託された願い
走っている。
足が地面を蹴る感覚だけが確かだった。7層の暗闇の中を、聖光が乱れている方向に向かって走っている。さっきまで白く美しかった光が、不規則に明滅している。規則を失った光。あれはアイリスの動揺そのものだ。
後ろから七つの足音が追いかけてくる。誰も何も言わない。ロイドが隣に並び、レイが反対側を走り、ガルドが後方を固め、シアとアテネとクロとミルが続く。八人全員がついてきている。指示は出していない。走り出したアスの背中を見て、全員が同じ判断をした。
ソラが倒れかけたのが見えた。あの風の男が、膝から崩れていくのが見えた。
もう見えている。
嫉妬の戦場が近い。聖光の残滓が空気に漂い、血の匂いが混じっている。アイリスが嫉妬と対峙していた。聖光の剣を片手に構えながら、もう片方の手でソラを背後に庇っている。攻撃と防御を同時にやろうとしている。どちらも中途半端になっている。
エルがソラを引きずっていた。弓を背負い、両腕でソラの体を抱え、戦場の端に寄せようとしている。エルの服にソラの血が染みている。ソラの胸から流れる血が、止まっていない。
アスたちが戦場に飛び込んだ。
嫉妬がこちらを見た。
笑っていた。
人の顔に似た何かが、歪んだ形で笑っていた。目が合った瞬間、アスの胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。嫉妬の視線には感情がある。悪意でも殺意でもない。愉しんでいる。壊れていく人間を見て、愉しんでいる。
ロイドが前に出た。ガルドが横に並んだ。二人が同時に嫉妬に向かって踏み込む。ロイドの斧が嫉妬の腕を斬り飛ばし、ガルドの盾が体当たりで押し返した。嫉妬が二歩下がる。斬り飛ばされた腕は泥のように再生してすぐに戻るが、二人はそれを見ていない。押し返せればいい。距離を作ればいい。
アスはソラのところに走った。
アテネが先に着いていた。膝をついてソラの胸に手を当てている。緑色の光が手のひらから溢れている。アテネの目が見開かれている。治癒魔法が注がれている。だがアテネの表情が変わった。
手が震えていた。
「——だめ」
アテネの声が小さく漏れた。
「内臓が潰れています。魔法では——戻せない領域です」
アテネの声は震えていなかった。事実を述べていた。ヒーラーとしてできることの限界を、正確に伝えていた。だからこそ重かった。
ソラが地面に横たわっている。エルがソラの頭のそばに座り、何も言えずにいる。物静かで的確な判断力を持つ弓使いが、今は何も判断できずにいる。ただソラのそばにいることしかできない。
ソラの目が動いた。
天井のない7層の暗闇を見ていた目が、横に動いた。誰かを探している。エルでもアイリスでもない。
アスを見つけた。
ソラの口元が動いた。笑おうとしていた。いつもの、アイリスを慕っているあの明るい笑顔を作ろうとしていた。できなかった。口の端が持ち上がりかけて、止まった。血が口元から零れた。
手招きした。
小さく。かろうじて動く右手が、アスを呼んだ。
アスは膝をついた。ソラの顔のそばに自分の顔を近づけた。ソラの息が聞こえる。浅い。短い。長くないとわかる呼吸だった。
ソラの唇が動いた。
「アイリスを——頼む」
それだけだった。
他には何もなかった。自分の命がどうとか、無念だとか、そういう言葉は一つもなかった。軋み合っていた相手に、最後に託したのはその一言だけだった。
アスは頷いた。声が出なかった。喉が詰まっていた。だが頷いた。ソラの目がそれを見た。見たことが、わかった。
ソラの目が少しだけ緩んだ。今度は笑えた。ほんの少しだけ。口元が持ち上がった。
手が落ちた。
右手が地面に落ちて、動かなくなった。
風が吹いた。7層には風がない。光も音もない場所だ。だが一瞬だけ、風が吹いた。ソラの魔力の最後の残滓が空気に溶けていく。それだけの風が、アスの頬を撫でて、止まった。
