82 夏目部長の恋
八重は、慌てる祐介を見ていて、面白かった。なんて愉快なのだろう。
羽黒祐介は、どうにかして自分が探偵であることを隠そうとしている。しかし、大勢の生徒を前にして、いつもの知的なかわし方ができずにいるのだった。それというのも、彼にはこの大勢の生徒の若い感覚が、あまりにも未知で、恐ろしかったのである。つまり、彼は十歳以上も若い彼らの考えていることがいまいち掴めなかったのである。
しかし、祐介が心配しているようなことは現実に起きないに違いない。つまり、彼が探偵であるなどということは、生徒には想像もつかないのだ。否、想像がついたところで、彼らはその想像を拒否してしまうだろう。現実らしさとか、常識というものが思考を制限しているからだ。常識的には、教室に現れた新任教師が探偵であったなどということは考えられないのである。
(つまり、この茶番は続くということだ……)
八重は、そう思った。
祐介は、出欠を取ると、芸術鑑賞会のアンケートを配った。それぐらいしかやることがなかった。八重のもとにも芸術鑑賞会のアンケートが送られてきた。八重は、アンケートを受け取って、残りを後ろにまわし、再びそのアンケートに手をつけて読んだ。
芸術鑑賞会で視聴する映画の候補が三つほど挙がっていた。八重は、その三つの名前と内容の欄に目を通したが、何度読んでも、どんな映画か分からなかった。ただ、分かるのはどれも教育的な映画だろう、ということだった。考えた末、一番、面白そうなタイトルのものに丸をつけた。
「書いたら、前の席に送りなさい」
祐介は、教師に成り切っているらしく、アンケートを手元に集めると、ぺらぺらとめくっている。
「なるほどね」
祐介は真面目くさった顔をして、アンケートを鞄にしまった。
*
祐介は教室を出ると、職員室に向かった。職員室は一号館にあった。だから、一旦、外に出ないといけない。祐介は階段を降りた。
今日もとても良い日和だった。一号館へと通じる歩道には、黄色っぽい日が差していた。まだ、早朝の匂いがした。祐介は、誰も歩いていない道を闊歩した。そこに一人の女子生徒が通りがかった。
「あっ」
女子生徒は祐介の顔を見て驚き、持っていたノートを地面に落とした。
「大丈夫かい」
「いえ、あの……」
女子生徒は、ノートを拾おうと屈んだが、指先で摘んだためにまた落としてしまい、再び掴もうとしたら、今度は手が届かなかったので、いよいよ煩わしくなったのか、ノートを足で歩道の外に払ってしまった。
「あっ、どうして……」
「そ、それよりも」
女子生徒は、ぐっと体を伸ばして、祐介の顔をまじまじと見上げた。頬にはほんのりと赤みがさしていた。その時、祐介はその顔を見て、あることに気づいて愕然とした。
「あっ、君は……」
「またお会いしましたね……」
それは夏目部長だったのである。夏目部長は、しっかりと祐介の瞳を見つめたまま、心の底から、惚れ惚れとしているようだった。
「あの時は、どうも……。実は新任の教師だったんです。羽黒祐介と申します」
「えっ……先生だったんですか……」
夏目部長は静かに、それでいてはっきりと唾を飲み込んだ。
「そっか……先生……」
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない……」
「これから授業?」
「美術です。ノートを忘れて、取りに戻ってたんです……」
「がんばってね」
「先生も……」
夏目部長はそのまま、ふらふらっとその場を離れていった。その時、歩道の真ん中でぴたりと止まると、祐介の方を振り返った。
「先生……」
「どうしたの?」
「生徒と先生の恋愛って、どう思いますか……?」
「えっ」
「私は良いと思いますっ……」
そう言い残すと、夏目部長は一目散に歩道を走っていった。そして、縁石につまずいて、派手に転倒しながらも、必死に起き上がって、遠くにある校舎の中に駆け込んでいった。
祐介は、なんのことやら、と思いながら、職員室に向かった。




