後編
20131014 サブタイトル修正しました。プロットの段階でまだタイトルが決まっていなかった頃の呼び方がばれてしまいました(笑)大変失礼しました。
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嵐のような風が収まった跡に一人立ち尽くしていたのは、他でもない私の幼馴染。イアン・ドレークだ。私が二年間を共にしたジュリア・ルカ・パリナラシオンの姿は跡形もなく消え失せていた。
二年ぶりに見た彼は、相変わらずの深い碧の瞳で、輝くような金髪は長い間切っていなかったのか伸びて胸元まで届いている。――ちょうど、ジュリアと同じぐらいの長さに。
「うわー、ほんとに戻ったのか。相変わらず腹の立つ顔してるなあ、君は」
うんざりしたようなシシアンは、私の会心の一撃をとっくに魔術で回復したらしく、青い瞳も充血していない。気づけば彼が私にかけた術も僅かな頭痛を残し解けていて、身体が自由に動かせた。しかし私の身体は動かなかった。どうしてここに、彼がいるのか。私の頭は真っ白だった。
イアンが私たちの故郷を出て行ったのは、二年前、中学を卒業した時だった。物心つく頃から一緒に居た幼馴染がどこかのやんごとなき血をひいていたなんて、誰が想像できるだろうか。確かにずば抜けた容姿の美しさと、サカリカリアへの天性の才能を思えばただの田舎の少年である筈がなかったのだが、正真正銘ただの田舎娘である私にそんな考えが浮かぶわけがない。彼が行かなければならないのはいわゆるお家事情というやつで、行かないでと引き留めることも、だからと言っていってらっしゃいと笑顔で見送ることもできなかった。泣くのをこらえながら、彼との最後の抱擁を受け止めて、その時の彼の表情はいつもの様子からは想像もできないほどに、途方に暮れた子どものようだったことを覚えている。
『ごめん、ライナ』
何一つ謝ることなどないのに、どうしてそんなに泣きそうな顔をしていたのだろう――
「うるせえんだよ」
まるで別人のような乱暴な言葉遣いは、村にいた時は聞いたこともなかったが、怒りに満ちてはいるがその低い声はまさしくイアンのものだった。
「野蛮だなぁ。あぁ怖い怖い。……だけど、その恰好じゃあ怖さも半減だよ?」
肩をすくめてシシアンが指差した先、イアンの様子は確かにひどいものだった。あちこちが大きく裂け、もはや血液でどうにか肌に張り付いているといったほうがしっくりくる血塗れのワイシャツと、同じく裂け目だらけの制服のスカート。イアンが華奢でなければ、スカートから伸びる素足は酷いものだっただろう。イアンの体格が男にしてはがっしりしていないことが唯一の救いと言える、そんな恰好だった。
「うるせえって言ってんだろ」
おもむろにイアンがシシアンに指を突き付ける。あまりにも速いスピードで組み立てられたために魔術式を確認できなかった。
「っ、くっ……!」
シシアンの目の前で赤い光の矢が止まっている。目と鼻の先で凶暴な風を纏ったそれを盾を作って受け止めているが、彼の額には汗がにじむ。赤い矢は先程シシアンが放った魔術と同じだが、そうとは思えないほど威力は桁外れだった。同じ魔術式での差は、使用者の魔力量の違いに他ならない。
「調子に乗りやがって……少し、痛い目みろよ」
勝負はあっという間についた。イアンがそう呟いた瞬間にシシアンの作り出した半透明の盾が砕け散り、壁まで吹き飛ばされる。床にずり落ちたシシアンに、どこから湧き出たのか即座に真っ白な鎖が幾重にも絡み付いて拘束した。気を失ったのか動けないだけなのか、彼はピクリとも動かなくなった。
ぐちゃぐちゃに破壊された教室に、魔術の鎖で簀巻きにされた少年と、血塗れでスカートを穿いた幼馴染、そして床に座り込んだままの私。気まずい静寂が訪れる。
「……。ライナ、怪我は?」
俯いていたイアンが顔を上げ、こちらに歩み寄った。私は無言で首を振る。ワイシャツの下の腕やスカートから伸びた足は這って進んだせいで掠り傷だらけだが、全身血塗れの彼に比べたらなんでもない。
「……」
