第72話 王軍敗走
冒険者ギルドの朝は、いつも賑やかだ。
依頼掲示板の前では冒険者たちが仕事を選び、受付では依頼の受注や報酬の精算が行われている。奥の食堂からは焼きたてのパンや温かなスープの匂いが漂い、これから仕事に出かける者たちの笑い声が広間に響いていた。軍務依頼の増加によって以前よりも慌ただしくなってはいるものの、冒険者たちが仕事を探し、それぞれの一日を始めるという光景そのものは変わっていない。
そんな普段と変わらない朝の光景の中で、私たちはミレイユとユリウスを交え、次に受ける依頼について相談していた。
「私はまた薬草採取でもいいと思うんですけど、ユリウスが別の依頼も受けてみたいって言うんですよ」
ミレイユが少し不満そうに言うと、隣にいたユリウスは困ったように笑った。
「別に薬草採取が嫌なわけじゃないよ。ただ、せっかくリカさんとタクマさんに教えてもらえるんだから、もう少し難しい依頼にも挑戦してみたいと思ったんだ」
「でも、この前だって魔獣と戦ったじゃない」
「あれは採取の途中で遭遇しただけだろ? 俺が言ってるのは、最初から討伐を目的にした依頼のことだよ」
二人のやり取りを聞きながら、私は思わず笑ってしまった。
数日前、初めて一緒に森へ入った時には、二人とも慣れない土地に緊張していた。薬草の見分け方や魔獣との距離の取り方を一つずつ確認し、何をするにも慎重だったことを思えば、一度依頼を終えただけで随分と積極的になったものだ。
もちろん、経験を積みたいという気持ちは悪いことではない。冒険者として仕事を続けていくなら、少しずつ自分にできることを増やしていく必要があるし、討伐依頼をこなせるようになれば選べる仕事の幅も広がる。
ただし、焦りは禁物だった。
「ユリウスの気持ちも分かるけど、まずはこの前と同じくらいの依頼を、二人だけでもこなせるようになることが大切だと思うよ」
タクマがそう言うと、ユリウスは少し考えてから頷いた。
「確かに、前回はお二人が一緒でしたからね」
「ああ。俺たちがいたから安全にできたこともある。次は依頼を受けるところから、できるだけ二人で考えてみたらどうかな。どんな危険があって、何を準備しておけばいいのか。そういうところも含めてさ」
「なるほど……」
ユリウスは真剣な表情で依頼掲示板へ視線を向けた。
前回の研修では、魔獣との戦い方や薬草の見分け方を中心に教えたけれど、今回は依頼の選び方そのものを経験してもらうのもよさそうだった。自分たちの実力に合った仕事を選び、必要な道具や帰還までの時間を考えることも、冒険者にとって大切な能力の一つなのだから。
「じゃあ、今日は二人に依頼を選んでもらおうか。私たちは相談に乗るだけにして、まずは自分たちで考えてみて」
「はい! じゃあ、ユリウス。掲示板を見に行こう!」
「ああ。でも、ちゃんと条件を確認してから決めような」
二人はそう言って、依頼掲示板の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は隣に立つタクマへ笑いかけた。
「何だか、ちょっと先生らしくなってきたね」
「まだ言うのか、それ」
「だって、ちゃんと教えてるんだもん。最初の頃のタクマを思い出すと、何だか不思議な感じ」
「俺だって最初はリカに色々教わったからな。少しくらいは恩返ししないと」
タクマは照れくさそうに笑った。
彼が初めて冒険者ギルドを訪れた日のことを思い出す。あの頃のタクマは、この世界の文字も十分には読めず、冒険者としての常識もほとんど知らなかった。それでも一つずつ仕事を覚え、剣の稽古を重ね、今では自分より経験の浅い冒険者へ助言できるようになっている。
