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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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4つの覚悟

 怠惰には形がなかった。


 霧のような存在だった。7層の闇の中に漂う、輪郭のない影。目がない。口がない。手もない。何もない。ただそこにいる。それだけで周囲の全てを鈍らせる。


 ナーバスが一人で立っていた。


 シェイドが膝をついている。もう動けない。怠惰の圏内に入った瞬間から、意志が削られていく。戦う理由が薄れていく。剣を持つ意味が消えていく。シェイドは闇魔法の使い手だ。ナーバスに最も近い性質を持つ男だ。それでも怠惰の前では立てない。


 リンの足が止まっていた。前に進めない。快活な女の足が、地面に縫い付けられたように動かない。叫んでいる。「ナーバスさん!」。声は出る。だが体がついていかない。


 二人はこれ以上近づけない。


 ナーバスが一人で踏み込んだ。


 影縫いを放った。闇の糸が怠惰に向かって伸びる。だが掴むものがない。霧を縫えない。糸が怠惰の体を通り抜け、何にも触れずに消えた。


 深淵を開いた。ナーバスの最大の技。闇の空間を展開し、対象を引き込む。だが怠惰は吸い込まれない。「面倒だ」という概念そのものが、深淵の引力を拒否している。動くことすら面倒だから、引き込まれることも面倒だ。吸われない。


 ナーバスの意識が薄れていく。膝が曲がりかけた。怠惰の圏内にいる時間が長すぎる。意志が溶けていく。なぜ戦っている。なぜここにいる。全部面倒だ。消えたい。消えてしまえば楽だ。


 膝が曲がりかけた。


 曲がりかけて、止まった。


 面倒だ。確かに面倒だ。だがシェイドとリンを置いていくのは、もっと面倒だ。


 ナーバスの目が変わった。


 攻撃を「ぶつける」のではない。自分ごと引きずり込む。


 深淵を自分の足元に開いた。


 闇が足元から広がった。ナーバスの体が沈み始めた。同時に、怠惰の体も闇に触れた。自分から動くのは面倒だ。だが足元が消えれば落ちる。重力には逆らえない。怠惰すら。


 シェイドが叫んだ。声にならない声だった。ナーバスが闇に沈んでいく。自分の開いた深淵に、自分ごと。


 リンが走り出した。足が止まっていたはずの体が動いた。怠惰の圏内も関係ない。目の前でナーバスが消えようとしている。それだけで足が動いた。


 闇の中で、ナーバスが怠惰を掴んだ。


 霧のような体に手を突っ込んだ。初めて触れた。深淵の中では、怠惰にも形がある。闇の中でしか見えない形。闇の英雄だけが触れられる場所。


「お前も面倒だろう。一緒に消えよう」


 怠惰の核が見えた。闇の中に浮かぶ、灰色の球体。小さい。拳よりも小さい。あれだけの力を持った存在の核が、こんなに小さい。


 怠惰は抵抗しなかった。核を守ることすら面倒だった。消えることすら面倒だったが、抵抗することはもっと面倒だった。


 ナーバスが核を握った。指に力を込めた。砕けた。


「……面倒だった」


 怠惰が消えた。霧が晴れるように、存在が薄れて消えた。


 深淵が閉じかけた。ナーバスの体が闇の底に沈もうとしている。


 腕を掴まれた。


 シェイドの手だった。両手でナーバスの腕を掴んでいる。闇の中に上半身を突っ込んで、引き上げようとしている。リンがシェイドの体を後ろから引っ張っている。


 三人分の力で、ナーバスの体が引き上げられた。地面に転がった。深淵が閉じた。


 息がある。


 ナーバスが地面に仰向けに転がっている。目を閉じている。胸が上下している。生きている。


 影が消えていた。


 ナーバスの足元に影がない。7層には光がないから影もないはずだが、ナーバスの影は常にあった。闇の英雄の証だった。それが消えている。手をかざしても闇が生まれない。影縫いも、影移動も、深淵も、もう使えない。


