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弱くて、臆病で、仲間に助けられながら紡ぐ最後の英雄譚  作者: だんご


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最強の怒り

 憤怒の大罪は、怒りそのものだった。


 赤黒い体。人の形をしているが、人ではない。肌の表面から常に蒸気が立ち上り、足元の地面がひび割れている。熱ではない。圧だ。存在そのものが怒りで膨れ上がり、周囲の空間を押し潰している。


 アーサーが、その前に立っていた。


 エクスカリバーを右手に提げて、憤怒を見上げている。アーサーの方が体は小さい。人間と大罪の悪魔では、そもそもの規格が違う。だがアーサーの足元は揺れていなかった。


 後方でグレンとミアが見ている。グレンが大剣の柄を握りしめている。出たい。前に出たい。それを押し殺して立っている。ミアの手が胸の前で組まれている。祈りの形だった。


 アーサーが動いた。


 一歩。踏み込みは一歩だった。その一歩で間合いが消えた。エクスカリバーが弧を描く。光の軌跡が7層の暗闇を裂き、憤怒の右腕を根元から切り落とした。


 腕が地面に落ちる前に、断面から赤黒い泥が噴き出し、腕が生え直した。一秒かかっていない。切り落とされた腕が蒸発するように消え、新しい腕が元の位置に戻っている。


 前回と同じだ。何度斬っても再生する。器を壊すことはできる。だが殺せない。


 憤怒が動いた。


 拳だった。何の技も魔法もない、純粋な拳。だがその一撃が空気を爆発させた。アーサーの体が吹き飛んだ。7層の地面を削りながら後ろに滑っていく。足で溝を掘り、二十歩分の距離を押し戻された。


 大罪の中で最も単純な攻撃。最も重い物理。怒りが拳になっただけの、それだけの暴力。


 アーサーが止まった。


 立っている。膝はつかなかった。足が地面に食い込んでいる。口元から一筋、血が垂れた。袖で拭う。


 心の中で、声が聞こえた。自分の声だ。


 最初に怒ったのはいつだったか。


 覚えている。忘れたことがない。自分より弱い者が、目の前で死んだ日だ。名前も覚えている。何人かは覚えていない。だが最初の一人は覚えている。手を伸ばせば届く距離で、間に合わなかった。あの日からずっと、胸の奥で何かが燃えている。


 アーサーが踏み込んだ。


 正面から。搦め手なし。技術を使わず、正面から打ち合いに行った。エクスカリバーが振り下ろされ、憤怒の拳がそれを迎え撃つ。剣と拳がぶつかるたびに衝撃波が広がり、周囲の岩が砕け、地面がえぐれていく。


 二撃。三撃。四撃。


 打ち合うたびに地形が変わる。更地が広がっていく。7層の暗闇の中に、二つの力がぶつかる音だけが響いている。


 グレンが呟いた。


「化け物同士だ」


 ミアが何も言わずにグレンの袖を掴んだ。


 エクスカリバーが憤怒の肩を斬った。深く。骨まで届く一撃。だが再生する。アーサーの足が地面を蹴り、上段から振り下ろす。頭蓋を割る一撃。再生する。横薙ぎ。胴を両断する。再生する。


 アーサーの攻撃は誰よりも強い。この場にいる全ての英雄の中で、最も重く、最も速く、最も正確だ。だが「殺す」に届いていない。何度壊しても器が戻る。核に触れられない。


 まだだ。まだ認めていない。技術で戦っている。最強の剣技で、最強の判断で、最強の身体能力で。だがそれは「強さ」であって「罪」ではない。


 憤怒が止まった。


 蒸気を吐きながら、赤黒い目がアーサーを見た。


「お前は怒っていない」


 声。人間の言葉。大罪の悪魔が、人の言葉を使った。


「本当の怒りを隠しているから届かない」


 憤怒の口が歪んだ。笑っている。怒りの化身が、笑っている。


「最強のくせに」


 アーサーの手が止まった。


 一瞬だった。だがエクスカリバーを握る手が、一瞬だけ止まった。


 頭の中に顔が浮かんだ。守れなかった顔だ。一人目。二人目。三人目。数えるのをやめた頃の顔。名前を忘れた顔。名前を忘れられない顔。


 バッシュのパーティーを引き継いだ日が浮かんだ。バッシュが笑っていた。「お前なら大丈夫だ」と。あの炎の英雄は、自分を信じていた。最強を信じていた。


 大丈夫じゃなかった。


 引き継いだ後も人は死んだ。最強になった後も守れなかった。カイが死んだ。ソラが死んだ。最強の自分がいる場所から遠くで、人が死んだ。間に合わなかった。最強でも足りなかった。