もちろん、今の彼を育てたのは私だけではない。ハーケンやボーマン、それに一緒に依頼を受けた仲間たちとの経験があってこそだろう。それでも、こうして誰かに教えている姿を見ると、やっぱり嬉しくなってしまう。
そんなことを考えながら、私は今日も穏やかな一日になりそうだと思っていた。
けれど、その予想は間もなく覆されることになった。
◇ ◇ ◇
最初に異変に気づいたのは、受付にいたエリナだった。
ギルドの入口から慌ただしく入ってきた男が、受付の職員に何かを告げている。旅装の上から羽織った外套には泥が跳ね、顔には疲労の色が浮かんでいた。どうやら街道を急いできたらしく、肩で息をしながら封のされた書類を差し出している。
書類を受け取った職員は、その封印を確認すると表情を変え、すぐに奥の廊下へ消えていった。
「……何かあったのかな」
私が呟くと、タクマも入口の方へ視線を向けた。
「急ぎの連絡みたいだな」
ギルドでは、街道の異常や魔獣の大量発生など、緊急の報告が持ち込まれることがある。だから、伝令が駆け込んできたこと自体は、それほど珍しいわけではなかった。
それでも、今回はどこか様子が違っていた。
受付に残った職員たちが小声で話し始め、エリナも普段の明るい表情を消している。いつもなら冒険者たちと軽口を交わしている彼女が、伝令の方へ何度も視線を向けているのを見て、私も次第に落ち着かなくなってきた。
しばらくすると、奥の扉が開き、バルザックが姿を現した。
その手には、先ほどの伝令が持ってきたと思われる書類が握られていた。
「お前ら、ちょっと聞いてくれ」
ギルド長の低い声が響くと、広間にいた冒険者たちが一斉に顔を上げた。普段なら少々の騒ぎでは静かにならない食堂の方からも、次第に話し声が消えていく。
バルザックは集まった視線を確認してから、ゆっくりと口を開いた。
「西から急報が入った。マリアベル王国のグラニスクで、大規模な会戦が起きたらしい」
その言葉だけで、広間の空気が変わった。
数日前から、マリアベル王軍とハインリヒ軍がグラニスク周辺に集結しているという話は伝わっていた。両軍が大きな戦いに備えていることは誰もが知っていたし、いずれ衝突するだろうと考えていた冒険者も多かったはずだ。
けれど、実際に戦いが始まったと聞けば、やはり受け止め方は違う。
「それで、どうなったんだ?」
誰かが尋ねた。
バルザックは一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、書類へ視線を落とした。
「……グスタフ王軍が敗走したそうだ」
広間がざわめいた。
「王軍が負けたのか?」
「グラニスクって、あの港町だろ? そこまでハインリヒ軍が進んでたのか?」
「おい、王都はどうなるんだよ」
冒険者たちが口々に話し始める。中には報告の内容を疑う者もいたけれど、ギルド長が正式に知らせた以上、何の根拠もない噂というわけではない。
私は、その声をどこか遠くに聞いていた。
王軍が敗走した。
つまり、お父様の側が負けたということだ。
もちろん、王軍が一度敗れたからといって、すぐに王国が滅びるわけではない。マリアベル王国は広く、王都もまだ健在のはずだ。王軍のすべてがグラニスクに集結していたとも限らないし、撤退した部隊を再編することだってできるだろう。
それでも、大規模な会戦で王軍が敗北したという知らせは、簡単に聞き流せるものではなかった。
「リカさん……」
声を掛けられて顔を上げると、ミレイユとユリウスが近くに立っていた。
二人とも、先ほどまでの明るい表情を失っている。
「王軍が負けたって、本当なんでしょうか」
ミレイユの声には、不安が滲んでいた。
「まだ詳しいことは分からないみたい。でも、ギルドに正式な報告が届いたなら、何か大きな戦いがあったのは間違いないと思う」
「そう、ですか……」