床にへたり込んだままの私の正面で彼は立ち止まり、無言で私を見下ろす。その吸い込まれるような碧眼でじっと私の全身を見回すと、小さく溜息をついて私の血の滲んだ足首に手のひらを当てる。馴染んだ彼の体温に目頭が熱くなって、だけどまだ訳の分からないこんな状態で泣き出すわけにはいかなくて、私は泣くのを抑え込むように力んだ。それとともに弾かれたように彼の手が離れる。
「……?」
どうしたのだろう。傷を治してくれるわけではなかったのかと彼の顔を見れば、痛みを堪えるように眉間にしわを寄せていた。
「イアン、先にあなたの傷を、」
治して、そう言おうとしたのに、それは彼によって遮られる。
「俺が、嫌?」
「え?」
「俺が嫌か、ライナ」
何を聞かれたのか理解できなかった。私がイアンを嫌うなど、あるはずがない。
彼はくしゃりと顔を歪ませた。あの、幼く見える表情だ。
「嫌なわけ、ないよ」
なぜだか喉がかすれて、言葉がうまく出てこなかったせいか彼の表情は晴れない。
「でも、教えて。なんでイアンがここにいるのか。……ジュリアは、何処へ行ったのか」
シシアンが言ったとおり、私は卑小な人間だ。だって私は、もう心のどこかで分かっているんだ。彼女の正体を。なのに、愛していて、でも確かに羨み憎んでいた彼女と、イアンとの関係を、こんなぼろぼろになってまできっと私のために戦ってくれた彼自身に言わせるなんて。
でも、私は彼へ確かめられるほどにこの状況を分かってはいない。どうして、彼がこんなことをしたのか……。
「……ジュリアは、俺だ。俺が魔術で性別を変えて、この二年間、ずっとお前のそばにいた」
やはり、そうだったのかと私は瞑目した。ジュリアの腕の刺青の輪は魔術式を体に刻み込んでいたのだ。そしてきっとジュリアになっている間は魔力の消費が激しく、そんな状態ではシシアンには勝てなかった。だからあの輪を壊して負担になる変身術を止めるしかなく、その結果元のイアンの姿に戻った。
「どうして、そんなことを」
彼が村を出て王都へ行き、そこで高貴な家の跡取りになるということは聞いていたし、同じく王都にある学園に入ればもしかしたら会えるかもしれないという淡い期待を私は入学当時抱いていた。しかし入学者名簿を見ても、イアン・ドレークという名はおろか、イアンというファーストネームを持つ者はいなかった。ジュリアの名前で入学したのだろうか。そもそも、どうして性別を変えてまで私のそばに、真実を決して明かすことなく寄り添っていたのか。
私が知りたいことを話していたのだろうシシアンとジュリアとの会話を聞いても、ルートや死亡確率といった聞きなれない単語が飛び交い訳が分からなかった。
「全部ちゃんと話すから、話しながらその傷を治してもいいか?……早くしないと、あとで治しても跡が残るかもしれない」
その前に自分の傷を治してといえる雰囲気ではなかったので、私は大人しく頷いた。おずおずと伸びた彼の温かい手のひらが私に触れ、二重円に数字と旧字体が羅列された治癒術が展開し淡い光を放つ。ゆっくり治すつもりらしく、術はそのままに彼は口を開いた。
「俺がライナの未来を占ったのは、中学最後の冬、卒業と同時に実父の家の後継ぎとして村を離れることが決まった時だった」
「みら、い……?」
私は彼の言ったことを信じられなくて、オウム返しに聞き返した。未来を占う、それは結果の精密さにもよるが、魔術を用いての本格的な未来予測は一般人には不可能だ。技量や魔術量といった次元の話ではなく、王族の血が流れていることが必須の条件とされるからだ。しかも王族の中でも先天的に持つ者と持たざる者とに分かれており、王位、魔術部門や軍事部門の長は未来予測の才能を持つ者にしか許されない。……シシアン・テア・マルカナートは、王族としての血はそれほど濃いとは言えないが、予測の才を持つため将来の軍事部門の長となると言われている。
「俺は、現ヴァイシュトラント公爵の八番目の息子だ。……つまり、先代の王の弟の息子で、現国王とは従兄弟の関係にあたる」
「公爵家の、息子」
