36.名前を教えてください
「ミラ様、お目覚めになられたのですね」
気づけば侍女頭が手拭いで顔を拭いてくれていた。
「えぇ。ありがとう。どのくらい眠っていたのかしら?」
「半刻ほどです」
「そう」
「…………帰っていいと言ったんですが」
「?」
「あの新しい護衛騎士が、医療塔まで走ってお医者様を担いできたんです」
「ローが……」
「あの騎士、名前を名乗ったのですね。なんて図々しいのかしら」
最後は小声で、はっきりとは聞き取れなかったものの、なんとなくうらめしそうな声色だ。
だが珍しく質問もしていない会話のやり取りに、侍女頭が落ち込んでいるのを察してくれているのだと分かる。
ルーシス様が1番に駆けつけてくれていたことに慣れてしまって、勝手に落ち込んでましたわ。忙しい侍女頭がお世話してくれているんですもの。それに、あの事実を知ってしまった以上、こうしているわけにもいきませんわ。でも、まずは目の前にいる彼女への感謝から、ですわね。
「もし迷惑でなければ、名前を聞かせてもらってもいいかしら?」
「なっ、名前、ですか?」
今まで一度も噛んだことのない冷静を煮詰めたような侍女頭が、無表情を崩し顔を真っ赤にさせる。
このヴァロアナ家で使用人の名前は不要。ただし、騎士だけは別だ。闘いにおいて、瞬時に指示を承れるよう、主人に名乗ることを許されている。そして、自ら名乗ることは命をかけて守る誓いを意味する。
「私の、でしょうか?」
「えぇ。ダメかしら?」
そして、騎士以外が名前を聞かれるのは、信頼の最大限の証だ。
唯一の使用人だったセバスを当たり前に名前で呼んでいた私には慣れない感覚ですわ。でも、思えば彼女が率先して動いてくれてますわ。それに、他の侍女達の指示も、歳の近い侍女を身の回りに配置してくれる気遣いがありますわ。
「……リンと申します。ミラ様、今後も最大限お仕えさせて頂けるよう精進致します」
「今まで通りでも十分よ。リン、ありがとう」
「使用人にお礼を言うのは……」
「ふふっ、そうね。でも、今は2人だけでしょう」
「〜〜っ!! 分かりました。小言は控えます」
「それで、リン。お願いがあるの」
「はい」
「もう体調は落ち着いたから、ルーシス様のところへ連れて行って欲しいの」
「……かしこまりました」
おそらく、いつものように帰りを待つ。そうするべきだが、侍女頭は承諾した。主人に名前を伝えた以上、今優先すべき命令はミラなのだ。
「あの男が未だにおりますので、役に立つかと」
「あの男?」
「っ!! ミラ様!! ご体調はいかがですか!?」
リンが扉の外にいる使用人に何か話をしに行くと、数刻もしない内に、ローがすごい勢いで入ってくる。
「っ!!」
「こらっ、場をわきまえなさい。そんな大声は控えて」
リンがローの前に慌てて立ちはだかる。
「おっと、失礼しました。ご体調はいかがでしょうか?」
ローは今度は落ち着いた声色で、頭を深々と下げる。
「もう大丈夫よ。送ってからも色々と動いてくれたみたいね。ありがとう」
「っ!!」
お礼を言われ、ローは少し驚いたようにこちらを見る。リンは無表情ながら、諦めたように目をつぶる。
「とんでもございません。ルーシス様からも、しっかり送るようにとのご命令です。その安全を最後まで確認するまでが騎士の勤めですから」
ローは騎士の中でも表情が豊かだ。真面目な顔で話したかと思うと、最後は無邪気な笑みを浮かべる。
「それで、もう少し頼みがあるのだけど」
「はい、仰せのとおりに」
「ルーシス様のところへ連れて行ってくれるかしら」
「……」
一瞬、ローの表情が固くなる。ミラに配属されたリンとは違い、彼はルーシス様の直属の護衛騎士。彼の命令は屋敷へ無事に送り届けること。それをまた屋敷から連れ出して良いのかと悩むところなのだろう。
「お願い。彼の身の安全にも関わることなの。それに、一度は屋敷に送ってくれたのだから、命令違反にはならないはずよ」
「承知致しました。命の恩人のミラ様のご意向ですから、ご案内致しましょう」
「っ!! ありが」
「返事までに随分とお時間のかかる口先だけの忠義への御礼などもったいないかと」
強烈なリンからの口出しに、さすがのローも苦い表情をする。
「ふふっ。困らせてごめんなさい。案内をするなら、あなたが適任だと侍女頭のリンが判断したのだから、断られたらどうしようかと思ったわ」
「それは……」
今度はリンの方が苦々しい表情をする。
「そうですかっ!! ミラ様は確かに送り届けますのでご安心ください」
「侍女頭ではルーシス様の居場所を知る術がございませんので。宜しくお願い致します」