ミレイユは俯いた。
ユリウスも険しい表情をしている。
二人は戦争を避けるためにマリアベルを離れた。けれど、故郷には家族や知人が残っているのだろう。遠く離れた場所で暮らし始めたからといって、向こうにいる人たちのことまで忘れられるわけではない。
それは、私も同じだった。
「まだ分かってねえことが多い!」
バルザックが、騒がしくなった広間へ向けて声を張った。
「王軍が撤退したという報告は入ってるが、損害の規模も、その後の動きも確認できてねえ。妙な噂を広めるんじゃねえぞ。追加の情報が入り次第、必要なことは知らせる」
その言葉に、冒険者たちは少しずつ落ち着きを取り戻した。
それでも、誰もが不安を隠せずにいる。特にマリアベル出身の冒険者たちは、互いに顔を見合わせながら小声で話し込んでいた。
私はそんな光景を眺めながら、胸の奥に広がる落ち着かない気持ちを持て余していた。
お父様は今も王都にいるはずだ。
ユリアナも、魔法騎士団の副団長として王宮を守っているだろう。
だから、今回の会戦で二人が直接危険に晒されたとは限らない。それでも、王軍が敗れたということは、これから王都にも戦争の影響が及ぶかもしれないということだった。
七年前に王宮を飛び出した時、私は自分がもうあの場所へ戻ることはないと思っていた。実際、先日の帰郷でお父様と再会した後も、その気持ちは変わっていない。
けれど、だからといって王宮で暮らした日々が消えてなくなるわけではなかった。
そんなことを考えていると、隣に立つタクマがそっと私の方へ体を寄せた。
何かを尋ねるわけでも、無理に励ますわけでもない。ただ、私が一人で立っているわけではないと伝えるように、すぐ近くにいてくれた。
私は小さく息を吐き、彼にだけ分かるように頷いた。
◇ ◇ ◇
グラニスク会戦の詳しい情報が届き始めたのは、それからしばらくしてのことだった。
最初の報告では、王軍とハインリヒ軍が大規模な戦闘を行い、王軍が敗走したという事実しか分からなかった。ところが、後続の伝令や街道を通ってきた商人たちの話によって、戦いの経緯が少しずつ明らかになっていった。
そして、その内容は私たちの予想を大きく超えるものだった。
「……ザクセンブルグ王国軍が?」
バルザックから話を聞いた私は、思わず聞き返してしまった。
場所はギルド長室。
私とタクマは、追加の報告が届いたということで呼び出されていた。
「ああ。グラニスクの南方に展開していたザクセンブルグ軍が、会戦の最中に王軍の側面を攻撃したらしい」
バルザックは机の上に広げた地図を指差した。
「王軍は正面のハインリヒ軍に備えていた。ところが、南から突然攻撃を受けて陣形を崩された。そこへハインリヒ軍が攻勢を強めたってわけだ」
「でも、ザクセンブルグは中立を表明していたはずだよね?」
「その通りだ」
バルザックは苦々しげに頷いた。
ザクセンブルグ王国は、マリアベル王国と並ぶゲルマニア諸王国連合の大国だ。両国は長年にわたって連合の中心的な役割を担ってきた。もちろん、連合を形成しているからといって、両国の利害が常に一致するわけではない。外交や通商を巡って意見が対立することもあるし、互いの国力を意識していることも珍しくなかった。
それでも、ザクセンブルグがマリアベルの内戦に直接介入するという話は、これまで聞いたことがなかった。
実際、ザクセンブルグ王国は王位継承争いについて中立の立場を取ると表明していた。グラニスク南方の国境付近に軍を集結させていたことも、国境の治安維持と難民の流入に備えるためだと説明していたはずだった。
王軍もザクセンブルグ軍の動きは把握していただろう。けれど、中立を宣言していた隣国の軍が、会戦の最中に突然攻撃してくるとは考えていなかったのかもしれない。