「ああ。ただの町娘だった俺の母親に公爵が生ませた私生児だ。俺の母親は……お前も知っていると思うが奇特な……いや、奔放な人間だから、屋敷での堅苦しい愛人生活に嫌気がさして自分から村で暮らすことを望んだらしい」
イアンの母親を思い出す。一番に思い浮かんだのは、私がまだ幼い頃、稀に見る不作の年の冬のことだ。村に最後に残った一匹の豚を屠ろうとした時、彼女は村人の制止を振り切り豚を連れて真冬の森に入り、栄養価が極めて高く冬でも育つキノコを大量に抱えて帰ってきた。なんでも、夏あたりから稲の実りが悪いことを察知し、いざとなった時のために何か月もかけて豚を調教していたらしい。春までに誰もが餓死か子どもの身売りを考えざるを得なかっただろうから、彼女は村の救世主であることには変わりはないのだが、その他に彼女が巻き起こした伝説的な騒動の数々を思えば……少々変わっているといえるのは間違いないだろう。
「俺が村に来たのは四歳の時で、その時はまだ俺は平均的な魔術量しかもっていなかった。俺の魔術量が人並以上になったのはライナと出会ってしばらくしてから。母は一々公爵家に報告するような人間じゃないし、あの村では日常生活で使う以外の魔術式を学ぶことはなかったから、時々監視に来ていた公爵家の人間も俺の魔術量の多さに気付くことはなかったらしい」
驚くべきほどのサカリカリアの技術をもつイアンだが、サカリカリアには魔術量はそれほど関係しないためその魔術量を私は知らなかった。そもそも私は自身の魔術量さえ知らなかったのだから、それも当たり前であるといえよう。王都に住む裕福な家の子どもならまだしも、田舎の農村では子どもの魔術量をわざわざ調べることはない。日常生活で必要な最低限の魔術さえこなせれば何の問題もないからだ。
「公爵家の嫡男は正妻の子どもである長兄だし、他にもそれほど低い身分でない母親をもつ後継ぎ候補がたくさんいたから、公爵家の男児の中で身分が一番低い俺がどこで何をしていようと特に気に留められることはなかった。多分、俺の存在さえほとんどの者が忘れていたと思う。……事情が変わったのが、中学最後の、あの冬だった」
私の足首にあったイアンの手のひらが、撫でるように動いて他の傷に触れる。話に聞き入っていた私は驚いて体が跳ねる。変な声が出そうになったのを慌てて飲み込んで、またも手を引っ込めようとした彼を捕まえる。彼の手に自分の手を重ねて、傷口に沿わせるのは少々気恥ずかしかったが、なんだかそうしなければならないという使命感に駆られるままに私は彼をしっかりと見据えて言う。
「いいから、続けて」
続けるのは話なのか治癒なのかは言わなかったが、イアンは頷いて術を展開したのち、再び口を開いた。
「ヴァイシュラント公爵家とは別の公爵家の嫡子で、魔術部門の次代の長になるはずの人が亡くなったんだ。元々体の弱い人だったらしく、以前から危ういとは言われていたらしい。現魔術部門の長はもう高齢だし、現在未来予測の才能を持つ者は王と当代の長、そして軍事部門の次代の長となるはずのシシアン・テア・マルカナートしかいない……国家存亡の危機だと機密扱いでありながらも大騒ぎになった。それぞれの公爵家は嫡子庶子関係なく虱潰しに未来予測の才を持つ者がいないか探し、その結果俺が見つかった。俺は自分が公爵家の血を引くことも、ましてやそんな才能があることもそれまで知らなかった。母のこぼれ話で、どこかの貴族の私生児だとは内心分かっていたけど、そこまで上の位だとは思ってなかったんだ」
イアンの手が私の肌の上を滑る。くすぐったい。
「俺しかなれるものがいないこと、この国を守るためにはどうしても魔術部門に長が就いていなければならないことを考えれば、俺はこれ以上村にいることはできないと、すぐにわかった。どうしようもないことだと思うし、村に留まればみんなに迷惑がかかる。ライナと離れたくなくて、でも一緒に連れて行くのはあまりにも危険だった。俺は自分がどんな立場にいるのかをまだ把握できていなかったから、ライナを守りきる自信がなかった」
「あの時、村を出るときに、私に謝ったのはもう一緒に入られなかったから?」
――『ごめん、ライナ』
