53 百合菜の詩と沈黙
八重は柏崎先輩の詩について、人間の社会を痛烈に批判したものと思っただけだった。それ以上は何も思わなかった。おそらく柏崎先輩の脳内には、堕落した人類の姿がまざまざと映っているのだろう。しかし、そのことで夏目部長が感情的になるのは、いくら何でもおかしい気がした。
八重は、変な空気になっているなぁと思いながら、構わずにりんごジュースのペットボトルに手を伸ばした。そして、紙コップにジュースを注ぎ、一口飲んだ。爽やかで甘いりんごの風味と香りが心地よく鼻から抜けていった。しかし、それは少しばかり酸味がきつい気がした。酸っぱいものが好きな八重でさえ、ちょっとこれは、と思う後味のきつさがあった。
「次は古宮君、君の詩を読ませてもらいましょう」
と夏目部長は言ったが、その声はわずかに震えているように感じられた。
「はい」
古宮は、原稿用紙をコピーした紙を取り出して、配った。
八重は、この古宮という青白い生徒の詩をはじめて読むので、どんなものなのかひどく興味がそそられた。
*
寂しげな花が落ちた
音もなくそれは転がった
風が吹いて
どこにももうそれは見られなかった
その花は雨が降って
洗い流され
雪が降って
埋まった
月日の流れゆく中で
もうどこかに消えてしまった
あの花の香りがした夕暮れだった
振り返って見ても
もうどこにもそれはなかった
それでも
その香りは本物だった
心に浮かんだのは
あの寂しげな香りだった
*
八重は、古宮の詩を読み解くことは容易にはできなかった。しかし花の詩なので、八重も少し妄想がたくましくなった。八重は、八重桜から名付けられた名前だから、花と自分を重ねてこう妄想した。この人は私のことが好きだった男性で、失恋した後も時々、思い出してはこんな風に悲しがっているのね、そういう詩なのね、と。八重は妄想に浸りながら、なんだか鼻がひくひくする思いだった。
(まあ、私には柏崎先輩というものがあるから……)
とあの青白いいかにも繊細そうな男子生徒の顔を眺めた。どれもこれもまったくの妄想である。
古宮の向こうに座っている女子生徒が、なにやら意見を述べていた。古宮は聞いているのか、聞いていないのか分からない様子で、両手を組んで、黙っていた。
「なるほど。いかにも古宮君らしい詩ですね。それでは、次に私の詩と行きたいところですが、そこの見学の君、そこに書いてあるのは詩ですね?」
と夏目部長は、百合菜が自信満々でテーブルの上に広げているプリントを見つけた。
「お見せなさい」
「はい、どうぞ」
八重は、百合菜の詩がまわってくるのを妙な心地で待っていた。
なんだろう。なんの期待もしていない上に、この緊張感。
八重の手に渡った時、そこに書かれていたのは次のようなものだった。
*
かばのぬーちゃんは白い雲の上で寝ています
とても暖かい雲です
ぬーちゃんはこの雲が好きです
とても大好きなので
たまに綿あめみたいにちぎって食べちゃいます
ちぎりちぎり
もぐもぐもぐもぐ
ちぎりちぎり
もぐもぐもぐもぐ
そしたらぬーちゃん
あっと叫びました
もう雲が薄くなってしまって
底が抜けてしまったんです
ぬーちゃんはあーっと叫びながら
どこまでもどこまでも
落ちてゆきました
お空の上から降ってきて
紫雲学園の湖の中にどぶん
ぬーちゃんは水の中で泳いでいます
驚いた人々はぬーちゃんを探しています
ぬーちゃんは水の中にいます
水の中のぬーちゃんはなかなか見つかりません
*
プリントをまわしているうちに場が一層静かになった。八重にはみんなが呆れているのだと思った。しかし、夏目部長の顔色はさらに悪くなって、柔らかな唇は小さく震えていた。その意味が八重には分からなかった。




