絶望
六つの方角から、世界が鳴っていた。
轟音。衝撃波。光。爆発。7層の闇を引き裂くように、六つの戦場が同時に動いている。大罪の悪魔六体。それぞれに英雄が一人ずつ向かい、パーティーが張り付いている。
アスたち八人の役割は遊撃だった。英雄の間を走り、戦場の隙間に湧く護衛の悪魔を処理し、各パーティーの負担を減らす。派手な役割ではない。だが八人がいなければ英雄たちは背後を突かれる。
危険度10が前方に二体。左から11が一体。5層では死にかけた数字が、今は「処理すべき障害」として次々に現れる。感覚が麻痺しているのか、成長したのか、アスには判断がつかなかった。ただ剣を振る。炎を纏い、前に出る。
ロイドが先頭で斧を叩きつけ、10の一体を怯ませた。レイがすかさず横から斬る。二人の呼吸はもう言葉がなくても揃っている。ガルドが後方の11を盾で受け止め、シアの氷の槍が隙間に突き刺さった。クロの罠が足を止め、アテネの回復が前線の三人を繋ぐ。
ミルの青い光が全員を包んでいる。底上げ。八人の力の土台。ミルの顔色は白いが、目は動いている。左手のメモ帳に視線を落としながら、戦場の全体を読み続けている。
連携は崩れていない。だが消耗は止まらない。一体倒しても次が来る。7層は底が見えなかった。
遠くで聖光が炸裂した。
白い光が闇を何度も引き裂いている。アイリスだ。あの光は見間違えない。距離があっても、目を閉じていても、あの光だけはわかる。
聖光の中に風が混じっている。ソラだ。光と風が螺旋を描き、嫉妬の大罪に叩きつけられている。エルの矢が合間を縫って飛ぶ。三人の連携がアイリスの聖光を最大限に引き出している。
だが嫉妬は笑っていた。
アスには見えない。だがわかる。あの光の炸裂の仕方が、何かを壊している手応えではなく、何かに弾かれている音だった。攻撃が通っていない。アイリスの全力が、通っていない。
反対の方角では、空間ごと叩き斬るような衝撃が断続的に走っていた。アーサーだ。エクスカリバーの斬撃が憤怒の大罪を切り裂いている。一撃ごとに空気が割れる。あの剣の前に立てる存在がいること自体が信じられない。
だが斬撃の間隔が変わらない。
同じ頻度で、同じ威力で、繰り返されている。それは何度斬っても終わらないということだ。切り裂いた端から再生しているのだろう。アーサーの手が止まらないのは、止めたら押し返されるからだ。
最強の英雄が、押し切れていない。
アスは走りながら奥歯を噛んだ。考えるな。今は目の前だ。
危険度11が突進してくる。ロイドが受け止め、アスが横から炎を叩き込む。白銀の光が一瞬剣に走った。ナイトブロウの片鱗。だがフルではない。守りたいという感情は常にある。だが7層の空気が重すぎて、意志の形が鈍る。
それでも11の動きが止まった。レイとロイドが同時に斬りつけ、崩す。シアの氷が止めを刺した。
息を吐く暇もなく、次が来る。
リーファの戦場が見える方角で、風の音が変わった。
真空刃が鳴っている。空気を裂く鋭い音が7層に響いていた。リーファの風は美しい。研ぎ澄まされた刃のように空気を切り、触れたものを両断する。竜巻すら武器にする英雄の風だ。
だがその音が、途切れ始めていた。
飲み込まれている。真空刃が放たれた瞬間に消えている。竜巻が途中で霧散している。暴食の大罪が、リーファの攻撃を喰っている。風そのものを喰うのか、それとも風に込められた力を喰うのか。どちらにせよ、リーファの最大火力が通じていなかった。
アスの耳に、声が届いた。遠い。だが聞こえた。
「俺が囮になる」
カイの声だった。双剣の男。軽口を叩いて、リーファと言い合って、ルナに制御されていた男。あの声が、今は笑っていなかった。
リーファが何か叫んだ。制止の声だったのかもしれない。だが風の音に掻き消された。
カイが前に出た。
暴食に向かって走った。囮。暴食の注意を引き、リーファに隙を作るための行動。正しい判断だったのかもしれない。だが暴食は隙を見せなかった。カイに向かって口を開けた。それだけだった。
音が消えた。
風が止まった。リーファの風が完全に止まった。
叫び声が聞こえた。リーファの声だ。英雄の声が割れていた。名前を呼んでいる。カイの名前を。何度も。
アスの手が冷たくなった。
ルナの悲鳴が続いた。膝から崩れ落ちる音が、7層の闇に沈んでいった。土魔法の壁が不規則に立ち上がっては崩れる。ルナの感情が魔法に直接出ている。制御が壊れている。
リーファの風が乱れた。さっきまでの美しい刃ではない。荒れた突風が暴食に叩きつけられている。怒りと悲しみが混ざった、制御を失った風。威力はある。だが暴食はそれすらも喰った。
足音が近づいてきた。速い。殺した足音。
ゼンだった。
暗殺者の体が闇から抜け出すように現れた。息が上がっている。あのゼンの呼吸が乱れている。
「報告」
一言で全員の動きが止まった。戦闘の合間の、わずかな隙間。
「リーファのパーティーに犠牲者が出た。カイが死んだ」
