第76話 迷宮再調査
スタンピードが起きるかもしれない。
私がそう告げてから、ギルド長室には重苦しい沈黙が流れていた。
バルザックは机に広げられた地図を見つめ、太い指で魔獣の目撃地点を一つずつ辿っている。隣に立つタクマも黙ったまま、迷宮と周辺の街道、それに森の位置関係を確かめていた。
私自身、まだ考えを整理できているわけではなかった。母巣獣が再び現れた可能性は高い。しかも、目撃情報が正しければ、一体だけではないかもしれない。けれど、今の段階では実際に母巣獣を確認した人はいないし、迷宮の内部で何が起きているのかも分かっていない。
前回の調査では、迷宮の奥にいた母巣獣を討伐することで異変を収束させられた。しかし、今回は迷宮の外でも魔獣が増えているらしい。もし本当に母巣獣が森へ出ているのなら、前回と同じ方法で対処できるとは限らなかった。
だからこそ、まずは現地を調べる必要がある。
「……リカ」
しばらくして、バルザックが口を開いた。
「お前の見立てが正しければ、相当まずいことになるな」
「うん。でも、まだ可能性の話だよ。魔獣が増えてる理由は、ほかにも考えられるから」
「分かっている。だからこそ、確かめなきゃならん」
バルザックは地図の上に置いていた指を離し、私たちの顔を見た。
「明日まで待つつもりはない。今日中に調査隊を出す」
私は頷いた。迷宮周辺では既に魔獣の目撃情報が増えている。もし母巣獣が原因なら、調査を一日延ばすだけでも状況が悪化する可能性があった。
「ただし、今回は討伐が目的じゃない。母巣獣が本当にいるのか、いるとすればどの辺りで活動しているのか、まずはそれを確認してくれ。魔獣の数や分布も、分かる範囲で調べてほしい」
「迷宮の中まで入るのか?」
タクマが尋ねた。
私は地図に目を落とし、迷宮の位置と目撃情報のあった場所を見比べた。
「ううん。まずは外側の森を調べた方がいいと思う」
「どうしてだ?」
「前に母巣獣を見つけたのは迷宮の奥だったけど、今回は外でもそれらしい魔獣が目撃されてるでしょ? もし本当に外へ出ているなら、迷宮の中を調べている間に、もっと遠くへ移動しちゃうかもしれない」
それに、迷宮内部を本格的に調査するとなれば、相応の準備が必要になる。前回はガルドやフリーダたちと一緒に奥まで進んだけれど、それでも決して簡単な調査ではなかった。
今のギルドには、以前と同じ規模の調査隊を編成できるだけの余裕もない。限られた人数で動く以上、まずは目撃情報のあった場所を確認する方が合理的だと思った。
「なるほどな。だったら、目撃情報のあった場所を中心に調べるか」
バルザックは頷き、地図に記された印を指差した。
「北側の森で二件、南東側でも似たような報告がある。全部を一度に回るのは難しいだろうが、まずは北側から確認してくれ」
「分かった」
「それと、危険だと判断したら無理はするな。母巣獣を見つけても、討伐を強行する必要はない」
バルザックは念を押すように言った。
「今は情報が足りん。お前たちまで戻ってこられなくなったら、調査どころじゃなくなる」
その言葉には、ギルド長としての切実さが滲んでいた。
ただでさえ冒険者が不足している状況だ。ここで熟練冒険者を失えば、残された依頼を処理することさえ難しくなるだろう。
「うん。ちゃんと戻ってくるよ」
私が答えると、バルザックは少しだけ表情を緩めた。
「頼んだぞ」
◇ ◇ ◇
調査への参加をお願いすると、フリーダとクルシュはすぐに了承してくれた。
二人とも最近は新人冒険者の指導や通常依頼で忙しくしていたけれど、迷宮周辺で異変が起きていることは既に耳にしていたらしい。
「ったく、またあの迷宮かよ。前に片づけたと思ったんだけどな」
フリーダは腕を組み、呆れたように息を吐いた。
「前回と同じ異変とは限りませんが、調べる必要はありそうですね」
隣に立つクルシュは、いつも通り穏やかな口調だった。
「そうなんだよね。母巣獣が原因だと思うけど、まだ確認できてないから」
「だったら、さっさと行って確かめりゃいい。ここで考えてたって分かんねえだろ」
フリーダはそう言って笑った。
相変わらず頼もしい人だと思う。彼女は槍を使う前衛の冒険者で、私よりもずっと長く実戦を経験している。以前の迷宮調査でも、危険な場面では何度も助けられた。
クルシュも、蔦を使った拘束魔法や支援魔法を得意としている。二人が一緒なら、多少の魔獣に遭遇しても落ち着いて対応できるはずだった。
シエラにも声を掛けると、彼女は短く頷いた。
「私も行く」
「ありがとう、シエラ。助かるよ」