ずっと不思議だった、あの時の言葉。ずっと仲の良かった幼馴染にもう共にいられないことを詫びたのだろうか。これ以上友情を続けられないと、そう言いたかったのだろうか。
「いや、そうじゃない。村を出ていく前に、俺はライナの未来を予測した。……勝手に見たことは、すまないと思ってる。だけど、どうしてもライナのことが心配だったんだ。俺が予測した未来では、ライナは俺を追いかけて王都に来ていた。出稼ぎ人として王都で働いていたんだ。そして、………事故に遭って、死んでた」
すっ、と体感温度が下がる。恐らく私の顔は血の気が引いていることだろう。イアンは唇を噛みしめている。決して、冗談を言っているわけでないことぐらい、私にもわかる。未来予測は、占いだとか予言だとかいうレベルのものではないのだ。当然、予測の規模が大きくなればなるほど完全に予測通りになるとはいかないが、国家の行く末を委ねてしまえるほど確率である。人一人の規模まで予測範囲を狭めれば、それはほぼ百パーセント未来そのものだといえる。私は、死ぬ運命だったということだ。
「俺はそんな未来にしたくなくて、この学園のスカウトを呼び、ライナを入学させる計画を立ててもう一度未来予測をした。俺の見た未来では、ライナは出稼ぎのときよりも長く生きた……けれど、だめだった。途中で、事件に巻き込まれて、君は卒業まで生きることができなかった。他にも君を村から出さないようにしたり、俺の家に連れて来たり、条件を変えて何度も未来予測をした。でも、学園に行くルートよりも長く君が生きていられるルートは見つけられなかった」
もしかして、と私は思った。イアンが姿を偽ってまで私のそばにいた理由は、
「私の未来を、変えるために……?」
イアンが、無言のまま頷く。
何度も、何度も予測をしたと彼はいった。それは、いくら才能があろうと並大抵のことではない。そんなに頻繁に予測ができていたら、王はもっと簡単にこの国を統治しているはずだ。そして、本来の性別を偽ってまで、彼は奔走したのだ。
『何度も、私のために……姿まで、変えて、』
私の死という恐ろしい未来がすぐ近くに存在していたことに先程まで震えていたというのに、胸に込み上げてくるのは別の感情だ。嬉しかった、そしてとても、愛おしかった。
「俺が男として共に入学した場合、たとえ身分を偽ったとしてもライナの死亡ルートは変えられなかった。女としてそばにいる場合だけ、ライナの未来は続いていた。ジュリアとして入学して、学生生活の傍らで魔術部門の長に未来予測について学んで、死亡確率を知ることができるようになった。その時のライナの死亡確率は八十九パーセント……普通、健常者は五十パーセントに満たないんだ。ライナがもしこの学園での三年間を無事に過ごせたとしたら死亡確率がどうなるかを知ることができて、俺は驚いた。卒業後は健常者とほぼ変わらなかった。むしろ、少し低いくらいだったんだ。だから、卒業するまでの間、何とかしてライナを生かそうと思った。……生かすためなら、ライナを苦しめることも堂々とやった。ジュリアがいないルートでは、君はそのマネジメント技術でチームメイトから慕われ、身分を越えた友人だって、恋人だってできていた」
イアンの言わんとしていることが、私にもようやく分かってきた気がする。
「イアンは、ジュリアの正体が自分であることを、私には知られたくなかったんだね。だから最後まで、変身の術を解かなかった」
こんなにボロボロになってまで、シシアンを圧倒する力を持ちながらも隠したがったのは、
「私がジュリアを憎んでいると、分かっていたから」
ジュリアでいることを卒業まで、いや、卒業後も隠すつもりだったのだ。
そっと、血の止まった左腕に触れる。刺青は術の停止とともに薄れていって、今では良く見れば影のようなものが見える程度だ。そのうち完全に消えるのかもしれない。
私には適性がないため治癒の術が使えない。攻撃と防御の基礎レベルがかろうじてというところだ。それでも庶民にしては魔術が使える方だと開き直っていたが、今はそれが悔しかった。
「……憎んでた。私はジュリアを、確かに憎んでいた」