 それが許せない。


 ずっと許せなかった。


 アーサーの目が変わった。冷静で揺るぎなかった目に、色が差した。赤い色だ。怒りの色だ。隠していたものが、表面に出てきた。


「弱い奴が死ぬ世界が憎い」


 声が出た。アーサーの口から。最強の英雄が、自分の怒りを口にした。


「守れない自分が一番憎い」


 エクスカリバーを握る手が震えていた。怒りで。恐怖ではない。悲しみでもない。純粋な怒り。世界への怒り。自分への怒り。強さが足りないことへの怒り。強さがあっても足りないことへの怒り。


「俺は怒っている。ずっと怒っていた」


 認めた。


「最強でも足りなかった。それが許せなかった」


 認めた。


「これが俺の憤怒だ」


 エクスカリバーの刃が変わった。


 光を放っていた白銀の刃に、暗い赤が滲んだ。光が消えたのではない。光の中に怒りが混じった。白銀と赤が交じり合い、今まで見たことのない色がエクスカリバーに宿った。


 憤怒の目が見開かれた。


 アーサーが踏み込んだ。


 一歩。さっきと同じ一歩。だが全てが違った。怒りを認めたアーサーの踏み込みは、最強の技術ではなかった。最強の感情だった。


 エクスカリバーが突き出された。


 憤怒の胸に突き刺さった。


 再生しなかった。


 刃が赤黒い体を貫通し、奥にある核に届いた。初めてだった。器を越えて、核に直接触れた。


 憤怒の目が見開いたまま、動きが止まった。蒸気が止まった。赤黒い体にヒビが入り始めた。


 核が砕けた。


 乾いた音だった。石が割れるような、軽い音だった。あれだけの力を持った存在の核が割れる音が、こんなに軽いのかとアーサーは思った。


 憤怒が崩れ始めた。赤黒い体が粉になって散っていく。だが最後に、口元が動いた。


 笑っていた。


「やっと本気の怒りだ」


 声は満足していた。怒りの化身は、本物の怒りに殺されることを望んでいたのかもしれない。それは誰にもわからなかった。憤怒の体が粉になり、蒸気が消え、7層の闇に溶けて消えた。


 何も残らなかった。


 アーサーの胸が熱くなった。


 鎧の下、胸の中心に何かが浮かび上がる感覚があった。赤黒い紋様が皮膚に刻まれていく。焼けるような痛みではなかった。もっと深い。骨の奥、魂に直接何かが書き込まれるような感覚だった。


 呪いだ。


 手の感覚が消え始めた。剣を握る右手の指先から、力が抜けていく。魔力が消えていく。エクスカリバーを振るうために必要だった全てが、体の中から流れ出していくのがわかった。


 エクスカリバーにヒビが入った。


 白銀の刃に一本の線が走った。それが二本になり、三本になり、刃全体に蜘蛛の巣のように広がった。


 砕けた。


 音もなく砕けた。刃が粉になって散った。白銀の粒子が7層の暗闇の中をゆっくりと落ちていく。柄だけが残った。アーサーの手の中に、刃のない柄だけが。


 アーサーがそれを見た。


 笑った。


「元から借り物だ」


 声が出た。震えていなかった。エクスカリバーは自分のものではない。最強という称号も、英雄という肩書きも、全て借り物だった。怒りだけが自分のものだった。それは消えていない。呪いが刻まれても、能力が消えても、怒りは消えない。


 グレンが走ってきた。大剣を背負った大きな体が、アーサーの前に来て、立ち止まった。何を言えばいいのかわからない顔をしていた。


 ミアが泣いていた。声を殺して、走りながら泣いていた。アーサーのそばに来て、回復の光を当てようとして、手を止めた。治すべき傷がない。呪いは回復魔法では消えない。ミアの手が宙に浮いたまま、下ろせないでいた。


 アーサーが立っている。英雄でなくなった体で。エクスカリバーのない手で。


 衝撃波が7層を駆け抜けた。


 大罪の悪魔が一体消えた。その事実が、全戦場に伝わった。五つの方角から一斉に咆哮が上がった。残り五体の大罪が叫んでいる。仲間が消えたことへの反応か、怒りか、それとも恐れか。


 全ての英雄が感じた。憤怒が消えた。アーサーが殺した。


 そして全ての英雄が見た。アーサーの勝利と、その代償を。エクスカリバーが砕けた。最強の英雄が最強でなくなった。大罪を殺す代償が、目の前にある。


 次は自分だ。


 そう思った者は、まだいなかった。




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