75 四年前の紫雲学園
百合菜の兄は紫雲学園に入学した。兄がいなくなると家は静かになってしまった。物音がやけに響いて、侘しく聞こえた。百合菜の心は寂しかった。
兄の入学から間もないある日、百合菜は家族と共に紫雲学園に向かった。百合菜は紫雲学園について何も知らずに父と母に付いて行った。長月の駅に降りた時、我が身を囲う山並みを眺めて、兄はこんな山奥の学校に入学したのか、とひどく驚いた。
兄とは、駅前のマトリョーシカという喫茶店で待ち合わせをした。百合菜は、そこでアイスココアを飲んだ。しばらくして現れた兄は以前と変わっていなかった。何も変わらない兄だった。百合菜は、嬉しくて仕方がなかった。
「元気にしてる?」
と百合菜の義理の母親は、大切な息子を気遣った。
「上手くやっているよ」
兄の声は確かだった。
「ちゃんと勉強しているね?」
「大丈夫。しっかりやってるから」
兄はその心配性な母親の言葉を、有り難くも、少し面倒くさそうにしていた。
四人はマトリョーシカを出た後に、紫雲学園に立ち寄った。紫雲学園の校舎は白く光り輝いて見えた。四人は、一号館のラウンジで一休みをした。日本庭園が見えるラウンジだった。父と母は先生に挨拶をしてくると言って、その場を後にした。
兄と二人きりになると、百合菜はあることが気になりだして口を開いた。
「お兄ちゃん。部活、入ったの?」
「入ったよ。文芸部に……」
「文芸部……。やっぱり小説を書くことにしたの」
「うん」
「どんな話を書いているの?」
すると、兄はしばらく黙ってから、声を潜めてこんなことを話し出した。
「百合菜。この紫雲学園には恐ろしい秘密があるんだ……」
「秘密? どんな?」
「それは今は言えないけど。でもね、そのことを僕はどんな形でも作品として残そうと思う。これは、とても危険な試みだから、お父さんやお母さんには言っちゃいけないよ。でもね、僕はそのために紫雲学園の七不思議について調べているんだ」
「七不思議?」
「そう、でもね……」
その時、兄はその話を中断してしまった。というのも、父と母がその場に戻ってきたからだった。それきり、百合菜はその話の続きを聞くことがなかった。
*
翌日、百合菜は父母と共に自宅に帰ることになった。紫雲学園から兄が長月駅まで見送りに来ていた。これから三人は電車を乗り継いで高崎に向かい、そこから新幹線に乗って、上野に向かう。
三人は切符を買い、兄も入場券を買ってホームに上がった。ホームには心地よく冷たいそよ風が渡り、線路は太陽光を一杯に浴びて輝いていた。
兄は、紫雲学園の制服を着ていた。これからの毎日が希望に溢れていると言わんばかりの新調の制服だった。
百合菜は、晴れがましい空気の中で、なんだか無性に寂しかった。父や母は兄に「頑張って勉強してね……」と前向きなことを言っているのに、百合菜は一人「いつ帰ってくるの」とか「電話してくれる」とか、寂しげなことばかり言っていた。
兄は相変わらず泣いてばかりいる百合菜のそばに寄り、
「百合菜は、また泣いているね」
と言った。百合菜はそんなことを言われて恥ずかしく思った。兄は優しく笑って、
「時々、電話するから。百合菜も寂しくなったら電話をかけてきな」
と付け足した。
「電話していいの」
「うん」
百合菜はその言葉に少しほっとした。そして、そう言われると途端に電話では物足りなくなってきた。何か、約束事をしておきたくなった。
「ねえ、かばのぬーちゃんの話、書いてよ」
「紫雲学園で?」
「そう」
駄目だよ、と言われるのではないかと百合菜は子供心に思っていた。しかし、兄は笑顔を崩さずに、
「いいよ、書くよ」
と言った。
「ねえ、ぬーちゃんは雲から落ちた後、どうなるの?」
「紫雲学園の湖に落ちるんだ。そして、少年がボートで探しているのさ……」
百合菜は、自分の顔がぱっと明るくなったのを感じた。それは今まで聞いたことのなかった物語の後日談だった。その時、自分と兄の別れが事実上存在しなくなったような、そんな感覚が押し寄せてきた。涙は止まったようだった。
発車のベルが鳴り、百合菜は電車に乗った。百合菜は遠ざかる兄の姿をしばらく見つめていた。




