86 問題だらけの教室
祐介は、授業に関するファイルを持って、再び1年E組の教室に訪れた。入室すると、相も変わらず、騒がしい教室なのだった。祐介にもホームルームの時に覚えた生徒の顔がいくつかあった。
いつかの不良学生風の男子生徒は、腕を組んで窓の外を眺めている。柔道部員風の太った男子生徒はなにも置かれていない机の上をぼんやり眺めながら、なにやらぶつぶつ独り言をつぶやいていた。御転婆な女子生徒は、椅子に横向きに座って、後ろの生徒と夢中で話し込んでいる。みんな、てんで違うことをしているが、唯一、共通していることは授業に集中していないことだった。
色々な声が、戦闘機のように教室の上空を飛び交い、ところところで空中戦を繰り広げて、追撃されて落ちてくるようだった。
静かに、と言わねばならないシチュエーションなのだろうが、そんな教育指導の理念は、祐介の頭にはない。できれば、生徒とからみたくない。祐介は、ファイルを開いて、城崎先生が書き込んだメモを黙々と黒板に書き移してゆく。つまり、このファイルは城崎先生のファイルなのだ。
時々、祐介が生徒の方を振り返ると、百合菜が真面目そうにこちらをじっと見つめていた。背筋が冷たくなるほどの美少女に思える。なるほど。美少女というのもここまでくると、威圧感がある。
その隣で、八重があからさまな様子で、ノートに詩を書いている。教壇から、こんなにはっきりと見えるものなのか。祐介は、学生時代に教室で小説を読んでいた自分を思い出して、少し寒気がした。
その手前で、由依が机に突っ伏して、眠っていた。よだれが机の上にこぼれていた。ここまで本格的に眠られると、あんまり心地の良いものではない。いや、祐介は教師としての不満を持っているわけではない。ただ、乱れた髪と、机にこぼれたよだれと、皺だらけのシャツと、めくれたスカートと、折れ曲がって破けそうなノートと、床に落ちているシャーペンが、あまりにも見苦しかったのである。
「いけないなぁ」
祐介は呆れながら、あることを思った。由依は寝ているように見えるが、実は毒殺されていないか、少し気になったのだ。それは毒殺されている人と大差ない見た目だったから。
祐介は、由依に近寄って、その肩に触れた。大きくゆすると、由依は「うえっ」と苦しげな声を漏らしながら、天井に顔を向けて、目を覚ました。
「お、おはようございま……」
「おはよう」
「あっ、どうも……」
「授業中は眠らないように……」
「ほええっす! 授業中は眠り……らしぇん……」
由依は、まだうとうとしながら言った。
まわりを見ると、相変わらず、けたたましく笑い声が響いている。混沌とした空間だ。自分がいけないのだろうか。新任の若い教師だから。しかし、やはり祐介は教師としてどうしようという気も起きなかった。
祐介は、教壇に戻ると、芥川龍之介の「羅生門」を語らなければならなかった。しかし、この小説を読んだことのない祐介には、語ることは何もないのだった。だから、生徒のまわりを歩きながら、好き勝手、指導をすることにした。それもいい加減な指導だった。
「君、そんなところで話し込んでいてはいけないよ?」
「だって、先生。花蓮が後ろからめっちゃちょっかい出してくるんですよ。や、やぁあめろって……ははっ」
御転婆な女子生徒は、くすぐったそうに背中に手をまわす。
「君、ちょっかい出しちゃ駄目だよ?」
「だって、先生。葵の反応、面白いから……」
花蓮と言われた女子生徒は、健康的に色が白く、ふっくらと太っている、気の良さそうな外見で、さもおかしそうに笑い転げている。笑う度に、椅子がぎしぎしと音を立てている。
「葵さん、面白い反応はやめなさい」
「いや、それは無理ですよ。くすぐってくるんだから……私、悪くない」
「それは確かにそうです」
祐介は頷いた。
「これは間違いなく、くすぐる方がいけない。どうですか、その点については?」
花蓮という生徒は、その祐介の問いかけに吹き出した。
「先生って真面目だよね。そりゃ、くすぐる方がいけないですよ。でも、面白いじゃないですか。先生も、くすぐってやるぅ」
「こ、こら、くすぐるんじゃないっ」
祐介は、花蓮の手を振りほどこうとする。しかし、花蓮の手は案外華奢なので、力づくで引き離すと怪我をしそうだった。祐介は、どうにか、手を振りほどこうとするが、うまくゆかない。だんだんとこのやり取りが面白くなってくる。熱中してくる。その間も教室はけたたましい笑い声に包まれていた。……その時。
「静かにしてくれええええええ!」
甲高い声が教室中に響いて、一気に笑い声は静かになった。祐介が驚いて、声のした方向を見ると、華奢で長身で、七三分けに黒眼鏡の、いかにも真面目そうな男子生徒が立ち上がっていた。そして、ふうふうと荒々しい呼吸をしていて、拳を握りしめ、床をじっと見つめていた。そして、周囲をきっと見まわすと、
「君たちは、類人猿の風上にも置けない、憐れな細菌だ! 分かるか。この言葉の意味が。そうだ。この教室は勉強をする場所だ。お喋りをする場所ではない。決して! そういう場所でお喋りをしているその下劣さがまさに細菌だと言うのさ。アルコールで死滅させられたいのか? ははっ。失礼だが、こんな教室にいるのは御免だね。少なくとも、類人猿でありたい僕は図書室に行くよ。みんな、さようなら。また、お会いしましょう」
と苦々しく呟くと、憐れな笑い声をかすかに漏らしながら、教室を出て行った。その背中は、とても悲しげだった。
それから後は、お葬式のようだった。しーんと静まりかえってしまった。すると、不良生徒が机をガンと膝で蹴り上げて、舌打ちをした。
「なんなんだ、あいつ。気持ちわりぃな」
とさも腹立たしそうに呟いた。
祐介は、自分のせいでこんな展開になった気もしないでもないが、いいタイミングだと思った。祐介は、教壇の前につかつかと歩いて行くと生徒に振り返って、
「君たち、彼の言うことは本当だぞ。教室はお喋りをする場所じゃない。授業をする場所なんだ。図書室に向かった彼の分まで、君たちは勉強をしなければいけない。はい。八重。黒板に書かれている文字を読んでごらん」
「羅生門。芥川龍之介……」
「はいっ! それでは、授業を始めますっ!」
祐介の声は、静かな教室によく響いた。




