【番外】寵姫の出来るまで6
予想のついた話だが、どやどやと連れ去られたフィリシアに、ウィルフレッドは接触することが出来なくなった。母に願うのではなく『王太后』に『命じ』たならば接触は不可能では無かっただろうし、ウィルフレッドにとって鬼門そのものの王太后の侍女達も手出しは出来なかったのだろうが、生憎ウィルフレッドの中にその選択肢はない。決して無能ではなく、寧ろ後世に置いては名君と呼ばれることになるだろうウィルフレッドの明白な弱点がそこにある。過度の母親崇拝とでも言おうか。母たる王太后が政治に口出しをしないためにその弱点は顕在化はしていないが。そして今回の事態は弱点が弱点として炙り出された最初であった。
媚びる視線と押してくる威圧間。両者を器用に使う臣下は実のところ少なくない。国王としてのウィルフレッドと若造としてのウィルフレッド、両者を一人の中にみるのだから当然と言えば当然である。だがそれでもその視線は久々に受けるものではあった。後宮が現在の形に整うまでーー正確には、ウィルフレッドと正妃の間に男児が生まれるまで、である。是非とも我が娘を側妃にと売り込んで来る大貴族は大概その器用な目をしていた。
今、その目をウィルフレッドに見せているのは壮年の男の名をイアンと言う。家名はマーソン、身分は伯爵。やや肉が付き始めてはいるが、衰えは感じさせない壮年過ぎの男である。油でぎらぎらと光る額と頬には酷く精力的で、寧ろもう少し衰えたらどうだという感想を男も女も持つだろう。育ち故が下品さはないが、それでも若い娘はほぼ反射的に避けて通る。そういう顔立ちであり、体つきである。ややせり出した額の下の目は細く、視線と強さと相俟ってその先の何かを常に獲物に見せる。
実際に狙っているのは若い娘ではなく、今現在はウィルフレッドだ。
ウィルフレッドは反射的に落ちかけた溜息を無理に飲み込んで、マーソン伯爵に何だと返す。伯爵は、いえ、と短く答え、件の目でウィルフレッドを見つめた。
あからさまに催促するその視線に、ウィルフレッドは不快感を煽られた。内示さえもないものを確信してしまっているのは浅はかと言うべきか優れた嗅覚と言うべきか。前者ならばウィルフレッドも彼の弟の子に新たなフィルモア伯爵を名乗らせようとなど考えないのだから、この場合は後者が正しい。その嗅覚は貴族として生き残り更に家を発展させるには必要な技能だ。それを見込んでフィルモア伯爵領を任せるつもりだったが、道行きに暗雲が立ちこめている今は、頼もしい筈の技能が忌々しい。
無言で見つめてくる、威圧してくるマーソンにウィルフレッドはこれ見よがしに息を落とした。
「実りの季節は」
呟き、言葉を切る。季節がどうされましたかなと問いかけて来るマーソンに、ウィルフレッドは切った言葉の続きをあくまで独り言のように呟く。
「実りあるものであろうな」
この陽気なら。
取って付けたような気候の話に、意味などない。
実りの季節には『実り』があるだろう。マーソンにとっての。
内示ではない。ただの暗示。それで引き下がらないなら不興を買う。それを察することの出来ないマーソンでは無い筈だ。
案の定、マーソンは声を立てずに笑う。にいっとつり上がった口の端は獰猛な獣よりは、貪欲な家畜を思わせる。己のその感覚に、ウィルフレッドは内心頭を振った。
嫌いなのだ。それを自覚した。それがどこから来た感情であるかは、黙殺したまま。
ああ、この家畜は喜んでいるのだ。
あの娘の、父母の死を、己への餌として。
その感想に、蓋をした。
くすりと言う小さな笑い声を、今日は何度聞いただろ。それでもフィリシアは頭を上げず、黙々と与えられた課題に集中する。与えられた等と押しつけられたような言い方さえ不遜だ。望んで与えて貰っているが事実に対して正確である。少なくともフィリシアはそこをはき違えてはいなかった。それでも反射としての動きまでは制限できない。いずれ必要になってくる抑制術かもしれないが、今のフィリシアには少々高度だった。ぴくっと反応した肩にだろう。重ねてくすりと笑い声が降ってくる。
感情的なようでいて実際に感情的なフィリシアだが、察しは悪くない。重ねられた笑いには意味がある。敢えてフィリシアの反応を楽しんでいる可能性も否めないが、笑い声の主は「この」時間の中でフィリシアに無駄を強いはしない。だからフィリシアは己の判断に従って(感情ではないと彼女は断言する)顔を上げた。すると「よろしい」と言うように教師はにっこりと笑った。
「十分ですね」
「え?」
「機を見るに敏であること。私が敢えてあなたを挑発していたことに気付いて、そこにあなたを不利にしない意図があることに気付いたでしょう?」
「え、ええ」
考えながらも、フィリシアは頷いた。教師もそれに頷きを返す。
「あなたに必要な訓練は通り一辺倒の算術よりも寧ろそこですからね」
今更なにを学ぶもないでしょう?
