88 根来警部の授業
根来拾三は、教官室で柔道着に着替え、表に飛び出すと、更衣室に集まってくる男子生徒に「柔道場に集まれ!」と怒鳴り声を上げた。見たことのない、大柄でいかり肩の男が教官室から飛び出して、そんな恐ろしい声を張り上げたものだから、男子生徒たちはおっかなびっくりした顔つきのまま、逃れるように更衣室に駆け込んで行った。しかし、体育館で球技をするものかと思っていた男子生徒たちは、生憎、柔道着を寮に忘れてきていた。
根来は、風の吹き込む冷たい柔道場で、胡座をかいて座っていたが、男子生徒は一向に集まらなかった。
根来は目を瞑りながら、精神統一をしていたが、さすがに十五分しても男子生徒が集まらないという事態に及んで、心が乱れ始めた。そして、すっと立ち上がると、表に繰り出した。男子生徒がおろおろしながら、柔道着を持って、更衣室に駆け込んで行くのが見えた。
「なんだ、遅いな……」
根来は、男子生徒たちを睨みつけると、踵を返して、また柔道場の真ん中に座った。
男子生徒たちがいそいそと集まってくる。痩せた生徒、太った生徒、中には大柄でいかにも柔道部員というような生徒もいた。みんな、立ったまま、根来を恐ろしそうに見つめている。
根来は、ふふん、と笑うと並んだ生徒たちの前を練り歩いた。
「お前たち、どうもひどく驚いているようだな」
誰も答えない。根来は、じろりと一人の生徒の顔を睨みつける。
「谷村先生は……」
どこからか、声がした。
「谷村先生は病気だ。当分、学校には来ない。その間、俺がお前たちを指導してやる。そんなに、硬くなるな!」
根来は、鋭く言い放つと、愉快そうにふふふと笑い声を上げた。
「喜べ。お前たちはついているぞ。俺は、他校では鬼根来と呼ばれていて、巷では、ちょっと名の知れた先生だ。柔道、合気道、剣道、その他多くの柔術を会得している、武道の神様と言われているのがこの俺だ。他校から、わざわざ勝負を挑んでくる人間もあるが、いまだ俺は負けたことがない……」
「オニのネゴロウ……」
生徒たちは不安げに顔を見合わせた。
「いいか。お前たち、これからやることは想像を絶する特訓だ。というのも、お前たちには殺人犯を捕まえられるだけの根性がなければならんのだ。理由は分からんだろうが、まだ分からなくていい。とにかく、いずれ役に立つ時が来る。いいか。よく聞け。お前たちはこれから、俺と本番さながらの対決をする。順番に俺に飛びかかってこい。どんな手を使ってもいい。殺す気でかまわん。最後には複数人でかかってこい。ほら、かかってこい!」
そんなことを言われても、男子生徒は茫然として立ち尽くしたままである。それもそのはずである。彼らは武道なんてろくにやったことがないし、また、ここで根来に襲いかかるような恨みもないのだ。それをいきなり、かかってこいなどと言われても、ただ冷や汗をかくだけである。
「どうした? 早くかかってこないと、俺から行くぞ!」
(いけない。この男、本気だ)
と、先頭に立たされた痩せた生徒は思った。根来は鬼のような表情で迫ってくる。やられる前にやらなければならないという気持ちから、悲鳴に近い声を上げると、根来の懐ろに飛び込んだ。
「おらっ」
根来の足の裏が、するどく床を蹴って、男子生徒の下半身を宙に舞い上げた。そして、男子生徒の体を畳に突き落とした。それはあっという間だった。あまりにも鮮やかだったから、男子生徒は息を呑んで、一斉に後ろに引き退った。
「どうしたどうした? そんなことでは、殺人犯は捕まえられないぞっ!」
すると、一人の真面目そうな男子生徒が一歩前に歩み出て、こう叫んだ。
「馬鹿馬鹿しい! こんなものは体育の授業じゃない。単なる暴力だ。教育者の風上にも置けない!」
男子生徒は忌々しく、舌打ちをすると、背を向けて、柔道場を後にしようとした。根来は素早く、飛び込んで、その生徒を後ろから掌底で突き飛ばした。生徒は体がわずかに飛んで、四人の生徒を巻き込み、見るも無残な、将棋倒しとなった。
「相手に背を向けるなっ!」
すかさず、根来は怒鳴った。
根来は鬼の形相を浮かべると、一歩前に歩み出て、こう続けた。
「いいか、俺たちはいつも生と死の狭間で生きている。一瞬の気の緩みが取り返しのつかない事態を生む。そうだ、仲間の殉職を招くのだ。いいか、油断の先に待つのは死だ! 分かるか!」




