英雄の隣
嫉妬が待っていた。
7層の闇の中に、最後の大罪が立っている。五体の仲間が消えた後も、嫉妬は同じ場所にいた。動かず、追わず、ただ待っていた。
アイリスがその前に歩いていく。
アスが隣を歩いていた。頼まれていない。ロキに「隣にいてやれ」と言われたが、言われなくても離れるつもりはなかった。ソラに「アイリスを頼む」と託された。だがそれより前から、アスの足はここに向かっていた。
嫉妬がこちらを見た。
「やっと来たか」
笑っていた。ソラを刺した時と同じ笑い方だった。壊れていく人間を見て愉しむ笑い。だが今は少し違う。期待が混じっている。最後の一体。自分を殺しに来る相手を、待っていた。
アイリスが聖光を放った。
白い光が嫉妬を包んだ。体を焦がし、腕を吹き飛ばし、胴に大穴を開けた。英雄の全力。だが穴が塞がった。腕が生えた。焦げた表面が泥のように再生した。前と同じだ。器は傷つく。だが核に届かない。罪を認めていないから。
嫉妬が口を開いた。
ソラの声が聞こえた。
「お前のせいで死んだ」
アイリスの手が震えた。ソラの声だった。風魔法の男の声。明るくて、少しだけ気が強くて、アイリスを慕っていた男の声。その声で、あの言葉を。
聖光が不安定になった。手から溢れる光が揺れている。形を保てない。アイリスの感情が光に直接出ている。
「庇わなければ死ななかった。お前が強ければ庇わせなかった」
ソラの声が続く。嫉妬がソラの声を使っている。死者の声を奪って、生者の心を壊しに来ている。
アスがアイリスの前に出た。
「聞くな」とは言わなかった。聞くなと言って聞こえなくなるものではない。
嫉妬を見据えた。剣を構えた。炎を纏った。白銀の光が剣に宿った。ナイトブロウ。守りたいという意志が形になる。今、守りたいものはすぐ後ろにいる。
放った。
白銀と炎が嫉妬に叩きつけられた。殺せない。わかっている。だが嫉妬の体が一歩退いた。衝撃で後ろに押された。一歩分の距離。一歩分の時間。アイリスが息を整えるための、一歩分。
嫉妬がアスを見た。
笑い方が変わった。標的が変わった。
アスの声が聞こえた。自分の声だった。
「お前も英雄になれなかっただろう」
自分の声で、自分の弱さを突かれている。
「アイリスの隣に立てなかっただろう」
アスの歯が軋んだ。嫉妬の言葉は正しい。英雄にはなれなかった。アイリスの隣には立てなかった。ずっと届かなかった。背中を追いかけて、追いつけなくて、焦って、折れて、また走って。
「知ってる」
声が出た。震えていなかった。
「知ってる。全部知ってる」
英雄にはなれない。アイリスと同じ場所には立てない。それは最初からわかっていた。だがそれでもここにいる。隣にいる。英雄じゃなくても、隣にはいられる。
嫉妬の笑みが消えた。
効かない。この男には効かない。自分の弱さを知っている人間に、弱さを突く攻撃は通じない。
嫉妬が本気を出した。
精神攻撃と物理攻撃が同時に来た。声がアスの頭の中に響く。同時に黒い腕が振り下ろされる。内側と外側から同時に壊しにかかる。
アスの体が吹き飛んだ。腕で防いだが衝撃を殺しきれない。地面を転がり、岩に叩きつけられて止まった。口から血が出た。腕が痺れている。
「アス!」
アイリスの声が響いた。
アスが傷つけられた。目の前で。自分を守ろうとして。ソラと同じだ。自分の前に立って、傷ついた。また。
アイリスの中で何かが弾けた。
聖光が暴発した。
光が制御を失って嫉妬に叩きつけられた。凄まじい出力だった。嫉妬の体が一瞬で半分消し飛んだ。押し返された。十歩分。二十歩分。聖光の洪水が嫉妬を焼いている。
だがまだ殺せない。消し飛んだ半身が再生していく。罪を認めていない光は、どれだけ強くても核に届かない。
嫉妬が再生しながら、口を開いた。
「お前は英雄でいたくなかっただろう」
アイリスの動きが止まった。
嫉妬の声が変わった。もうソラの声ではない。アスの声でもない。嫉妬自身の声だった。核心を突く声。
「みんなが笑っている。普通に泣いている。当たり前に生きている」
六つの言葉が、アイリスの胸を一つずつ刺していった。
「それがずっと羨ましかった」