「……ひどい話だね」
思わず呟くと、バルザックは肩をすくめた。
「戦争なんてそんなもんだ、と言っちまえばそれまでだがな。問題は、ザクセンブルグが中立を名乗ったまま攻撃を仕掛けたことだ」
「それって、ほかの国からも信用されなくなるんじゃないか?」
タクマが尋ねると、バルザックは頷いた。
「当然だろうな。国境監視だと言って軍を集めておいて、いざ戦いが始まったら横から殴りつけたんだ。周りの国だって、次は自分たちが同じ目に遭うかもしれねえと考える」
私は地図に目を落とした。
ザクセンブルグ軍が南方から王軍の側面を攻撃したということは、王軍はハインリヒ軍と戦いながら、予想外の方向からも攻撃を受けたことになる。
ただでさえ大規模な会戦の最中に、そんな事態が起きれば、混乱は避けられなかっただろう。兵士たちがどれほど勇敢に戦ったとしても、部隊の配置や補給の準備は、想定していた敵の動きに合わせて組み立てられている。そこへ別の軍勢が突然現れれば、指揮官たちが状況を把握し、命令を行き渡らせるまでにも時間がかかる。
そして、報告にはさらに続きがあった。
「ザクセンブルグは、王軍の敗北が決定的になった後で正式な声明を出してる」
バルザックは別の書類を手に取った。
「ハインリヒこそマリアベル王国の正統な王位継承者であり、その王位継承を支持する。だから軍事介入する、って内容だそうだ」
「……攻撃してから、参戦を表明したの?」
「ああ。そういうことになるな」
私は思わず言葉を失った。
既に軍を動かし、王軍を敗北させた後で、正式にハインリヒへの支持を表明する。それは、最初から介入するつもりだったとしか思えない行動だった。
もちろん、ザクセンブルグの王宮でどんな話し合いが行われたのか、私には分からない。けれど、少なくとも王軍にとっては、あまりにも大きな不意打ちだったはずだ。
「……こいつは厄介なことになったな」
バルザックはそう呟き、椅子の背にもたれた。
その表情には、単なる隣国の戦争を聞いた時とは違う険しさがあった。
マリアベル王国とザクセンブルグ王国。
ゲルマニア諸王国連合の二大強国が、今や同じ戦争に関わっている。しかも、一方の国がもう一方の内戦に軍事介入したのだ。
これまでマリアベル国内の王位継承争いとして見られていた戦争は、周辺諸国の安全にも関わる問題へと変わり始めていた。
◇ ◇ ◇
翌日、私たちは再びバルザックに呼び出された。
今度の用件は、マリアベルの戦況ではなかった。
「大公国軍から、追加の依頼が来た」
バルザックは机の上に積まれた書類を示した。
昨日までよりも明らかに量が増えている。中には軍の印章が押されたものもあり、別の束にはギルド本部からの通達がまとめられていた。
「西部国境の警戒を強化することになったらしい。軍の動員も増えるそうだ」
「やっぱり、ザクセンブルグの参戦が原因?」
「ああ。マリアベルの内戦だけなら、国境を警戒しておけば済むかもしれねえ。だが、ザクセンブルグまで動いたとなると話は別だ」
バルザックは地図を広げ、大公国の西部国境を指差した。
「中立を表明していた国が、突然軍を動かして他国の戦争に介入したんだ。大公国だって、今後どこまで戦火が広がるか分からねえ以上、備えを強めるしかねえだろう」
私は頷いた。
フロンティア大公国がマリアベルの内戦に参加するという話ではない。けれど、隣国で大きな戦争が起き、さらに別の大国まで参戦したとなれば、国境の守りを固めるのは当然の判断だった。
ザクセンブルグの行動が周辺諸国へ与えた影響は、単に一つの戦場で勝敗を変えたというだけではない。これまで外交上の約束を前提に考えられていた安全保障そのものが、揺らぎ始めているのだろう。
そして、軍が動けば大量の物資が必要になる。
