた。泣いているのではない。泣き方を知らないのだ。感情の出し方を知らない男が、感情を抑えきれずに顔が歪んでいる。リンがナーバスの隣で眠っていた。泣き疲れて眠っていた。ナーバスが起こさないように動かずにいる。面倒そうな顔で。だが動かない。
ゼンだけがロキの前に立っていた。座らなかった。ロキが立っているから、ゼンも立っている。暗殺者の目がロキの透けた体を見ている。
「最後まで付き合う」
短い言葉だった。ロキの意図を読める唯一の存在が、言葉ではなく意志を伝えた。
ロキが笑った。薄くなった唇で。「好きにしろ」
アスたち八人は固まって座っていた。
ロイドが黙っている。壁に背を預けて、目を閉じている。眠っているのではない。考えている。あるいは何も考えていない。ロイドの沈黙はいつも深い。ガルドも黙っている。盾を横に置いて、大きな体を丸めるようにして座っている。
ミルが泣いた跡を隠していた。目元を袖で拭った後があった。鼻が少し赤い。だがメモ帳は開いている。左手にメモ帳、右手に魔剣。いつもの姿だ。何かを計算している。戦いが終わっても、ミルの頭は止まらない。
クロが何も言わずにミルの隣にいた。普段は軽い性格で場の空気を読む男が、今は何も言わなかった。ただミルの隣にいた。それが今一番正しいことだと知っているように。
レイが天井のない空を見上げていた。7層の闇しか見えない。だがレイは見上げていた。何かを探しているのか、何かを確認しているのか。
シアが目を閉じていた。レイの隣で、静かに。クールで口が悪いエルフの目が閉じられている。疲れているのだろう。だがシアの閉じた目の端が、少しだけ赤かった。
アテネがアスの隣にいた。フロストの治療から戻ってきたアテネが、アスの横に座った。
「終わったんですね」
小さな声だった。おっとりした声。いつもの声だ。だが少しだけ震えていた。
アスは空を見た。7層の闇が変わっていない。大罪の悪魔は全滅した。六体全て消えた。だが魔界は消えていない。闇はそのままだ。悪魔の気配が遠くにまだある。弱いが、ある。
大罪は滅んだ。だが悪魔は生まれ続けている。
結界の維持に英雄の力が必要だ。だが英雄は全員、英雄の素質を失った。結界を支える力がない。このまま放置すれば、結界は——。
「まだ、終わってないんですね」
アテネが、アスの顔を見て言い直した。アスの表情を見ればわかったのだろう。終わった顔をしていなかったから。
全員で7層を出た。
長い帰路だった。6層を通り、5層を通り、4層を通り、上へ上へ。誰も喋らなかった。足音だけが階層を跨ぐたびに響いた。
上の層に行くほど空気が軽くなった。光が戻ってきた。5層の歪んだ光。4層の深海の光。3層の森の薄明かり。2層の曖昧な空。1層の、人工的だが確かな光。
門を出た。
街だった。復興途中の街並みが広がっていた。侵食編で壊された建物がまだ直りきっていない。だが人がいた。光があった。空があった。空気が軽かった。普通の空気だった。
人々が集まってきた。英雄たちが戻ってきた。大罪の悪魔を倒した。勝った。その情報だけが先に伝わっていた。歓声が上がった。名前が呼ばれた。
英雄たちの顔が見えた時、歓声が小さくなった。
全員がボロボロだった。血まみれの者、腕を失いかけている者、意識のない者を背負っている者。ソラの亡骸を背負ったエルが門を出た時、声が消えた。カイの剣だけを握ったルナが出てきた時、誰かが泣いた。
勝った。だが無傷ではなかった。何かを失って帰ってきた。歓声はやがて拍手に変わり、拍手はやがて沈黙に変わり、沈黙はやがて涙に変わった。
街の人々が道を開けた。英雄たちが通る道を。
アスはその道を歩いた。八人で歩いた。英雄の後ろを、遊撃の八人が歩いた。誰にも注目されなかった。八人の名前を知っている人はほとんどいない。それでいい。