 リンがナーバスの胸を殴った。


 泣きながら。拳で。力なんか入っていない。ただ叩いた。


「馬鹿」


 ナーバスが目を閉じたまま言った。


「うるさい」


 リンがまた殴った。泣きながら。シェイドがナーバスの横に座って、何も言わずにいた。言葉がない男に、言葉は要らなかった。ナーバスが生きている。それだけでよかった。


 怠惰が消えた衝撃が、全戦場に伝わった。


 リーファがそれを感じた。


 暴食の前に立ちながら、体の奥で何かが揺れた。ナーバスが倒した。怠惰を。闇を失う代償を払って。アーサーが憤怒を倒した。最強を失う代償を払って。


 二人が英雄でなくなった。


 リーファはルナを見た。ルナの目が赤い。カイの死からずっと泣いている。もう涙は出ていないが、目の赤さは消えない。


 リーファが暴食に向かって歩き出した。


 まだ罪を認めていない。自分の中の暴食が何なのか、まだわかっていない。わかっていないが行く。このまま立ち止まっていたら、次はルナが死ぬ。


 暴食が口を開けて笑った。


 リーファの真空刃が放たれた。暴食の口に飲み込まれた。竜巻を起こした。喰われた。前と同じだ。何度やっても同じだ。風が喰われる。力が喰われる。暴食の腹に消えていく。


 リーファの攻撃が荒くなった。


「なぜ通らない」


 声が出た。力を込めた。もっと強く。もっと速く。もっと鋭く。真空刃の出力を上げた。喰われた。竜巻の規模を大きくした。喰われた。四つの竜巻を同時に起こした。喰われた。


 もっと。もっと強い風を。もっと。


 ルナの声が聞こえた。


「カイなら笑ってた」


 リーファの手が止まった。


 振り返った。ルナが立っていた。目が赤い。涙の跡がある。だが声は震えていなかった。


「お前はいつもそうだ。足りない足りないって」


 ルナの声が真っ直ぐだった。


「カイはいつも言ってた——リーファは欲張りだって」


 カイの声が聞こえた気がした。「欲張りなんだよ、あいつは」。軽口の調子で、笑いながら、肩をすくめながら。いつもの声。もう聞けない声。


 リーファの膝が折れた。


 泣き崩れた。英雄が、7層の地面に膝をついて、泣いた。


「欲張りだよ」


 声が震えた。風の英雄の声が。


「もっと強くなりたかった。まだ足りないと思い続けた。どれだけ強くなっても足りないと思った」


 涙が地面に落ちた。


「カイを守れるくらい強ければって。それでも足りなくて。もっともっとって」


 拳が地面を叩いた。


「これが私の暴食だ」


 リーファが立ち上がった。


 涙を拭かなかった。目が赤いまま、暴食を見た。


 四つの竜巻が生まれた。


 今までと違った。力任せではない。押し込むのではない。四つの竜巻がそれぞれ違う角度から暴食を囲んだ。飲み込もうとする口が一つしかない暴食に、四方から同時に風が来る。一つを喰えば三つが当たる。三つを喰えば一つが核に届く。


 暴食が初めて怯んだ。口が追いつかない。


 四つの竜巻が暴食を四方から捩じ切った。風の刃が暴食の体を引き裂き、核を露出させ、粉砕した。暴食が崩れた。喰い続けた体が内側から散って消えた。


 風が止まった。


 リーファの髪が静かに垂れた。風が吹かない。7層に風はもともとないが、リーファの周りにはいつも微かな風があった。それが消えた。手をかざした。何も起きない。指先に風を感じない。


 能力が消えた。


 ルナがリーファのそばに来た。リーファの体を支えた。二人とも泣いていた。声を上げずに、ただ涙を流していた。カイがいない場所で、風がない場所で、二人だけが立っていた。


