68 和泉八重ですけど!
ここで視点は八重の側に戻る。八重は、警察官に呼ばれて個室に向かった。こういう状況は、八重にとって考えただけでも寒気のするものであった。見知らぬ刑事の高圧的な尋問を、密室で受けなければならないとは……恐ろしさと心細さとが八重の心に重くのしかかっていた。
もしも、この場から脱走できるものなら脱走してしまいたいものだと思った。そうなると、刑事たちは自分を犯人だと信じて、この紫雲学園の捜索を始めることだろう、そしたら私は追い詰められ、どこかの校舎の屋上から飛び降りて、全ての真相は有耶無耶になってしまうに違いない、と八重は最悪の事態を妄想して、鳥肌が立つのを感じた。
八重が引き戸を開けて室内へ入ると、そこには冷徹な瞳の、美しく威厳のある若い刑事と、その背後に立つ、猛虎を思わせる大柄の中年刑事の姿があった。
これは言うなれば、凛々しい文殊菩薩の背後に仁王あるいは不動明王が立っているような物凄い眺めであった。八重は、この仮の取り調べ室が、どこか名のある仏堂の荘厳と思えた。
「お座りください」
その言葉が、八重の耳にはどこか古めかしく「座りたまえ」と聞こえた。八重は、先ほどまでの不安の世界から狂気的な幻想な世界に引き込まれたことを知った。彼女は、ふらふらとした足取りで、椅子にたどり着き、そして座った。
「群馬県警の粉河です。よろしくお願いします」
「へえ。コカワ?」
聞き慣れない名前であったから、八重は思わず、聞き返した。
和歌山県に粉河寺という古寺がある。それを知らない者は、漢字を連想することはおろか、コカワと一度に聞き取ることも難しかった。
八重は、頭が真っ白になっていた。思考が止まっていると同時に、音が聞こえなくなっていた。ただ、ぼんやりとした生暖かい空気と止まってしまった時間を肌で感じていた。粉河がそれから何か語っていたが、意味を理解するのに時間がかかった。
「へえ?」
八重は変な声を出してしまった。聞き過ごしてしまったのに気付いた時の粉河刑事の表情を想像すると恐ろしかった。しかし、実際には粉河は大した表情をしていなかった。
「お名前です。和泉八重さんで、間違いないですか?」
「和泉八重ですけど!」
何故か叫んでしまった。しまった、と思うと、またその叫んでしまった瞬間のことに意識がとらわれて、現実の時間は進んでも、その自分の声だけはいつまでも耳の奥にとどまって響き続けている。
「りんごジュースについて、なのですが」
「りんごジュース?」
そう、そうだ。りんごジュースだ。あの淀川さんという女子生徒は紙コップのりんごジュースを飲んで、絶命したのだ。それは、もはや文芸部の共通認識となっていた。誰がそのようなことを言い出したのか、淀川さんが亡くなったのを知った時に、これは殺人だという仮説が巻き起こった、そして、続いて倒れた紙コップが目に映り、そして……。
「りんごジュースについて、何かご存知ですか?」
「知りません。だって、あれは私が着いた時にはすでにあって、私は飲んでいないし、いつの間にか、淀川さんが苦しみ出して……」
八重は、自分が興奮してきたのを感じた。あまりにも興奮してきたので、立ち上がって説明をしようかとも思った。しかし、その感情の爆発は、粉河の冷たい一言によって行き場を見失った。
「なるほど」
それで終わった。八重は途端に物凄い羞恥心と自己嫌悪が胸の底から込み上げてくるのを感じた。あまりにもその感情が鮮明であったので、うっとうめき声が出そうになった。
あまりにも緊張している様子を見て取ったのか、粉河刑事は話題を変えた。
「和泉さんは、羽黒祐介探偵の従兄妹なんですって?」
「えっ、羽黒祐介?」
あまりにも突然、祐介の名が出たので、八重はひるんだ。そして、同時にあの人今どこにいるのだろう、私がこんな状況なのに呑気に民宿で寝ているのかな、と無性に腹立たしく思えたきた。その腹立たしさは自分の苦しみを信用している人に共有できない寂しさの爆発のようなものだった。
「ええ、従兄妹ですけど……」
「そうなんだ」
急に馴れ馴れしくこの若い刑事は口調を変えた。
「実はね、私たちは羽黒さんとは顔お馴染みなんだ」
「顔お馴染み?」
八重は、まじまじと粉河の顔を見た。
「そうなんだ。こっちの根来さんも羽黒さんとは孤島で運命を共にした仲なんだ」
「ネゴロウさんも?」
「根来さんね」
「ネゴロウさん」
八重は、緊張が一気に解けてゆくのを感じた。深い安堵が胸の底から広がってきた。呼吸が楽になり、全身が軽くなって、ぽかぽかと肌が暖まってきた。