エルがソラの手を握った。右手を両手で包み込んで、握っている。何も言わない。声が出ないのではない。言葉がないのだ。ソラと長い時間を共に過ごしてきた弓使いに、今この瞬間に言える言葉がない。
アスは立ち上がった。
アイリスが見えた。
膝をついていた。嫉妬と対峙していたはずのアイリスが、膝をついて動けなくなっていた。聖光が消えている。手に持っていた光の剣も消えている。何も纏っていない。ただの人間のように、7層の暗闇の中で膝をついている。
何も言わない。
ソラの名前を呼ぶこともしない。振り返ることもしない。ただ、止まっている。さっきソラの名前を叫んだ声が最後だった。あの声を出し切って、アイリスの中の何かが停止している。
嫉妬が歩いてきた。
走らない。急がない。ゆっくりと、アイリスに向かって歩いてくる。殺す気ではなかった。殺す気なら、もっと速く動く。嫉妬はアイリスを見下ろすように近づきながら、笑っている。
「まだ壊れないのか」
声が聞こえた。嫉妬の声。人間の言葉を使っている。壊すために。アイリスの心を壊すために、言葉を使っている。
アスが前に出た。
アイリスと嫉妬の間に立った。体が勝手に動いた。頭で考える前に、足がそこに行っていた。ソラに頼まれたからではない。頼まれる前から、アスの足はそこに行くようにできていた。
剣を構えた。炎を纏った。白銀の光を剣に乗せた。ナイトブロウ。守りたいという意志を形にする力。今、守りたいものはすぐ後ろにいる。
放った。
白銀と炎が一本の線になって嫉妬に飛んだ。嫉妬の体に当たった。表面が焦げた。だがそれだけだった。焦げた場所が泥のように再生し、嫉妬は一歩も動かなかった。
届かない。
わかっていた。英雄の全力が通じないものに、アスの一撃が通じるはずがない。
それでも退かない。
剣を構え直した。嫉妬が笑っている。アスを見ている。虫を見るような目ではなかった。もっと悪い。壊れる過程を楽しみにしている目だった。
隣にロイドが立った。反対側にレイが立った。後ろにガルドの盾が来た。シアが詠唱を始めた。クロが足元に罠を仕掛けた。ミルの青い光が全員を包んだ。アテネが回復の手を伸ばした。
八人がアイリスの前に並んだ。
殺せない。それはわかっている。大罪の悪魔を殺す方法を、ここにいる誰も知らない。だが守ることはできる。嫉妬をアイリスに近づけないことはできる。時間を稼ぐことはできる。
嫉妬が動いた。黒い腕が伸びる。ロイドが斬り、ガルドが弾き、シアが凍らせ、クロの罠が足を止める。斬った腕は再生する。弾いた体は戻ってくる。凍った場所は溶ける。止めた足はまた動く。
意味のない戦いだった。
嫉妬を削ることはできない。追い返すこともできない。ただ、アイリスに触れさせないだけの戦い。守るためだけの戦い。消耗だけが積み重なり、八人の体力が削られていく。
それでも退かなかった。
嫉妬の攻撃がレイの肩をかすめた。血が出る。アテネがすぐに治す。次の攻撃がガルドの盾を揺らす。ガルドが踏ん張る。次がクロの横を抜ける。ロイドが間に入る。次がシアの詠唱を中断させる。ミルが即座にカバーの指示を出す。
削られていく。確実に。だがまだ立っている。八人が立っている。
遠くの戦場も同じだった。どの方角からも同じ音が聞こえている。英雄が全力で叩き、大罪の悪魔が再生し、また叩く。繰り返し。終わらない繰り返し。消耗だけが進み、犠牲だけが増えていく。カイが死んだ。ソラが死んだ。次は誰だ。
ロキが動いた。
強欲の大罪と対峙していたロキが、一瞬だけ間合いを外した。幻惑で強欲の視界を歪ませ、その隙に全戦場を見渡した。
千年の目が、六つの戦場を同時に見た。
アーサーの斬撃が鈍り始めている。リーファの風が荒れたまま戻らない。クールの氷が薄くなっている。ナーバスの闇が浅くなっている。アイリスは止まったままだ。
