85 城崎先生は山を下る
城崎は一号館を出て、風の吹きすさぶ歩道に立ち尽くした。そして、振り返って、紫雲学園の陶磁器のような白い校舎を見上げた。日に当たって、美しく輝いていた。城崎は、顔を背けると、ただ歩道を突き進んだ。すぐに前に外に出る正門があった。
どうにもならないこともある。人生にはこういう失敗が、自分の手ではどうにもならない不幸がつきものなのだ。だからと言って、くよくよすることはない、また、どこかでやり直せばいいさ、俺ならできる、いつだってそうやって乗り越えてきたじゃないか、城崎は自分に何度もそう言い聞かせていた。それでも、城崎はそんな風には思えなかった。ちっとも思えなかった。本当はまったく逆のことを考えていた。
大変なことになってしまった。せっかく手に入れた可能性は無残にも途絶えてしまった。俺は毎日、頑張っていたはずだ。それなのに、こんなことになってしまった。ああ、人生はいつだって真っ暗だ。俺は、よっぽど不幸が似合うらしい。受験に失敗した時も、仕事に失敗して、彼女にふられた時も、大体こんな風だった。それというのも、自分の日頃の行いが悪いせいかもしれない。どうせ、何をやっても駄目な人間だ。その駄目な人間が教師になるなんて、考えたことがそもそもの間違いだったのかもしれない。なあ、俺はちっぽけな人間だ。この先の人生も、きっとこんな不幸がじめじめと続くのだろう。教師は心の中でそう呟いていた。
思い返せば、はじめてこの学園に訪れたあの日、紫雲学園の校舎を見上げて、自分は立派な教師になると誓った。他の仕事をしていた俺は、教師になることがかねてからの夢だった。
そして、この紫雲学園に採用された。この美しい学び舎で、しっかり生徒のことを想って行動できる教師になろうと本気で思っていた。だから頑張って、生徒に色々なことを教えた。
それが今、すべて壊れてしまった。砕けて、何もなくなってしまった。立派な教師になる夢は、本当に夢のまま終わってしまった。どんなに願っても、もうこの手の中に戻ってこないのだ。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。ついてなかったな。
自分の数少ない教え子の顔が浮かんでくる。日頃はあんまり考えたことのない生徒の顔まで、浮かんできた。思い返せば、寝癖、腰パン、短いスカート……何度言っても直さなかった生徒たち。お前たちだって、指摘されるのは嫌だったかもしれないけど、俺だって指摘するのは嫌だったよ、でも、俺はもう叱ることもできなくなったんだよ、と城崎はもの悲しく思った。
城崎は、涙が込み上げてくることを知った。その涙は頬に熱かった。もう絶望よりも夢が断ち切られて、生徒とも会えなくなった寂しさで胸が一杯だった。生徒とはもう一生会わないのだろう、みんな、がんばれよ、君たちの人生はこれからだから、先生はみんなのこと見捨てたわけじゃないからな、仕方ないんだ、ただ、せめて先生がいなくなったことを、ほんの少しでも寂しく思ってくれ。いや、そんなこと思わなくていい。みんな、自分のことは忘れてしまってくれ。そう思えば思うほど、城崎は感無量になって、泣いた。しかし、そんな涙を誰にも見られたくなかった。城崎は、逃げるように正門から飛び出した。
「あっ、先生……」
夏目部長が、正門の外の石段に腰かけながら、森の間から覗かせている青い空と、迫りくる山肌をスケッチブックに写生していた。
実を言えば、城崎は文芸部の顧問だった。ほとんど生徒に任せきりにしているが、彼は時々、夏目部長の相談にのっていた。
「どうかしたんですか、先生。花粉症ですか?」
「………」
「そうだ。これからの文芸部の活動なのですが、やはりしばらくの間は、自粛することになりますか?」
城崎は、何か答えようとしたが、はっとして、躊躇した。自分にはその問いに答える資格などないと思った。なぜなら、自分はもう文芸部の顧問ですらなかったのだから。
「わ、私は……」
「はい?」
「文芸部の顧問ではないっ!」
「えっ?」
城崎は、そう叫ぶと、涙を拭って、夏目部長を振り払うように山道に飛び出した。そして、彼は心の中で、
(畜生、畜生、畜生! みんな、どうにかなってしまえ!)
と叫びながら、ただひたすら、山道を下り続けた。




