50 八重の緊張
夏目部長の声が廊下に響き渡ると、八重は愕然として目眩すらした。
「ど、どうしよう……」
八重は混乱したように呟いた。それを気遣ってか、夏目部長は優しい言葉をかけてきた。
「でも、きっと大丈夫ですよ。その男は校長先生に捕まりました。当分の間は近付いてこないでしょう。それはもういいんです。私が本当に伝えたかったのは、この学園にもそういう種類の危険があるという事実の方なんです」
「はあ……」
「この学園は山の中で、いわば陸の孤島です。簡単には入れないような錯覚を起こします。つまり安全だと。それでも、よからぬことを考えるやつはいるわけです……」
「そうなんですか……」
なんだか、夏目部長の言っていることは少しずれている気がするが、何はともあれ八重は、どうしてこんな命を狙われるような状況になってしまったのだろう、今まで普通の女子高生だったはずなのに、と未練がましくこれまでの平凡な日々を思い返していた。
「それよりも、文芸部のミーティングが始まります。急ぎましょう。そちらの二人は?」
「あっ、見学です……」
八重の後ろに並んでいた百合菜と由依はちょっと気まずそうにお辞儀をした。その二人をまじまじと眺めまわした夏目部長は、
「へえ……お二人とも何かお書きになるんですか……」
と言った。
「ええ、まあ……」
と百合菜はぼそりと言うと、それ以上は何も言わなかった。
「あなたも?」
と夏目部長は由依の方を見た。由依は、なんと言ったら良いのか分からないらしく、つまらなそうな顔をして頭を掻いていた。それからしばらくして、
「ええ……」
と呟いた。変な沈黙がその場を包み込んだ。なんとも居心地の悪い感じがして、八重はたまらず口を開いた。
「それよりも、ミーティングに急ぎましょう」
「そうですね」
と夏目部長はすっきりとしない心地を抑えているらしく、少しぶっきらぼうに答えると、
「詩は書いてきましたか……?」
と再び八重の顔を見た。
「はい」
「それなら良いんです。とにかく、会議室に急ぎましょう」
と部長は背中を向けると、階段を登り始めた。三人がそれについてゆく。会議室の引き戸はすぐに見えた。相変わらずの地味な引き戸だった。それを開けると、六人の部員がすでにテーブルを囲んでいた。八重は、その六人に出鱈目に会釈をしつつその室内へと入っていった。
前回のミーティングでは見なかったような部員の姿もあった。前回も見かけたあの古宮という色白の文学少年の姿もあった。彼は、握った原稿用紙を冷たい目で眺めていた。しかし八重はあの柏崎先輩の姿を見て、その隣の席が空いているのに気づくと、咄嗟にその場から逃れようとして、思わず床を二度踏み鳴らしてしまった。ダダッという忙しない音が室内にはっきり響いたのが、八重は物凄く恥ずかしく感じた。
「ど、どうした。和泉……何を慌てているんだ」
と柏崎先輩はその音を聞きつけて心配そうに立ち上がり、八重の肩に手をぽんと置くと、自分の隣の席に誘導して座らせた。
「い、いえ、なんでもないんです……」
八重は弁解しながら、顔を真っ赤にして、私って恥ずかしいやつだな、と呆れつつも、でも私って柏崎先輩の魔力にこんなに惹かれてしまっているなぁ、と柏崎先輩に畏敬の念すら感じた。
「どうしたんですか、八重ちゃん」
と無頓着な百合菜が尋ねてくる。
「いや、本当に何でもないんだよ」
と八重が、追及してくるなよ、と思いつつ背後の百合菜に振り返ると、その後ろで由依がにやにやと笑っていた。




