千年の嘘
ロキが歩き出した。
強欲のいる方向に向かって、いつもと変わらない足取りで。背筋は伸びているが力んでいない。飄々としている。アリアドネとして訓練をつけていた時と同じ歩き方だった。これから大罪の悪魔を殺しに行く人間の歩き方ではなかった。
アスが走った。
「アリアドネ」
呼んだ。反射的に出た名前だった。ロキという名前はまだ馴染まない。アスにとってこの人はアリアドネだ。訓練をつけてくれた教官だ。「力に頼りすぎだ」と指摘し、「答えが出るまで剣を置け」と言い、「合格だ」と笑った人だ。
ロキが振り返った。
「その名前もそろそろ終わりだな」
笑っていた。いつもの、どこか掴みどころのない笑い方だった。
アスが口を開いた。何か言おうとした。何を言えばいいのかわからなかった。消えるな、とは言えなかった。行くな、とも。この人が行かなければ強欲は倒せない。わかっている。わかっていても何か言いたかった。
ロキが遮った。
「見届けろ」
それだけ言って、前を向いた。歩き出した。もう振り返らなかった。
ゼンが少し離れた場所に立っていた。暗殺者の男はロキの背中を見ていた。ロキの意図を読める唯一の存在が、初めて読めない顔をしていた。
強欲の大罪が待っていた。
美しかった。他の大罪とは違う種類の異質さだった。黄金の体。六つの腕。全てを掴むための形。光のない7層の中で、強欲だけが輝いていた。自ら光を放っている。奪ったものの輝きで身を飾っている。
ロキが立ち止まった。強欲との間に、十歩の距離。
幻惑が展開された。
ロキの周囲に偽りの空間が広がった。地面が変わり、空気が変わり、光が生まれた。7層の闇の中に、ロキだけの世界が出現した。幻惑。千年を生きた英雄の十八番。目に見えるもの全てを書き換える力。
強欲が笑った。
「それも欲しい」
六つの腕が伸びた。幻惑に触れた。触れた瞬間、幻が吸い込まれた。ロキが作った偽りの空間が、強欲の中に取り込まれていく。色が消える。光が消える。ロキの幻惑が、端から食われていく。
幻を欲しがる相手に、幻は効かない。
ロキが別の幻惑を展開した。取り込まれた。また展開した。取り込まれた。作るそばから奪われる。千年分の技術が、千年分の経験が、何の意味もなく消えていく。
全ての幻惑が消えた。
ロキの周囲に何もなくなった。偽りの空間も、幻の光も、全て強欲に奪い取られた。ロキが1000年で初めて丸腰になった。幻惑なし。武器なし。能力なし。
ゼンが動いた。一歩踏み出しかけた。
「来るな」
ロキの声が短く飛んだ。振り返らずに。
ゼンが止まった。足が地面に張り付いたように止まった。ロキの背中を見ている。読めない。初めて読めない。ロキが何を考えているのかわからない。千年の付き合いではないが、ゼンはロキの意図を読める唯一の人間だった。今、それができない。
ロキが動いた。
幻惑なしで。素の体で。拳を握り、足を踏み込み、強欲に向かって走った。
体術だった。1000年生きた体の経験だけで戦っている。拳が強欲の腕を弾き、足が胴を蹴り、回転しながら六本の腕の合間を縫う。千年分の戦闘経験が体に染みついている。能力がなくても、これだけ動ける。
だが押されていく。強欲の腕が一本ずつ的確にロキを追い詰めていく。弾いても次が来る。避けても次が来る。六つの腕が同時に動く。二つの腕では捌ききれない。
ロキの顔が揺らいだ。
アリアドネの顔が。
輪郭がぶれた。目元が変わった。鼻筋が変わった。飄々とした教官の顔が消えかけている。幻惑の維持に力を回せなくなっている。自分の姿を保つための幻惑すら、戦闘で削られていく。
顔が変わった。いや、戻った。
アリアドネの仮面が剥がれ、その下にあった顔が現れた。ロキの顔。アリアドネと同じようで、少しだけ違う。目の色が違う。輪郭が少しだけ鋭い。だが確かに同じ人間の顔だった。最初から同じだった。
アイリスが息を呑んだ。
「嘘……」
声が漏れた。ソラを失って止まっていたアイリスの口から、初めて声が出た。アリアドネの顔とロキの顔が同じだ。同一人物だ。ずっと隣にいた。消息不明のはずの7英雄が、ずっとそばにいた。