数日が過ぎた。
束の間の日常が戻った。街は復興を続けていた。壊れた壁が直され、崩れた屋根が張り替えられ、人々の生活が少しずつ元に戻っていく。大罪の悪魔が消えたことで、魔界からの悪魔の活動が弱まった。一時的に。
ロイドが子供に絡まれていた。
街の中を歩いていると、いつの間にか子供が三人ついてきていた。ロイドの長い足にしがみつく子供、ロイドの尻尾を掴もうとする子供、ロイドに肩車をせがむ子供。ロイドの顔が微妙に困っている。嫌がってはいない。だが対処法がわからない。
アスはそれを見て、少しだけ笑った。久しぶりだった。笑ったのが。
ミルが計算していた。宿の一室で、メモ帳を何冊も広げて、数字を並べている。結界の維持に必要な魔力量。英雄の素質が消えた後の減衰率。現在の結界の残存強度。
結界の残り時間を計算している。
アテネがフロストの治療を手伝っていた。ミアと二人で、フロストの容態を見ている。意識はまだ戻らないが、呼吸は安定している。ベルがフロストの枕元から離れない。アテネが「大丈夫です」と何度も言った。何度も言う必要があるのは、大丈夫ではないからだ。だがアテネは言い続けた。
英雄たちは、それぞれの場所にいた。
アーサーが街の外で素手で木を切っていた。斧もなく、エクスカリバーもなく、拳で幹を叩いている。何度も何度も。拳が赤くなっている。木が揺れている。倒れない。だがアーサーは叩き続けている。グレンが少し離れた場所で見ていた。
「体は動く」
アーサーが言った。拳から血が出ていた。笑っていた。能力がなくても体は動く。最強の剣がなくても拳は振れる。
リーファが走っていた。街の外周を走っている。風はない。風の加速もない。ただの人間の足で走っている。息が上がっている。汗が流れている。だが速い。能力がなくても、リーファの足は速かった。ルナが一緒に走っている。カイの双剣を背中に背負って。
クールが窓の外を見ていた。宿の二階の窓辺に座って、街の景色を眺めている。何も感じない目で。温度がわからない。風がわからない。日差しの暖かさがわからない。
ベルが話しかけている。「今日はいい天気ですよ」「風が気持ちいいです」「果物もらったんです、甘いですよ」。クールの代わりに、世界を言葉にしている。クールが感じられないものを、ベルが伝えている。
クールが小さく頷いた。「そうか」。それだけだった。だがベルの言葉を聞いている。感じられないものを、言葉で受け取っている。
ナーバスが寝ていた。宿の部屋で布団にくるまって寝ている。面倒そうに。シェイドが部屋の隅に座っている。リンが反対側の隅に座っている。二人でナーバスが寝ているのを見張っている。
見張っている、というのは正確ではない。ナーバスが消えないことを確認している。目を離したらいなくなるのではないかという恐怖が、二人の中にある。ナーバスの影がなくなった。影移動で消える男から、影がなくなった。だからもう消えない。消えないはずだ。それでも二人は目を離せない。
能力を失った英雄たち。だが生きている。
ロキの体は、日に日に透けていった。
最初は指先だけだった。次に腕の先。肘。肩。足元も同じだ。輪郭が薄くなっていく。向こう側が透けて見える。光を通すようになった。存在が希薄になっている。
ロキは隠そうとしていた。長袖を着て、手袋をして、透けている部分を覆っている。歩く速度も落ちている。だがそれを悟られないように、立ち止まる回数を増やして、歩く距離を短くしている。飄々とした態度で。
アスは気づいていた。
ロキの歩き方が変わったことに。手袋をするようになったことに。長袖を着ていることに。気温が高いのに。アスは何も言わなかった。言ったらロキは笑ってごまかす。わかっていた。