「輸送護衛、集積地の警備、街道の巡回……それに、魔石の優先納品か」
タクマが書類を読みながら呟いた。
「随分増えたな」
「まだ増えるだろうな。ギルド本部からも、素材と魔石の供給をさらに強化するよう指示が来てる」
バルザックは疲れたように息を吐いた。
「軍の仕事は報酬がいい。こうなると、そっちへ流れる冒険者が増えるだろうな」
「そうなると、普通の依頼を受ける人が足りなくなるんじゃないか?」
タクマの問いに、バルザックは頷いた。
「だからこそ、お前らに新人を見てやってくれと頼んだんだ。まさか、こんなに早く状況が変わるとは思わなかったがな」
私は、数日前にバルザックから聞いた話を思い出した。
あの時は、軍務依頼が増えれば中堅冒険者が街を離れるかもしれない、という予測だった。けれど、グラニスク会戦の敗報とザクセンブルグの参戦によって、その可能性は一気に現実味を帯びてきた。
軍が求めているのは、長期間の護衛や警備を任せられる経験豊富な冒険者たちだ。そして、そうした人たちは、普段のギルドでも重要な仕事を担っている。
彼らが軍務依頼を受けて街を離れれば、当然ながら通常の依頼をこなせる人数が減ってしまう。
「そういや、フリーダとクルシュにも同じような話をしてある」
バルザックが思い出したように言った。
「二人にも、しばらくは新人の育成に協力してもらうつもりだ。お前らが普段からよくつるんでるのは知ってるから、悪いんだけどな」
「フリーダとクルシュにも?」
「ああ。あいつらは腕も立つし、面倒見も悪くねえ。新人に教える役としては十分だろう」
確かに、フリーダは戦闘経験が豊富だし、クルシュは状況を落ち着いて判断するのが得意だ。二人とも普段は私たちと一緒に依頼を受けたり、食事をしたりすることが多いけれど、後輩の面倒を見るのも嫌いではない。
ただ、フリーダが新人に槍の扱いを教えている姿を想像すると、少しだけ厳しい指導になりそうな気もした。もちろん、本人は面倒見がいいので、必要以上に無茶をさせることはないだろうけれど。
「二人とも引き受けてくれたの?」
「ああ。フリーダは『新人が増えるなら鍛え甲斐がある』って笑ってたぞ。クルシュの方は、無理のない範囲で協力しますって言ってたな」
「ふふっ。何だか二人らしいね」
私は思わず笑ってしまった。
バルザックも口元を緩めたけれど、すぐに表情を引き締めた。
「まだ、すぐに仕事が回らなくなるわけじゃねえ。だが、今のうちに準備しておかねえと、後で困ることになる。軍の依頼ばかり増えて、街の仕事が放り出されるようじゃ、ギルドとしても立つ瀬がねえからな」
その言葉には、ギルド長としての責任が滲んでいた。
冒険者ギルドは、冒険者たちに仕事を紹介するだけの場所ではない。街や周辺の村々で暮らす人々が、困った時に頼れる場所でもある。魔獣が現れれば討伐を依頼し、薬草が不足すれば採取を頼み、危険な街道を通る商人たちは護衛を求める。
そうした日々の仕事を支える人手がなくなれば、戦争に直接巻き込まれていない人々の生活にも影響が出てしまう。
「悪いが、引き続き新人の面倒を見てやってくれ。特に、最近マリアベルから来た連中は土地に慣れてねえからな」
「うん。分かったよ」
「俺も協力する。ミレイユとユリウスも、もう少し一緒に依頼を受けた方がいいと思ってたところだ」
「助かる。頼んだぞ」
バルザックはそう言って、再び書類へ視線を戻した。
机の上には、まだ確認していない依頼書が何枚も積まれている。普段から忙しい人だけれど、これからはさらに仕事が増えるのだろう。
私たちは邪魔にならないよう、早めにギルド長室を後にした。
◇ ◇ ◇
ギルドを出ると、街はいつもと変わらない賑わいを見せていた。