私は卑小な自分をようやく認める。
「でも、それでも私はジュリアのことを、愛してた。それは、ほんとうなの」
美人で、頭もよくてお金も地位も人心も思いのままで、そんな彼女が羨ましかった。彼女が引き起こしたことが悪い結果を生み出せば、何故か必ず私のせいにされていて、所詮庶民だと蔑まれ、泣いたことも数えきれない。
それでも、ジュリアが大好きだった。彼女以外の人との触れ合いがなかったからだったのかもしれないし、二人きりの時に彼女が私だけに見せる少し大人びた表情を別れた幼馴染と重ねていたためだったのかもしれない。ジュリアとの二人きりの時間が、ただのおしゃべりでもお菓子作りでも、私は幸せを感じていた。
「いま、イアンから本当のことを教えてもらったから、もう私はジュリアのことを憎んだりしない。だって、全部私のためにイアンがしてくれたことだったんだよ。ジュリアがいなければ、私は、死んでた」
それなのにどうして彼女を、彼を責めることができるだろうか。私を生かすためにこの二年間ずっと頑張ってくれたのだ。
「ありがとう」
彼が謝罪するべきことは何もない。むしろ私が感謝すべきだ。
だが、彼は目を逸らして首を振る。
「……違う、違うんだ、ライナ。俺は、君に感謝なんてされるようなこと、してないんだ」
うめくような弱々しい呟きは、謙遜している様子とはまた違っていた。
「ライナ、どうして君の死亡確率がこの数年間だけ一気に膨れ上がったか、不思議に思わないかい?」
「それ、は……」
心の隅で、そっとくすぶっていた微かな疑問。健常者で、ただの村娘の自分が何故高確率で死亡することになっていたのか。それがライナのもとからの寿命で、他の人々もそのように人生を終えるものなのか、それとももしくは……
「俺のせいなんだ。俺が未来予測の才能を持っていたから、そのとばっちりを君が受けた。一番近くにいてなおかつ血のつながらない存在を、この才は危険にさらす」
*****
――最初は俺が不運なライナを救うと、そんなふうに考えていた。
――だけど、現魔術部門の長に教えてもらった。
――未来予測の才能を持つ者と一番長く接し、なおかつ血縁者でない者の死亡確率が一定の期間跳ね上がるという、秘められたおぞましい副作用があるということを。
「ライナが死にかけたのも、全部その副作用のせいだ。俺がライナを危険にさらして、助けると言いながらこの二年間苦しめ続けた。そして卒業したら何食わぬ顔で君を手に入れて、全て秘密のままこれからも一緒に居るつもりだった」
「なにも、言わないつもりで……?」
もし自分の居場所を失くしたまま学園で三年間を過ごしたあとにイアンが迎えに来たのなら、私は何も考えることなく彼の温かい胸に飛び込んでいっただろう。何も知らないままに、もう彼がいれば何も怖くないのだと安心しきって。
「俺は、最低の人間だ……!ライナを苦しめた張本人のくせに、君を手放したくなかった。君がシシアンと恋人同士になれば君の死亡確率が下がると分かっていながらも、ぎりぎりまで他のルートを探していた。挙句の果てに、体の形を少し変えるだけの簡単な解決策に気付かなかった。シシアンに言われてようやくだ」
振り絞るように彼は叫ぶ。元から血が滲んでいた唇をさらに噛みしめ、赤味が増した。
私は無言で、腕に触れていた指先に力を込めた。そんなことを言わないでほしかった。
「それでもっ、それでもまだ君を、俺は手に入れたい……!お願いだ、そばに居させてくれないか。もし、それがだめなら、」
治癒していたはずの右手が、私の手をそっと掴みスライドさせる。腕から胸へ、心臓の上へと。
「ライナの手で、ころしてくれ」
あぁ、もう駄目だと思った。もう限界だった。
「イアン……」
身体は勝手に動いてくれた。私は傷だらけの幼馴染の首筋に縋り付くように抱きついた。そのまま顔を埋めれば、慣れ親しんだ彼の匂いと、ジュリアがつけていたコロンの香り、そして血の匂い。
他の人から見れば、イアンは故意ではないにせよ自分が招いたことの尻拭いをしたに過ぎないかもしれない。人を危険にさらしておきながら自分の欲を通そうとする最低な人間なのかもしれなかった。