アイリスの手が下がった。聖光が弱まった。
記憶が流れ込んできた。
幼い頃。物心がついた時には、もう「英雄」だった。光の能力を持って生まれた。選ばれた。特別だと言われた。期待された。背負わされた。
断れなかった。
友達が街で遊んでいるのを見ていた。窓の向こうで笑っている子供たちを見ながら、自分は訓練していた。光の制御。聖光の精度。戦闘技術。毎日。朝から晩まで。
泣きたい時に泣けなかった。英雄だから。弱さを見せられなかった。英雄だから。普通に笑うことも、普通に怒ることも、普通に寂しがることも、英雄にはふさわしくなかった。
誰にも言えなかった。
ずっと。
アイリスの膝が折れた。
地面に膝をついた。聖光が消えた。手から光が消え、目から光が消え、アイリスの周囲が7層の暗闇に戻った。
嫉妬が近づいてきた。ゆっくりと。再生した体で。
「認めないなら壊してやる」
アスが動いた。
立ちはだかろうとしたのではない。岩に叩きつけられた体を引きずって、アイリスのそばに来た。そして立たなかった。
隣に座った。
アイリスと同じ地面に、同じ高さで、座った。
何も言わなかった。「大丈夫だ」とも「頑張れ」とも言わなかった。嫉妬が近づいてきている。時間がない。それでも何も言わなかった。言葉では届かないものがある。
ただ隣にいた。
アイリスがアスを見た。隣に座っている男を見た。血が出ている。腕が痺れている。それでも隣にいる。英雄ではない。ナイトブロウでは嫉妬を殺せない。何もできない。それでもここにいる。
アイリスの唇が震えた。
「普通に笑いたかった」
声が出た。小さな声だった。英雄の声ではなかった。
「普通に泣きたかった」
目が熱くなった。
「みんなが持っている当たり前が欲しかった」
涙が落ちた。
アイリスの頬を涙が伝った。英雄になってから初めてだった。何年も何年も、堪えてきたものが溢れた。泣いてはいけないと思っていた。英雄だから。強くなければいけないから。みんなを守る側だから。
でも羨ましかった。
普通に笑って、普通に泣いて、普通に誰かの隣にいられる人たちが。ずっと羨ましかった。
「これが……私の嫉妬だ」
涙が止まらなかった。止めなかった。
アイリスが立ち上がった。涙を流したまま。拭わなかった。
聖光が生まれた。
今までと違った。眩しさがない。目を焼くような白い光ではない。静かな光だった。温かく、柔らかく、7層の暗闇を照らすのではなく、暗闇の中に灯るような光。
嫉妬の目が見開かれた。
「お前が認めるとは」
驚きだった。英雄が。光の英雄が。強さの象徴が。弱さを認めた。羨ましいという感情を認めた。英雄でいたくなかったと認めた。
静かな光が嫉妬の体を包んだ。再生しなかった。光が核に届いている。罪を認めた光は、嫉妬を溶かすのではなく、嫉妬の中に入っていく。核に触れる。
核が砕けた。
嫉妬が崩れ始めた。体が散っていく。黒い粒子が7層の闇に溶けていく。
最後に嫉妬が呟いた。
「羨ましかった」
声が小さかった。壊すために使っていた声ではなかった。
「お前が誰かの隣にいられることが」
消えた。
嫉妬が消えた。黒い粒子が散り切って、何も残らなかった。
アイリスの光が消えた。
完全に。
手をかざした。何も起きなかった。聖光が出ない。光の剣が生まれない。高速移動もできない。光の盾も張れない。全てが消えた。英雄の素質が消えた。
英雄でなくなった。
7層の闇の中に、アイリスが立っていた。光のない体で。ただの人間として。暗闇の中に、何も見えない場所に。
手が触れた。
アスの手がアイリスの手を掴んだ。暗闇の中で。何も見えない場所で。手探りで伸ばした手が、アイリスの指に触れて、握った。
何も言わなかった。ただ握っていた。
アイリスの指が、握り返した。
7層が静かになった。
六つの咆哮が消えた。大罪の悪魔六体全滅。千年の間、人間を殺し続けた六体の悪魔が、全て消えた。初めての静寂が7層に降りた。戦いの音がない。咆哮がない。悲鳴がない。
ただ暗くて、静かだった。
アスの手がアイリスの手を握っている。光のない暗闇の中で、二人の手だけが繋がっていた。
了