 三体目が倒された波が、全戦場に伝わった。


 クールがそれを感じた。


 色欲の前にいた。まだ動いていなかった。色欲が微笑んでいる。何もしない。待っている。クールが自分から来るのを待っている。


 フロストが前に出て戦い続けていた。氷剣を振り、色欲の攻撃を捌き、クールの代わりに前線を張っていた。ベルが後方から支援を飛ばしている。二人でクールを守っていた。英雄を守るパーティーメンバーという、逆転した構図。


 クールだけが動けなかった。


 色欲が動いた。フロストに手を伸ばした。


 フロストが氷剣で防いだ。だが色欲の指がフロストの腕に触れた。一瞬だった。触れた瞬間、フロストの動きが止まった。目が虚ろになった。精神を溶かされている。氷剣が手から滑り落ちた。フロストの体が崩れた。


「フロスト!」


 ベルが叫んだ。駆け寄った。フロストの体を受け止めた。意識がない。呼吸はあるが、目が開かない。


「クールさん!」


 ベルが叫んだ。振り返って、クールを見た。泣いていた。明るいツッコミ役の女が、泣きながらクールの名前を叫んでいた。


 クールの目が揺れた。


 初めてだった。氷の英雄の目が、初めて揺れた。


 クールがフロストに駆け寄った。膝をついた。フロストの手を取った。冷たい手だった。クールと同じように冷たい手。氷の能力を持つ者同士の、同じ温度の手。


 握った。


「冷たくしていたかったんじゃない」


 声が出た。クールの声。感情を凍らせてきた声に、亀裂が入った。


「傷つきたくなかっただけだ。誰かの温もりが欲しかった」


 フロストの手を握っている。冷たい手を握って、温もりを探している。ずっとそうだった。氷の壁の向こう側に、ずっと求めていたものがあった。触れたかった。触れるのが怖かった。だから凍らせた。全部。


「これが私の色欲だ」


 クールが立ち上がった。フロストの手を離した。色欲を見た。


 氷が生まれた。


 足元から這い上がるように白い霜が広がった。空気が凍った。7層の暗闇が白く染まっていく。クールの最大出力。絶対零度。全てを凍らせる氷。


 色欲が微笑んだ。今度は溶かせなかった。罪を認めた氷は、温もりを求める心から生まれた氷は、欲に溶かされない。


 色欲が凍った。完全に。核まで。


 クールが拳を握った。凍った色欲を殴った。英雄の力など要らない。ただの拳で砕いた。色欲が粉になって散った。


 クールがフロストのそばに戻った。膝をついて、もう一度手を握った。


 温度がわからなかった。


 フロストの手が冷たいのか温かいのか、わからない。自分の手が何を感じているのか、わからない。感覚が消えていた。氷の能力と一緒に、温度を感じる全てが消えていた。


 ベルが泣いている。クールのそばで声を殺して泣いている。


 クールは泣けなかった。感覚がないから。涙が出ているのかどうかも、わからなかった。


 四体。


 大罪の悪魔は六体いた。ルシファーをバッシュが殺し、憤怒をアーサーが殺し、怠惰をナーバスが殺し、暴食をリーファが殺し、色欲をクールが殺した。


 バッシュは炎を失った。アーサーは剣を失った。ナーバスは闇を失った。リーファは風を失った。クールは感覚を失った。


 英雄五人が英雄でなくなった。


 残り二体。強欲と嫉妬。


 残るはロキとアイリス。


 全軍が満身創痍だった。立っているのがやっとの者ばかりだ。パーティーメンバーの負傷者は増え続けている。アテネとミアが回復に走り回っているが、追いつかない。八人も消耗が限界に近い。


 ロキが全員を見渡した。


 千年の目がアイリスを見た。膝を抱えたまま動かないアイリスを。ソラを失って止まったままのアイリスを。


 そしてアスを見た。


 アイリスのそばに座っているアスを。何も言えずにいるアスを。


 ロキの目が細くなった。何かを決めたような目だった。




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