商店の前では客が品物を選び、通りを行き交う荷車には野菜や日用品が積まれている。広場では子供たちが追いかけっこをしていて、近くの屋台からは焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
グラニスクで大きな戦いが起きたことなど、知らなければ気づかないほど穏やかな光景だった。
けれど、耳を澄ませば、街のあちこちで西方の戦争について話す声が聞こえてくる。
「ザクセンブルグまで参戦したらしいぞ」
「本当か? 中立だって言ってたじゃねえか」
「軍がまた物資を買い集めてるらしい。しばらく値段が上がるかもしれねえな」
商人たちは輸送費や物資価格の上昇を気にし、街の人々は戦争がどこまで広がるのかを心配していた。
戦場から遠く離れたノヴァグラードでも、少しずつ日常が変わり始めている。軍の物資調達が増えれば、街で売られる品物の値段にも影響するだろうし、街道を通る荷車が増えれば護衛の需要も高まる。今はまだ普段と変わらないように見えても、戦争の影響は確実に広がっているのだ。
私はそんな街の様子を眺めながら、隣を歩くタクマと並んで家路についていた。
「……リカ、大丈夫か?」
人通りが少なくなったところで、タクマが静かに尋ねた。
私は少し考えてから頷いた。
「うん。……でも、やっぱり気にはなるかな」
「そうだよな」
「お父様は王都にいるはずだし、ユリアナもいるから、すぐに何かあるとは思わないんだけど……」
そこまで言って、私は言葉を止めた。
王軍が敗れたということは、これから王国の状況がさらに悪くなるかもしれないということだ。ハインリヒがどこまで進軍するのか、王軍が立て直せるのか、今は何も分からない。
王都にいるお父様たちが、どんな思いでこの知らせを受け止めているのかも分からなかった。
お父様は王として、敗戦の後始末や軍の再編について考えなければならないだろう。ユリアナも魔法騎士団の副団長として、王都の守りや王宮の警備に追われているかもしれない。
私はもう、あの場所に戻るつもりはない。それでも、かつて自分が暮らしていた王宮で、大切な人たちが困難に直面しているのだと思うと、胸が苦しくなった。
「心配になるのは当然だと思うよ」
タクマはそう言って、私の歩調に合わせてくれた。
「リカが王宮に戻らないって決めたことと、家族を心配することは別だろ?」
「……うん」
私は小さく頷いた。
その言葉は、今の私が感じていることを、うまく言い表してくれているように思えた。
私は王宮を離れ、自分の意思で冒険者として生きる道を選んだ。そして、お父様もその選択を認めてくれた。
七年ぶりに再会した時、お父様は私に、王国のことを気にせず、自分の選んだ人生を生きればいいと言ってくれた。
あの言葉は、今でも私にとって大切なものだった。
けれど、王国のことを気にしないのと、家族のことを心配しないのは、きっと別の話なのだと思う。
王女としてあの国に戻るつもりはない。それでも、お父様は私のお父様だし、王宮には大切な人たちがいる。何が起きても構わないなんて、思えるはずがなかった。
「ありがとう、タクマ」
「ん?」
「ううん。何でもない」
私が笑うと、彼も小さく笑い返してくれた。
私たちはそのまま、並んで家へ向かった。
◇ ◇ ◇
その日の夕食を終えた後、私は食卓に座ったまま、温かいお茶の入ったカップを両手で包んでいた。
向かい側では、タクマが今日のギルドの様子を思い出しながら、少し考え込んでいる。
「それにしても、バルザックさんはすごいな」
「どうしたの?」
「この前から冒険者が足りなくなるかもしれないって言ってただろ。実際に戦争が始まったら、すぐに軍の依頼が増えた。ああいう先を見越した判断ができるのは、さすがだと思ってさ」
「うん。私もそう思う」