「森の調査なら、役に立てる」
シエラは斥候としての能力が高く、魔獣の痕跡を追うことにも慣れている。今回のように広い森を調べるなら、彼女の存在は欠かせないだろう。
そして、もちろんタクマも一緒だ。
「前回は俺だけ別の仕事だったからな。今回は一緒に行くよ」
「うん。よろしくね」
以前の迷宮調査では、タクマは隊商の護衛依頼を受けていたため、私たちは別々に行動していた。あの時はまだ、タクマが今ほど剣を扱えるようになる前だったけれど、ボーマンとの修行を終えた今の彼なら、迷宮周辺にいる魔獣とも十分に戦えるはずだ。
もちろん、無理をしてほしいわけではない。それでも、彼が隣にいてくれることは、私にとって大きな安心につながっていた。
「それじゃ、準備ができたら出発しようか」
「おう。あたしはいつでも行けるぜ」
フリーダが槍を肩に担ぎ直した。
私たちは必要な装備と食料を確認し、迷宮周辺の森へ向かうことにした。
◇ ◇ ◇
迷宮のある森へ入って間もなく、シエラが足を止めた。
「……静か」
彼女は周囲を見回しながら、短く呟いた。
「静か?」
「うん。鳥が少ない」
言われてみれば、確かにそうだった。
頭上では木々の葉が風に揺れ、枝の擦れ合う音が響いている。けれど、普段なら聞こえてくるはずの鳥の鳴き声がほとんどない。時折、遠くから何かが茂みを揺らす音が聞こえるものの、その正体を確かめることはできなかった。
森の様子は時間帯や天候によっても変わる。だから、鳥が少ないというだけで異変だと断定することはできない。それでも、普段から森を歩き慣れているシエラが気にしているのなら、何か理由があるのだろう。
彼女は少し先へ進むと、地面にしゃがみ込んだ。
「足跡が多い」
私たちも近づいて確認すると、湿った土の上にいくつもの足跡が残っていた。
小型の魔獣のものと思われる足跡が重なり合い、場所によっては地面が踏み荒らされている。さらに、その中には大型の魔獣が通ったような深い跡も混じっていた。足跡の形も一種類ではなく、爪のあるものや蹄のような形をしたものなど、さまざまな種類が見て取れる。
「こりゃ、ずいぶん通ってるな」
フリーダが地面を覗き込んだ。
「この辺り、こんなに魔獣が多かったっけ?」
「いえ、以前はここまで多くなかったはずです」
クルシュが答える。
私も頷いた。
前回の迷宮調査では、森を抜けて迷宮へ向かったけれど、その時はこれほど多くの痕跡を見かけなかった。もちろん、当時は迷宮内部の異変が主な問題だったから、森の様子を詳しく調べていたわけではない。それでも、これだけ大量の足跡があれば、さすがに気づいていたと思う。
「それに、これ……」
シエラが地面を指差した。
「迷宮から外へ向かってる」
私は足跡の向きを確認した。
確かに、迷宮のある方向へ進んだものだけではなく、反対側へ向かっているものも多い。しかも、同じ方向へ進んだ足跡が何重にも重なっており、相当な数の魔獣がここを通ったことが分かる。
迷宮から魔獣が出てきているのだろうか。それとも、森の中で増えた魔獣が、餌や縄張りを求めて移動しているのだろうか。
どちらにしても、良い兆候とは思えなかった。
「……もう少し奥まで行ってみよう」
私がそう言うと、シエラは頷き、再び先頭を歩き始めた。
それからしばらく進んだところで、最初の魔獣に遭遇した。
木々の間から姿を現したのは、小型の獣型魔獣だった。
一体だけなら、それほど危険な相手ではない。けれど、続いて茂みの奥から次々と同じ種類の魔獣が現れ、気づけば十数体が私たちの前に集まっていた。
「……多いな」
タクマが剣を抜きながら呟いた。
「普通、こんなに群れる種類じゃないんだけどね」
私は魔獣たちを観察した。
小型の魔獣は、普段なら数体程度で行動することが多い。人間を見つければ逃げる個体もいるし、これほど大きな群れを作ることは珍しかった。
けれど、目の前の魔獣たちは明らかに興奮していた。互いに体をぶつけながら唸り声を上げ、こちらへ向かってくる。口元からは唾液が垂れ、地面を引っかく爪の動きにも落ち着きがない。
「来るぞ!」
フリーダの声と同時に、先頭の魔獣が飛びかかってきた。
タクマが一歩前へ出て、その攻撃を剣で受け流す。魔獣の体が横へ流れたところへ、彼は素早く剣を振り下ろした。
続いて別の魔獣が横から襲いかかろうとしたけれど、フリーダの槍が鋭く突き出され、その動きを止める。
「クルシュ、右を頼む!」
「分かりました!」