アスは気づいていた。43話でロキの顔を見た時から、どこかで感じていた。確信が持てなかっただけだ。今、目の前で確定した。教官はロキだった。最初から。
ロキが戦いながら口を開いた。
「1000年前に約束した」
強欲の腕を弾きながら。
「悪魔を滅ぼすと。原初の英雄と」
六本目の腕が脇腹をかすめた。血が滲んだ。構わず続ける。
「英雄を探した。育てた。何世代も。何百年も。失敗した。間に合わなかった。死なせた。また探した」
拳が強欲の胸を打った。弾かれた。黄金の体は硬い。
「お前たちで最後だ」
その言葉が、7層の闇に響いた。最後。1000年の最後。何世代もの英雄を見送り、何百年もの試行錯誤を重ね、たどり着いた最後の世代。
強欲が嗤った。
六つの腕が止まった。戦いの手を緩めたのではない。余裕だった。ロキの拳が届かないと知っている余裕だった。
「手放せなかったんだろう」
強欲の声が甘かった。
「約束も、記憶も、仲間も」
六つの腕が広がった。全てを抱え込むような形。
「全部欲しかったくせに」
ロキの動きが止まった。
一瞬だった。拳を振りかけた手が止まり、足が地面に縫い付けられた。図星だった。強欲の言葉がロキの核を射抜いていた。
1000年。その間に出会った人間は何人いた。育てた英雄は何人いた。共に戦い、共に笑い、先に死んでいった人間は何人いた。その全員の顔を覚えている。千年分の記憶を一つも捨てていない。
手放せなかった。
「その通りだ」
ロキの声が変わった。飄々とした響きが消えた。千年分の重さが、そのまま声に乗った。
「1000年分の記憶を捨てられなかった」
拳を下ろした。構えを解いた。
「死んでいった奴らの顔を忘れられなかった。一人も」
強欲が黙った。六つの腕が止まっている。
「約束を果たすまで死ねなかった。全部手放せなかった。記憶も、約束も、お前たちの顔も」
ロキの目がアスたちの方を一瞬だけ見た。すぐに戻した。
「これが俺の強欲だ」
ロキが踏み込んだ。
幻惑はない。素手だった。千年の技術も、英雄の能力も、何もない。ただの拳。生身の体。1000年間手放せなかった全てを握りしめた拳が、強欲の胸に突き刺さった。
黄金の体を貫通した。
六本の腕が動かない。拳がそのまま奥に進む。強欲の核に触れた。
強欲の目が見開かれた。
「幻惑なしで来たのか」
驚きだった。1000年の幻惑使いが、幻惑を捨てて来た。持てるもの全てを手放せない男が、全てを手放して殴りに来た。
ロキが核を握った。指に力を込めた。砕けた。
強欲が崩れ始めた。黄金の体にヒビが入り、光が漏れ、六つの腕が一本ずつ砕けていく。黄金の粒子が7層の闇に散っていく。
最後に強欲が呟いた。
「欲しかったものは手に入ったか」
ロキは答えなかった。
強欲が消えた。黄金の光が全て散り、7層の闇が戻った。
ロキの体が透け始めた。
足元から。指先から。輪郭がぼやけていく。英雄の素質が消えている。だがロキは人ではない。人と瓜二つの存在。能力で作られた体。英雄の素質が消えるということは、この体を維持する力が消えるということだ。
消滅が始まっている。
アスが走った。
「消えるな」
ロキの前に来た。手を伸ばした。ロキの腕を掴もうとした。触れた。まだ触れられる。まだ消えていない。だが指の下の感触が薄い。
ロキが笑った。
いつもの顔だった。飄々とした、掴みどころのない笑い方。教官の顔。アリアドネの顔。千年の仮面を被り直したわけではない。これがロキの素顔だった。千年間ずっとこの顔で笑っていた。
「まだだ。最後の仕事が残ってる」
体が透けたまま立っている。消えかけているのに、足取りは確かだった。
五体撃破。残り一体。嫉妬。
ロキがアイリスを見た。
「お前の番だ」
アイリスが震えていた。膝を抱えたまま、顔を上げて、ロキを見ていた。ソラを失った目。アリアドネがロキだったと知った目。自分の番だと言われた目。全部が重なって、アイリスの体が震えていた。
まだ自分の罪がわからない。嫉妬。自分の中のどこに嫉妬がある。英雄として生きてきた自分の中に、何を妬む心がある。わからない。
ロキがアスを見た。
「隣にいてやれ」
それだけ言って、ロキは壁に背を預けた。体がまた少し薄くなった。透けた指先の向こうに、7層の暗闇が見えていた。
了