知っていた。聞こえていた。だが言葉にされると別の重さが来る。アスの脳裏にカイの顔が浮かんだ。顔合わせで見た、あの軽い笑顔。リーファに「うるせぇな」と言い返して、ルナに首根っこを掴まれて、「しょうがねぇなあ」と笑っていた。
あの笑顔がもうない。
レイが拳を握った。シアが唇を引き結んだ。クロが目を逸らした。ロイドは何も言わなかった。ただ前を向いている。アテネが両手を胸の前で組んだ。祈りなのか、震えを止めているのか。ミルは一度だけ目を閉じて、すぐに開けた。
「各戦場の状況は」
ミルが聞いた。声が平坦だった。感情を殺しているのではない。今必要な情報を取りに行っている。ミルのやり方だ。
ゼンが答えた。
「全戦場で同じ壁にぶつかっている。器は壊せる。何度でも壊せる。だが殺せない。再生する。英雄の全力で肉体を砕いても、核を潰しても、大罪の悪魔は死なない」
殺せない。
その言葉が、7層の空気より重かった。
「アーサーが何度斬っても憤怒は再生する。ナーバスが深淵に引き込んでも色欲は消えない。クールが絶対零度まで凍らせても怠惰は動き続ける。全員が同じだ」
アスの喉が乾いた。英雄たちの全力が通じない。カイが死んだのは暴食が強かったからだけではない。倒せない敵と戦い続けているから消耗し、消耗した隙間に犠牲が出る。このまま続ければ、カイだけでは済まない。
「嫉妬は」
アスの口が勝手に動いた。
ゼンが一瞬だけアスを見た。
「アイリスの聖光は何度も嫉妬を砕いている。だが同じだ。砕いた端から戻る。ソラの消耗が大きい」
ソラ。
アスは走り出していた。
「アス!」
ミルの声が追いかけてくる。だが足は止まらない。嫉妬の戦場に近い。護衛の悪魔が道を塞いでいるが、数は多くない。ロイドが隣に並んだ。何も言わずに。レイが反対側についた。八人が揃って走る。護衛を蹴散らしながら、嫉妬の戦場に向かう。
聖光が近づいてくる。白い光の中に、三つの影が見えた。
アイリスが前線に立っている。光の剣を振るい、嫉妬の体を切り裂いている。切り裂くたびに白い閃光が走る。だが嫉妬の体は切り口から泥のように再生し、元の形に戻っていく。
エルが後方から矢を射続けている。正確な射撃が嫉妬の目を、関節を、急所を貫く。だが貫いた場所が塞がっていく。
ソラが片膝をついていた。
風魔法の出力が明らかに落ちている。さっきまでアイリスの聖光と絡み合っていた風の螺旋が、今は薄い。ソラの顔に血が滲んでいる。肩が上下している。息が荒い。嫉妬の攻撃は精神と肉体の両方を削っている。ソラの目に、それが出ていた。
嫉妬の大罪が動いた。
アイリスが聖光を正面に叩きつけた瞬間、嫉妬の体が歪んだ。光の中を潜るように死角に回り込む。アイリスの背後。左斜め後ろ。聖光が照らせない角度。
エルが気づいた。弓を向ける。矢が放たれる。だが嫉妬の速度に間に合わない。矢が到達する前に、黒い腕がアイリスに向かって伸びていた。
ソラだけが動いた。
片膝をついていた体が、最後の力で跳んだ。アイリスの前に入る。風の盾を両手で張る。ソラに残った魔力の全てを注ぎ込んだ壁。
貫通した。
風の盾が紙のように裂けて、黒い腕がソラの胸を貫いた。
音が消えた。
アスの目の前で、世界が止まった。ソラが立っていた。黒い腕が胸を貫いたまま、立っていた。血が流れ落ちる。口元からも。ソラの目が開いている。痛みの顔ではなかった。間に合った、という顔だった。
アイリスが振り返った。
目の前にいるソラの背中を見た。貫かれた胸を見た。流れ落ちる血を見た。
アイリスの顔から表情が消えた。
アスは走っていた。走っている。足が地面を蹴っている。間に合わない。わかっている。ソラが刺された瞬間に間に合わなかったことは確定している。それでも走っている。止まれないから。
嫉妬がソラから腕を引き抜いた。ソラの体が傾く。膝が折れる。倒れかける。アイリスがソラの体を受け止めた。聖光が消えている。両手でソラを抱えているから、光を出せない。
アスの視界の端で、遠い方角に一つだけ、違う気配があった。
ロキだった。
強欲の大罪と対峙しながら、ロキが一瞬だけ視線を外した。他の五つの戦場を見渡すように、細い目がゆっくりと動いた。
全ての戦場が同じだ。アーサーが何度斬っても。リーファが何度切り裂いても。クールが凍らせても。ナーバスが闇に沈めても。アイリスが砕いても。殺せない。
ロキの目が細くなった。
千年を生きた目が、何かを確認するように閉じられ、開かれた。
「やはりそうか」
その言葉は誰にも届かなかった。強欲が動き、ロキの体が幻惑と共に消えた。戦闘が続く。だがロキだけが知っている。この戦場で誰も持っていない答えを、ロキだけが持っている。
ソラが倒れかけている。
アイリスがソラの名前を叫んだ。
聞いたことのない声だった。英雄の声ではなかった。ただの、仲間を失いかけている人間の声だった。
アスはまだ走っている。
六つの戦場で六つの咆哮が響いている。英雄の全力が届かない。カイが死んだ。ソラが倒れた。
誰も、一体も殺せていない。
了