そう言って教師は手を伸ばし、インクの乾いた紙を覆うように手で押さえる。長い指が書かれた数式を隠してしまう。フィリシアが手易く解を導き出した数式を。
「父からも教えを受けましたので」
フィリシアは視線を指から手へ、手から腕へと動かし、最後に教師の顔を見た。整ってはいるが派手ではない容貌がそこにはある。黒と紫の間のような深い宵闇の瞳は、安らぎの時間を宿してただ優しい。癖のない真っ直ぐな黒髪は首の後ろで柔らかく纏められていた。髪を束ねるのは教師の瞳と良く似た濃い宵闇の紐。糸を幾重にも寄り合わせて編まれ、飾り房の付けられたその紐は、フィリシアが嘗て編み贈ったものだった。
幼なじみでもあった、教師の為に。
「サイラス……」
王太后が用意したフィリシアの教師は、嘗てはフィリシアの婚約者だった青年だった。
フィリシアの望みを正確に把握している王太后はフィリシアに相応の力を付けさせるべく教師を用意してくれたが、その人選が優しいのか厳しいのかは微妙なところである。
名を呼ぶと彼は――サイラスは優しく笑う。思うところも多いだろうに、フィリシアと再開した後のサイラスは嘗てと変わらぬ優しい微笑みをフィリシアに向ける。無論教師としての厳しい顔も見せるが、基本的にフィリシアは出来のいい生徒であるので厳しい顔という札はあまり切られない。
何故なら、
「君は義父上が褒めるほどの生徒だったそうだからね」
ちち、という言葉の持つ意味合いに気付き、フィリシアはサイラスから顔を背けた。サイラスの義父になるはずだったフィルモア伯爵はもういない。いなくなってしまったことがすべての発端だった。
その儚くなったフィルモア伯爵は、娘の躾に一切の手心を加えなかった。ある意味では手心と言えるのかもしれない。
フィリシアは領地の管理に必要な基本を学んでいた。実務の経験はないから、本当に基礎ではあるが、課税や賦役、飢饉の対策、他領との交渉に至るまで一通り父親に教え込まれている。教えていないのは武器や兵の扱い方くらいである。戦というものが縁遠くなっているこの国では男児であっても珍しいことではない。
ふと思い当たって、フィリシアはサイラスに視線を戻した。
「今思うと、お父様は私に最善で最良のものを与えようとして下さったのね」
「僕も含めての話かな」
「……そうね」
フィリシアは苦笑する。
穏やかで優しい性格のサイラス個人もまた最良の一部だが、その詳細をサイラスに語るわけには行かなかった。
サイラスは人柄も選び抜かれた婚約者だったが、そればかりではなく家格もまた考慮されていたのだろう。婚家において伯爵家の血筋である妻を蔑ろには出来ない男爵家の次男。フィリシア本人にも蔑ろになどされないだけの知識。
フィリシアが苦労するだろう芽を、できるだけ詰んでくれていたのだ。
それはフィルモア伯爵が健在であることを前提としたものではあったが。あったからこそ逆に今フィリシアはこうなっているわけだが。
それを思うと溜息も出てくる。最良を施してくれた父母に対して、少々自分は薄情な気がしてくるのだ。ウィルフレッドあたりが聞けば開いた口が塞がらなくなりそうな言い分だが、フィリシアにはそう思ってしまうだけの根拠があった。
「なんだがお父様に申し訳ない気がするの。私、悲しむこともそこそこに、怒ってしまったから」
「それは寧ろ、素直に悲しみにくれていられなかった、と言うべきじゃないのかな」
「ものは言いようだけど」
苦笑したフィリシアに、サイラスは痛みを耐えるような顔をした。
「すまない」
絞り出すような謝罪にフィリシアはサイラスを振り仰ぐ。驚きを素直に表すフィリシアの瞳には、下唇を噛み締めるサイラスの整った顔が写った。
「どうしてサイラスが謝るの?」
サイラスはゆっくりと頭を振った。
「僕は君を選べなかったよ。君より、男爵家を選んで、君に悲しむ時間を上げられなかった」
「サイラス」
「僕は臆病だった。そして今は狡いね。王太后陛下のお召とは言え、こうしてまた君と向き合っている」
それが少し嬉しい。
ぽつりと付け足された言葉に、フィリシアは胸が押された。
愛していたかと問われれば、それに頷くことは出来ない。
だがサイラスとの未来は、フィリシアの中では当たり前に想像ができるものだった。
父がいて、母がいて、そしてサイラスがいる生活は、きっと穏やかで満ち足りて、幸せだったろうと確信できる。
「ねえ、サイラス」
フィリシアは幸せな妄想を振り払って笑う。
「私は今ね、あなたに謝ってもらうほど不幸じゃないわ」
「フィル……」
懐かしい呼び名に、フィリシアの笑みは深くなる。
その名を呼ぶのは、父母とサイラスが最後なのかもしれない。過去からの呼び名は幸せな妄想をいっそ儚く思わせる。
「大丈夫よ。進んでいけるわ。その為に私はこうして教えを乞うているんだから」
吹っ切れたように笑うフィリシアに、サイラスは目を細めて俯いた。その長い指が紙から離れて、己の髪を括った紐に触れた。