けれど、私にはどうだってよかった。イアンの一番そばにいたのが私だったということ、他の人と私が恋仲になるのを嫌がったことに喜びを感じずにいられるわけがない。
イアンはこの二年間ずっと私に縛られてきたはずなのに、それでもまだ一緒に居たいと乞うてくる。私が手に入らなければ、死ぬという覚悟までしているのだ。
「私の、そばにいてくれる……?」
ずっと、ずっと、一緒に居たい。
別れたあの時の心に大きな穴の開いたような寂しさは、もう味わいたくはない。
「あぁ、ライナ。もう、離れられないよ……」
痛いほどに返された抱擁が、その言葉の真剣さを伝えているようだった。
二年ぶりに感じるその体温に、私の瞳から一筋だけ熱い雫が伝い落ちたのを、イアンはきっと知らないだろう。
*********
「……ところで、この人どうしようか」
落ち着いたところで、鎖でぐるぐる巻きにされたまま転がっているシシアンを見やる。今までの様子を見るにろくでもない奴だというのはよく分かったが、軍事部門の次期長であることには変わりはないのだ。放置というわけにはいかないだろう。
「そいつの従者を呼んでおく。俺たちは部屋に戻ろう」
そういって立ち上がるイアンは、校内を歩けるような恰好ではない。魔術で部屋に戻ることになり、私たちは一瞬で見慣れた寮の部屋へと戻った。私の部屋ではなくその隣のジュリアの部屋である。
「べたべたして気持ち悪いから早くシャワー浴びたいけど、さすがにこの傷は治さないと沁みそうだな」
そう呟いてイアンは大きな傷の治癒を始める。傷は痛々しいが彼の魔術ならすぐに治ることだろう。
「そういえばイアン、私の身体を変えなくていいの?そうしないと危ないんじゃ……」
「あ、まだ気づいてなかったの?もう変えたんだけど」
そう言ったイアンの手が、私の耳元に伸びる。くすぐったい感触に私は思わず首をすくめて尻尾を揺らした。……ん?しっぽ?
「な、ななな何、何よこの尻尾は!!」
私のスカートの下から足以外に突き出た長いそれはゆらゆらと揺れ、私が叫ぶと同時に毛が逆立った。ハッとして耳に手を当てれば、恐れていた毛皮の感触。慌てて洗面所に飛び込み鏡を覗き込めば、私の黒い髪の毛と同じ色の獣の耳。……これは、猫、だろうか。
「気に入らないのなら別に違うものでもいいよ。俺としては最後まで迷っていたウサギもぜひ……」
鏡越しにイアンが首をかしげる。私は恥ずかしさのあまり絶叫した。
「もっと!もっと芋くさいのにして!私みたいな田舎娘に似合いの残念なやつでいいから!」
「落ち着いて、ライナ。大丈夫凄く似合ってるから」
「あんたは昔から私が何を着ても似合うしか言わないじゃない!」
買い物に行くときに男衆で一番役に立たなかったのを覚えている。女の人は寄ってくるしそれを見たごろつきたちに難癖をつけられるしで散々だった。
「わ、わかった。じゃあ他に思いついたらまた変えてみよう。ひとまず俺はシャワー浴びてくるから、ちょっと待ってて」
逃げるように脱衣所に逃げ込むイアンを半眼で睨みつけて私はそっぽを向いた。まったく、もっと別の身体的変化もあっただろう。イアンなど、風呂で溺れてしまえ……
「あ、れ……」
ぶつくさと文句を言っている途中で、私はあることに気付いた。気付くべきことではなかった、ある一つの真実に、私の身体が瘧のように震えだす。そんな、まさかと思っても、それは気のせいなどである筈がない。頭が熱くなり、私は泣き出す寸前でなんとか耐える。なんてことだろうか……
「……ライナ?どうしたの?」
どれだけそうしていたのだろうか。気付くとシャワーを浴び終わったイアンが俯いて立ち尽くす私を覗き込んでいる。
「………イアン、お風呂、」
「入ってきたところだよ?ライナも入る?」
「わたし、お風呂に入ったわ、」
「え?いやまだ入ってな…」
「ジュリアと一緒に」
「……」
「さらに言えば、ジュリアはお風呂で私に抱き着いたこともあったわ」
シャワーを浴びて火照っていた彼の顔から一気に血の気が引くのを見た。以前私が楽しみにとっておいたデザートを食べてしまったのがばれた時と同じ反応だ。
