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38 遠い過去

 羽黒祐介は、八重たちがそんな目に遭っていることなど露知らずに、月光の入り込む部屋の布団の中で仰向けとなっていた。もう時刻は十二時を過ぎていた。それを知らせる時計は闇に隠れているが、あの単調な針の音だけが聴こえてきて、どことなく夜の静寂を際立たせているのだった。


 今、窓の外は星屑が夜空に散っていた。その夜空の雲の(かたわ)らで月明かりがほのめいている。黒い山は沈黙を守っていた。その下には、見えない川の流れがあって、見知らぬ地へと静かに水が運ばれているのを祐介は肌で感じていた。


 ここは長月の民宿だ。それを知っていても、祐介はここがどこだか分からないでいた。今の彼は宙に浮いているのだ。意識は、理解を超えたところをふわふわと押し流されている。それはちょうど川の水流に身をまかせているようだった。その時、もう自分などというものはどこにも存在していなかった。悲しみとか、怒りとか、そんな個人的な感情も、かつて好きだった人のことも、そんなものは遠い過去に置いてけぼりになっていた。今、彼は何者でもなかった。


 その時、携帯電話が鳴った。彼は途端に現実に引き戻されて、民宿の床の上に存在する一人の人間となった。祐介は、訳も分からず、携帯電話を手に取った。こんな時間に……とは思わなかった。彼はまだ何も思わなかった。思考というものはまだ彼の脳内に蘇ってきておらず、あるのは滅茶苦茶に描かれた絵画の色彩のような煩雑な感覚のみで、ただ反射的に携帯電話の画面に指を触れたのだった。


「もしもし……」

『祐介さん? 私なんだけど……』

「どなたでしょうか……」

 祐介はまだ眠気を振りきることができない。

「ね、根来さん……?」

『違うよ。誰それ。八重だよ、八重……』

「八重ちゃん? ああ、どうしたの? というか、こんな時間に、どうして……」

『どうもこうもないよ。今日の学園に帰ってきたら、脅迫状が届いていたんだよ』

「脅迫状……?」


 祐介は、布団から起き上がると、とりあえず電気を付けた。部屋は蛍光灯の実に不健康な青ざめた色に照らされた。

『そう、脅迫状……これ以上、調べたら殺すって書いている……それと明日……もう今日か……何か証拠を見せると言ってきているんだけど……』

「そうか、犯人が動き出したんだね。じゃあ、明日、僕がそっちへ行くよ。勝手なことはしないように……」

『明日、文芸部のミーティングがあるの』

「文芸部のミーティングが……八重ちゃん、文芸部員なの?」

『うん』

「とにかく、明日行くから、あまり勝手な行動はしないように……」

『でも、由依は反対に犯人を捕まえようとしているよ……』

 由依……? 聞き慣れない名前だ。

「誰?」

『由依……』

「友達?」

『ルームメイト』

「へえ」

『うん』


 祐介は考えた。その由依という生徒は危険をおかしてまで、犯人を捕まえようとしている。八重は、それで良いのかどうか分からず、由依が寝付いたこんな深夜に、こそこそと祐介に電話をかけてきたのかもしれない。

『由依は、犯人が証拠を見せると言ってきているから、私のこと、ずっと見張ってて、犯人がいたら通報するって……』

「それぐらいなら良いけど……あまり犯人をわざと挑発することはしないように……」

『さあ、でも、由依はしかねないね……』

「駄目だよ……?」

『でもね、由依ならありえる』

「駄目だからね?」


 祐介はだんだん心配になってきた。八重が、わざと祐介を心配がらせようと、由依の無鉄砲さを強調しているように思えた。

「とにかく、人が大勢いる場所から離れずに、そこでじっとしていること。教室とかね……」

『明日、紫雲学園に来るの?』

「そのつもり……」

『じゃあ、迎えに行くよ』

「駄目だよ。教室にいなさい」

『でもね、私、けっこう歩きまわるかもしれない。文芸部のミーティングもあるし……』

 なんだか、祐介は八重の心配がらせようという悪戯めいたものを感じて、ふうとため息を吐いた。

「先生には知らせたの?」

『ううん。だって犯人はどこにいるか分からないからね』


 八重が恐れているのか面白がっているのか、祐介には彼女の心境を察することができなかった。祐介は可哀想にも不満にも思った。いずれにしても、明日は行ってあげなくちゃいけないと思った。

 電話を切ると、祐介は浴衣をたなびかせて、立ち上がり、窓の外を眺めた。


 暗闇の横たわる大地の上に、夢のような輝きに満ちた月と星とが(はかな)げに浮かんでいた。それは遠い過去を思い出させるほどに美しかった。そして、それはどこか侘びしかった。祐介の心は明日の不安をふと忘れて、すぐそこまで迫ってきた過去の情景に彩られていった。かつて好きだった人の顔がうっすらと浮かんだが、その人はもうこの世にはおらず、遠い過去のものとなっていた。

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