バルザックは、ただ冒険者たちの依頼を管理しているだけではない。
街の周辺で何が起きているのか、どんな仕事が増えそうなのか、どのくらいの冒険者が必要になるのか。そうしたことを常に考えながら、ギルドを運営しているのだろう。
普段は豪快に笑っていることが多いけれど、いざという時の判断は早い。長年ギルド長を務めているだけのことはあると思う。
「ミレイユとユリウスも、もう少し一緒に依頼を受けた方がいいだろうな」
タクマが言った。
「うん。二人とも基礎はできてるし、慣れれば自分たちで仕事をこなせるようになると思うよ」
「そうだな。今は軍の仕事が増えてるけど、街の依頼がなくなるわけじゃないからな」
私は頷いた。
冒険者たちが軍務依頼へ向かうようになっても、薬草を必要とする治療院はあるし、街道を行き来する商人たちもいる。魔獣の被害に困っている村があれば、誰かが討伐に向かわなければならない。
戦争が始まったからといって、人々の日常がなくなるわけではないのだ。
むしろ、こんな時だからこそ、普段の生活を支える仕事が大切になるのかもしれない。
「俺たちは俺たちで、ここでできることをやっていこう」
タクマがそう言うと、私は小さく頷いた。
「うん。そうだね」
その後、彼は明日の依頼について話し始めた。
私は相槌を打ちながら、時折窓の外へ視線を向けていた。
夜のノヴァグラードは静かだった。遠くの通りから時折人の声が聞こえてくるものの、家々の窓には温かな明かりが灯り、街はいつも通りの夜を迎えている。
けれど、その静けさの向こうでは、今も大勢の人々が戦争に巻き込まれているのだろう。
グラニスクで敗れた王軍の兵士たちは、今頃どこまで撤退できたのだろうか。王都では、お父様がどんな判断を下しているのだろう。ユリアナは、今も王宮で忙しくしているのだろうか。
考え始めると、気になることはいくらでも出てくる。
私はカップに残っていたお茶を一口飲み、ゆっくりと息を吐いた。
お父様は、私に王国のことを気にするなと言ってくれた。
王宮へ戻る必要もない。自分の選んだ人生を生きればいいと、そう言ってくれた。
その言葉を疑うつもりはないし、私自身も王女として生きるつもりはなかった。
けれど、家族として心配する気持ちまで、簡単になくせるものではない。
私はもう、王国の政治に関わる立場ではない。それでも、お父様が無事でいてくれることを願うくらいは、許されるはずだ。
そして、ただ心配しているだけではなく、今の私にも何かできることがあるかもしれない。
王女としてではなく、一人の娘として。
自分の選んだ人生を大切にしながら、それでも家族のことを思う気持ちを、無理に捨てる必要はないのだと思う。
私はカップを置き、向かい側に座るタクマへ視線を向けた。
彼は明日の依頼について、まだ何かを考えているようだった。そんな穏やかな横顔を眺めていると、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。
王宮へ戻らなくても、私にできることはある。
そう考えた時、ふと一つの方法が頭に浮かんだ。
まだ、うまくいくかどうかは分からない。それでも、何もしないまま遠くの知らせを待ち続けるよりは、きっといい。
私は私で、できることをしよう。
そう決めると、胸の奥に残っていた落ち着かない気持ちが、ほんの少しだけ軽くなった。
翌朝も、きっとギルドの掲示板には新しい依頼が並ぶのだろう。軍務依頼が増え、慣れた冒険者たちが街を離れることになっても、私たちには私たちの仕事がある。
そして、それとは別に、私自身が確かめておきたいこともあった。
遠く離れた故郷のことを、ただ心配しているだけでは終わらせたくない。
私は窓の外に広がる夜の街を眺めながら、静かにそう思った。