「え、あ、いやあれはつい我慢できなかったといいますかだってライナが一緒に入らないって誘ってきたんだし据え膳くわぬはなんたらというか最後の一線はこえなかったというかあの」
「歯を……」
目を逸らし早口で言い訳を始めた幼馴染に、私は拳を握り固めた。
「歯を食いしばりなさいっ!イアン・ドレークゥゥ――!!」
その後女子寮に響いた男の悲鳴にちょっとした騒ぎになり必死に言い訳しなくちゃならなくなったり、これからの私の身の振り方で言い争いになって結局イアンがジュリアとして卒業まで一緒に居ることになってしまったりするんだけれど、それはまた別の話。
こうして私とイアン……もといジュリアとの楽しい学園生活は、二年目にしてようやく始まることとなる。ゼロからというよりもマイナスのからのスタートだけれど、私はこの学園でマネージャーとしてあのチームメイトたちに今度こそ認めてもらいたい。“ジュリア”の存在があったから認めてもらえなかったかは、結局のところわからないのだ。まだ少し怖いけれど、でも私が倒れそうなときは、隣に立つ幼馴染が支えてくれることだろう。固くつないだ手の温かさを感じながら、私たちは一歩踏み出した。
根拠などないけど、これからとても素敵な日々が待っている気がするのだ。
*********
「次代の魔術部門の長に呼び出されて来てみれば……あんた何やってるんですか。何それ束縛プレイですか」
少しずつ崩れ始めた魔術の鎖の隙間から顔を出せば、見慣れた従者がごみを見るような目つきで自分を見ていた。おかしいな。彼は俺より年下でなおかつ使用人という身分のはずなのだが……
「次代の長同士でちょっとやりあったんだ」
従者の目つきがごみを見るようなものからさらにランクアップした。人はこれ以上の蔑んだ眼をすることはできないと確信する最上級のものへと。彼は生まれた時から自分の従者で恐れることなく自分をこのような目で見てきたが、今までで一番のような気がする。記録更新だ。
「机とか椅子とか吹っ飛んでばらばらになってますけど。どんだけ激しいのしてたんですか本当に気持ち悪いな」
残った魔術の鎖をバラバラに壊して、俺はようやく立ち上がる。無理な姿勢で締め付けられたから体の節々が軋んだ。
「気持ち悪いとは、お前の命を救った俺に何て言い草なんだ。天国のお母さんも泣いてるぞ。俺も泣くし」
「母はまだ当分死にそうもないですしあんたは泣くな気持ち悪い。あとあんたの悪ふざけに巻き込まれ続けて十年以上たちますが殺されそうになったことはあっても助けられた覚えはありません」
「あぁ、恩を忘れるとは嘆かわしい……その脳みそが小さいせいだな仕方ない」
ため息をつけば、またあの蔑んだ容赦のない目つきをしてみせる。
「……やっぱり本物ではないとダメだな」
その目を見惚れるようにじっと見つめそうひとりごちると、従者の少年は怪訝な顔で首をかしげた。
「何言ってんですか。とうとう頭が沸いたんですか?帰ったら氷風呂に沈めましょうか?」
「そうだな……ともに沈むのも悪くない」
「言っとくけどあんただけだからな沈むのは」
自分にそのままの感情をぶつけてくれる者の存在がどれほど貴重で尊いものか、自分はよく分かっている。だからあの気に食わない顔をした次代の魔術部門の長である少年のことは決して心の底からは嫌ってはいないし、その幼馴染の少女は手に入れられたらとても楽しいと思ったのだ。けれど……
「早く帰ってその汚い恰好何とかしますよ。ほら、ちゃっちゃと歩いてください」
床の一角に用意した移動式の魔術式へと従者が自分を引きずっていく。
「いつもありがとう」
数年ぶりに心からの感謝を告げれば、従者は顔を歪めて「何ですかあんた死ぬんですか」といつも通りの表情で返してくれる。やはりここまで剥き出しでないと自分は満足できない。
――あの数年間、こいつを守り切れて本当に良かった。
「何ニヤニヤしてんですかこの変態」
幼馴染の従者の罵倒をのんびり聞きながら、シシアンはさらに頬を緩めた。
さあ、明日もきっと楽しい一日になることだろう。