このまま続ければ死者が増える。殺し方がわからないまま戦っても、人が減るだけだ。
ロキの目が決まった。
幻惑が広がった。
7層の闇の中に、ロキの声が響いた。声ではない。幻惑だ。全戦場の全員の耳に、同時に届く幻。音として、映像として、感覚として、ロキの意志が伝わった。
——全員退け。
一瞬、全ての戦場が止まった。
英雄たちの顔が驚きに変わった。退け。この状況で退け。大罪の悪魔を前にして背を向けろ。信じられない命令だった。
リーファが叫んだ。「カイを殺した奴を置いて退けと言うのか」
クールが黙って嫉妬の方を見た。判断を保留している。
ナーバスが影の中から呟いた。「理由は」
アーサーだけが、即座に動いた。
エクスカリバーを一振りして憤怒との間に距離を作り、振り返りもせずに歩き始めた。グレンとミアがついていく。迷いがない。
グレンが横目でアーサーを見た。「いいのか」
「あいつが退けと言うなら理由がある」
アーサーの声は平坦だった。最強の英雄は、千年を生きた存在の判断を疑わなかった。
アーサーが退いたことで、他の英雄たちも動いた。ナーバスが影に沈むようにして離脱し、クールが氷の壁を残して後退し、リーファが——一瞬だけ暴食を睨んで、歯を食いしばって、背を向けた。ルナがリーファの腕を引いていた。
アスたちの前の嫉妬も、追ってこなかった。
八人がアイリスを囲むようにして後退を始めた。嫉妬はその場に立ったまま笑っている。追う必要がない。殺す必要もない。逃げたければ逃げればいい。いつでも待っている。そういう笑い方だった。
「いつでも待っている」
嫉妬の声が背中に届いた。振り返らなかった。振り返ったら足が止まる。
大罪の悪魔たちは一体も追ってこなかった。六つの咆哮は止まり、7層に静寂が戻った。静寂。勝利の静寂ではない。見逃された静寂だ。追う必要のない獲物を、わざわざ追わないだけの静寂。
7層の入り口まで、長い道のりだった。
誰も喋らなかった。足音だけが暗闇に響いた。ロイドがアイリスの横を歩いている。アイリスは自分の足で歩いていたが、目が虚ろだった。エルが無言でアイリスの後ろを歩いている。エルの手に、ソラの血がまだ乾いていなかった。
アスは何度も振り返りそうになった。ソラを置いてきた。カイも。体を回収する余裕がなかった。7層の闇の中に、二人を置いてきた。
7層の入り口に着いた。
全パーティーが集まっていた。50人以上で出発した遠征隊が、ボロボロになって座り込んでいる。立っている者の方が少ない。血まみれの者、腕を押さえている者、壁に寄りかかって動けない者。英雄たちも例外ではなかった。リーファが拳を壁に叩きつけている。クールが目を閉じて動かない。ナーバスが影の中に座っている。
アーサーだけが立っていた。壁に背を預けて、腕を組んで、ロキを待っている。
ミアがアテネと合流して、負傷者の治療を始めた。アテネの手が光っている。もう何人目かわからない。自分も消耗しきっているのに、手を止めない。アリアドネに言われた言葉を、アテネはまだ守っている。自分を後回しにしすぎる。だが今はそれでいい。今は他の誰かを治す方が先だ。
アスはアイリスのそばに座った。何も言わなかった。言えることがなかった。ソラが死んだ。アイリスの仲間が、目の前で死んだ。アスにかけられる言葉はない。ただ隣にいるだけだった。
アイリスは何も言わなかった。膝を抱えて、前を見ていた。何も映していない目で、前を見ていた。
ロキが来た。
最後に現れた。幻惑の残滓がまだ体にまとわりついていて、輪郭が少し揺れている。飄々とした教官の顔はどこにもなかった。千年を生きた目が、そこにいる全員を見渡した。
全員の前に立った。
英雄も、パーティーメンバーも、アスたち八人も。全員がロキを見た。
ロキの目が笑っていなかった。
「話がある。全員聞け」
了




