87 羽黒先生の熱意
祐介が授業を終えて、教室を出ると、廊下で数学科の白髪でのっぽなブレザー姿の先生に出くわした。
「あっ、羽黒先生」
「こんにちは」
「どうですか。1Eは大変でしょう。難しい生徒ばかりで。もう嫌になったんじゃないですか?」
突然、心配をかけられて祐介は、いや別に……、と答えそうになって、待てよ、と思いとどまった。自分は情熱的な野心をもって転勤してきた新任の先生の設定なのだ。なんとか、この場では熱く語らないといけないと思った。
「確かに、精神年齢は大変、若いですね……」
「でしょう?」
「しかし、僕にはちょうどよい問題児の集まりですよ」
「はあ」
「正直、興奮しています。喜びなんですよ。難しい生徒を指導してゆくことが……」
「落ち着いてください。羽黒先生……」
ブレザー姿の先生は、祐介のおかしなテンションを心配したらしく、一歩、前に出る。
「いいえ、落ち着きません。私は、問題児だらけのクラスというものを愛しています。ユートピアなんです。そういうクラスで、生徒と、生きるか死ぬかのせめぎあいを繰り広げながら、反抗という責め苦にあって、苦しみながら心のもっとも深いところで分かり合ってゆく、それが私の願っている教育の姿なんです。だから、生徒が難しければ難しいほど、私は嬉しい! 分かりますか?」
「は、はあ。私は嫌だな、それは……」
「ええ。普通は嫌ですよ。でも、僕は違います。あの1Eの生徒たちと正面から本気でぶつかり合いたいんです。そのためには、どんなことでもするつもりです。それがどんな責め苦であろうとも、そっちの方が良いんです。僕は今、なんと言いますか、難しい生徒たちに悩まされたい、責められたい気分なんです。分かりますか?」
「分かりません」
ブレザー姿の先生はきっぱりと言った。
(僕だって分からんよ……)
と祐介は思った。
「あんまり、無理なさらない方がいいですよ。実に、長いですからね。教育の成果が出るのは、もうずっと先のことになります。根気ですよ。根気……」
と、ブレザー姿の先生は言った。確かにそうかもしれないが、成果が出る頃までこの学園にいるつもりはない、と祐介は思った。
祐介は、ブレザー姿の先生と別れて、校舎から出ると、向かい側の校舎に入った。その校舎の三階のちょうど、一年E組の窓がよく見えるところに、物置風な部屋があった。祐介が、その埃だらけの部屋に入ると、根来が座っていて、カーテンをめくって窓の外を眺めていた。
「おい、なんなんだ。さっきの授業風景は……」
と根来は不満げに呟いた。
「大変だったんですよ」
「しかし、さすがにあの荒れようはないだろ……」
「いえ、あれでもきっと良い方です。他にやりようがないですから……」
「まったくなぁ……」
根来は渋々、立ち上がった。
「どこに行くんですか?」
「どこって、授業だよ」
「1Eは次、体育じゃありませんよ?」
「1Eじゃない。二年生の授業だ」
「二年生の授業なんか担当して、どうするんですか?」
「どうもこうもないよ。俺だって、体育教師一人に暇をやって、その代わりとして体育教師の役をしているんだ。二年生だって、三年生だって、授業はやってやんなきゃいけないよ」
「なるほど」
「それにな、二年生には容疑者がいるだろ?」
そう言う根来の顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「つまり、捜査をするわけですね?」
「あるいは、そうかもしれないな。ところで、俺は石田宗次という生徒にだけ会っていない」
「僕もそうです」
「次の時間のクラスには、石田宗次がいる。ちょっと接触してみようかと思う……」
根来はそう言うと、その部屋から出て行った。