ミルが全員を集めた。
宿の一室に、全員が集まった。英雄も、パーティーメンバーも、アスたち八人も。侵食編の後に集まった時と同じ構図だ。だが空気が違う。あの時は「次に備える」空気だった。今は「知らなければならない」空気だった。
ミルが口を開いた。メモ帳を持つ手が微かに震えていた。計算結果を伝えたくないのだろう。だがミルは伝える。それがミルの役割だから。
「結界は英雄の素質によって維持されていました」
全員が黙って聞いている。
「英雄の素質が消えた今、結界の維持力は急速に落ちています。計算では——数ヶ月で消えます」
数ヶ月。
「消えれば、悪魔が一斉に溢れます。侵食編とは比較になりません。結界そのものがなくなるのですから」
侵食編では結界の一部が壊れた。それだけで23人が死んだ。結界が全て消えたら、街は——。
「根本的な解決が必要です」
ミルの声は平坦だった。感情を殺しているのではない。事実を正確に伝えるために、感情を挟まない。いつものミルだ。だがメモ帳を握る手が白くなっていた。
沈黙が落ちた。
夜になった。
街の明かりが窓から漏れている。復興途中の街は、夜でも明るい。直すべき場所が多すぎて、夜も作業が続いている。
アスが宿の屋上にいた。一人で。夜風に当たっていた。眠れなかったから。
足音がした。
「来い」
ロキの声だった。
振り返ると、ロキが立っていた。透けた体で。手袋をしていない。夜だから隠す必要がないのか。指先が透けている。向こう側に星が見えた。
二人きりになった。屋上の端に並んで座った。
ロキの顔から飄々としたものが消えていた。千年の仮面を被る余裕もないのか、それとも被る必要がなくなったのか。素顔だった。疲れた顔だった。千年分の疲労が、初めて表面に出ていた。
「最後の話をする」
アスは黙って聞いた。
「魔界の底に門がある」
ロキの目が遠くを見た。千年前を見ている目だった。
「悪魔はそこから生まれる。1000年前にそれを封じた。だが限界が来ている」
門。原初の門。悪魔が生まれる場所。1000年前に封じたものが、壊れかけている。
「次の話は全員で聞け」
ロキがアスを見た。透けた目で。千年の目で。
「今夜はここまでだ。眠れ」
それだけ言って、ロキが立ち上がった。立ち上がるのに、一瞬だけ間があった。体が重いのだろう。消えかけている体は、立ち上がるのにも力が要る。
ロキが屋上から降りていった。
アスは一人で残った。眠れない。星を見ていた。侵食編の後もこうだった。終わったはずなのに、終わっていない。
隣に気配があった。
ロイドだった。いつの間にか屋上に来ていた。音を立てずに。ロイドはアスの隣に座った。何も言わなかった。
「聞こえていた」とは言わなかった。だがロイドの顔を見ればわかった。ロキとの会話を聞いていたのか、それとも何も聞いていないのか。どちらでも同じだった。ロイドはわかっている。まだ終わっていないことを。
二人とも空を見ていた。
「まだ終わってなかった」
アスが呟いた。小さな声だった。
「知ってた」
ロイドが返した。
それだけだった。二人の間にはそれだけでよかった。
翌朝。
宿の一階に全員が集まった。英雄たちが座り、パーティーメンバーがその後ろに立ち、アスたち八人が壁際にいた。ミルの報告を聞いた時と同じ配置だった。だが今度は全員がロキを見ていた。
ロキが立っていた。
体が透けたまま。手袋をしていない。長袖でもない。隠すのをやめていた。全員にロキの状態が見えている。指先が透けている。腕が透けている。輪郭がぼやけている。
千年を生きた存在が、消えかけている。
ロキが口を開いた。
「最後の話をする」
昨夜と同じ言葉だった。だが今度は全員の前で。全員が聞いている。英雄も、仲間も、八人も。




