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76 雨の降る中

 ……その日は、雨が降っていた。

 邸宅の前の街路を見下ろす百合菜の目に映ったもの寂しい情景は、いたずらに彼女の神経を研ぎ澄ませていた。

 街路を歩く人々が皆、押し黙っているような暗澹(あんたん)たる空気の中、雨の降りは一層強まり、屋根はけたたましく雨音を鳴らしている。曇り空はいよいよ明るさを失い、あたり一面は病的な青みを帯びて、次第次第に深い闇の中に溶け込んでいった。

 しかし、百合菜はこの雨を不幸の予兆などとは夢にも思わなかった。


 後で知ったことだが、この時、兄の薫が、紫雲学園の寮から姿を消してから、すでにかなりの時間が経っていたらしい。しかし、東京の自宅にいる百合菜にはまったくそのことを知らされていなかった。百合菜の父も母もそのことを知らない。教師たちは家族への連絡を拒んでいたのだった。余計なパニックを起こさせないための配慮といえば確かにその通りだった。


 百合菜は、ぼんやりと空を見つめていた。星の見えない黒い空だった。その空から雨粒が降ってきているのだが、それは見えなかった。ただ、音だけが虚しく響いていた。音。音。雨音が走ってゆく。そうだ。百合菜のこの雨の音に酔いしれていた。その時、新しい音が鳴った。それは電話のベルの音だった。


「はい。夕紀です」

 百合菜の義理の母が、台所から走ってきて受話器を取って言った。そして、二、三言、述べてから受話器を置くと、慌ただしくどこかへ走っていってしまった。

 百合菜はそうした母の後ろ姿をじっと見つめていた。何かが起こったのだ。それは百合菜にも分かった。しかし、こういう時、義理の母はしばしば百合菜にきつく当たったものだから、百合菜は母に話しかけようなどとは考えもしなかった。

 廊下の先から父が走ってきた。まだ何も飲み込めていない間の抜けた顔だった。そして、受話器を取ると、何ごとか熱心に話し込み始めた。その後ろで母が不安そうな表情を浮かべて棒立ちになっていた。

「……ええ、……ええ。それで、警察に。ええ、早く連絡してください……」

 父はだんだん、顔色を変えて怒りだした。その声は怒りというよりも、あきらかに不安に震えていた。百合菜は、何か夕紀家にとって恐ろしいことが起こったのだと悟った。百合菜は、それまで椅子に座っていたが、弾かれたように立ち上がって、父の側に歩み寄った。何が起きたのか分からない不安から逃れようとして、父に近付こうとしたのだ。しかし、それは断念せざるを得なかった。父はあまりにも近づきがたいオーラを周囲に放っていた。物凄い剣幕で受話器に向かってあれこれと尋ねている、その瞳に百合菜の姿は映っていなかった。


「はい。よろしくお願いします。また、何かあったらすぐに教えてください……」

 父は咳払いをすると、受話器を置いた。しかし、父はその後も息を吸うのを忘れて、その場をそわそわと歩きまわっているばかりで、電話機からも離れなかった。


「ね、ねえ……、大丈夫かしら」

「分からない。それにしても何故、先生たちはすぐに警察に届けなかったんだろう」

 心配をする母と、先生の対応を咎める父の会話は噛み合っていなかった。

 後で知ったことだが、これは百合菜の兄が紫雲学園から行方不明になったという知らせを受けた瞬間だった。


            *


 翌朝も雨が降っていた。百合菜は何も知らずに眠ってしまったが、夜の間も、夕紀家には異常な時間が流れていた。幾度となくなりひびく電話のベル、慌ただしく走りまわる足音、荷物をまとめる鞄や引き出しの開け閉めの音を、百合菜は眠りながら感じていた。

 百合菜は目を覚ますと、前日にも増しておかしな空気になっていることに気づいた。邸宅が、数メートル土中に沈み込んだように重苦しく陰気に感じられた。百合菜が目を覚ました時、ちょうど邸宅は誰もいないかのように静かだった。百合菜はまたも恐ろしいことが起こっていることを悟った。

 百合菜は、廊下に歩み出た。そこはひっそりとしていて、白い壁には照明が反射して鈍く光っていた。百合菜は、階段を駆け下りた。そして、リビングに出ようとすると、母のすすり泣く声が聞こえてきて、百合菜はぴたりと立ち止まった。そっと室内を覗くと、テーブルの近くに三つの人影があった。母が泣いていて、父が黙って腕組みをしたまま座っていた。その隣には、不安そうな顔を浮かべている年寄りの使用人の姿があった。


「泣いてばかりいても仕方ない。俺は、今すぐ、紫雲学園に出かける」

「私も、行くわ。まだあの子は生きているかもしれないし……」

「何を言っているんだ。馬鹿。警察が言っていたろう。薫は山の中で見つかったんだよ。事故にあってからもう何時間も経っていたって……」

 父は、感情的になって立ち上がり、まくし立てるように喋っていた。


「旦那様。旦那様……」

 使用人が、百合菜に気づいて慌てて父の言葉を制した。父は、その言葉に反応し、使用人に八つ当たりしそうになったが、すぐに百合菜に気づいて、喋るのをぴたりとやめた。


 百合菜は、高ぶる感情を抑えきれず、弾かれたように廊下に飛び出した。

「百合菜!」

 百合菜は、父の声を振り払うように廊下を走った。そして、雨の降る外の世界に飛び出した。雨は、彼女に容赦なく降りかかってきた。それは百合菜がはじめて味わった現実の感覚だった。水たまりが跳ねた。屋根が雨に打たれて音を鳴らしていた。空は灰色だった。水路を水が走るのよりも早く、彼女は雨の中を走り抜けた。雨は今、百合菜の心よりも先に泣いていた。そして、百合菜はその雨に心が支配されてゆき、雨の降る景色の中に兄の顔が浮かんでくるのを止められなかった。たまらなくなって泣いた。大声で泣いた。ただひたすらに泣いた。しかし、どこまで行っても雨は降っていた。

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