クルシュが魔法を発動すると、地面から伸びた蔦が魔獣たちの足に絡みついた。動きを封じられた魔獣たちは激しく暴れたけれど、蔦はその動きに合わせて絡みつき、簡単には抜け出せない。
私はその隙に小規模な攻撃魔法を放ち、まとめて仕留めた。
戦闘は長く続かなかった。
十数体の魔獣が相手でも、今の私たちなら十分に対応できる。前衛のタクマとフリーダが魔獣の突進を防ぎ、クルシュが動きを封じる。私はその隙を狙って魔法を使えばいいし、シエラも周囲を警戒しながら、群れから離れて回り込もうとする魔獣を確実に仕留めていた。
けれど、倒した魔獣を見下ろしながら、私は妙な違和感を覚えていた。
「……なんだか、変だね」
「何がだ?」
タクマが尋ねた。
「この魔獣たち、ちょっと興奮しすぎてる気がするの」
私は倒れた魔獣の一体に近づき、その様子を確認した。
外見に目立った異常はない。体の大きさも普通だし、魔力が異常に強くなっているわけでもなさそうだった。
けれど、先ほどまでの行動は、通常の魔獣とは明らかに違っていた。
こちらの戦力を見極めることもなく、逃げることもせず、ただ一斉に襲いかかってきた。まるで、何かに追い立てられているようにも見えた。
「母巣獣の影響でしょうか?」
クルシュが尋ねた。
「まだ分からない。でも、可能性はあると思う」
母巣獣は周囲の魔獣の増殖を促す性質を持っている。ただし、その影響がどのような形で現れるのかについては、まだ分かっていないことも多い。
魔獣の数が増えれば、餌や縄張りを巡る争いが激しくなることも考えられる。そうした環境の変化が、魔獣たちを興奮させているのかもしれなかった。
「……まだ来る」
シエラが森の奥を見つめながら言った。
「別の群れが近づいてる」
「マジかよ。いくらなんでも多すぎるだろ」
フリーダが顔をしかめた。
私は周囲の魔力を探ってみたけれど、確かに複数の反応が近づいてきているようだった。先ほどの戦闘で生じた音や魔力の動きを察知したのかもしれない。
ここで戦い続ければ、さらに別の魔獣を引き寄せてしまう可能性がある。
「迂回しよう。今日は戦うために来たわけじゃないから」
「賛成だ。無駄に消耗する必要はねえな」
フリーダは頷き、シエラに先導を任せた。
私たちは魔獣の群れを避けながら、さらに森の奥へ進んでいった。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎた頃、私たちは迷宮の北側に広がる森林へ到着した。
ここまでの間にも何度か魔獣と遭遇したけれど、可能な限り戦闘を避けて進んできた。それでも、森の様子がおかしいことは十分に分かった。
魔獣の足跡はどこにでも残っているし、普段なら人間を避けるはずの魔獣まで、こちらへ近づいてくる。さらに、場所によっては木の根元が掘り返され、地面の草が食い荒らされていた。
折れた枝や踏み荒らされた下草も目立つ。森の中を歩くたびに、以前とは違う場所へ迷い込んでしまったような感覚を覚えた。
魔獣の数が増えたことで、森の環境そのものが変わり始めているのかもしれない。
「……ちょっと待って」
私は足を止めた。
「どうした?」
タクマが振り返る。
「この辺り、魔力の流れが少し変なの」
私は周囲を見回しながら、魔力の感覚に意識を集中させた。
森の中には、さまざまな魔力が存在している。
植物にも魔力は宿っているし、魔獣たちもそれぞれ異なる魔力を持っている。さらに、この辺りは迷宮に近いため、地下から漏れ出してくる魔力も少なくない。
そのため、単に魔力が強い場所を探せばいいというわけではなかった。強い魔力を持つ魔獣がいるだけなら、特に珍しいことではないし、迷宮から漏れ出す魔力が周辺の環境に影響を与えることもある。
重要なのは、普段とは異なる魔力の流れを見つけることだ。
私は目を閉じ、周囲の魔力がどのように動いているのかを慎重に探っていった。
木々や草花に宿る穏やかな魔力。森の奥を動き回る魔獣たちの魔力。そして、地中の深い場所から微かに伝わってくる迷宮の魔力。
それらを一つずつ意識の中で区別していくと、少し離れた場所から、不自然な揺らぎが伝わってきた。
迷宮の方向ではない。
もっと北側の、森の奥だ。
「……あっちに、何かいる」
私は木々の向こうを指差した。
「魔獣か?」
「たぶん。でも、普通の魔獣とはちょっと違う感じがする」
シエラが私の指差した方向へ視線を向けた。
「見てくる」
「お願い。無理はしないでね」
「うん」
彼女は短く答えると、音もなく森の奥へ消えていった。
私たちはその場で待つことにした。
タクマとフリーダが周囲を警戒し、クルシュもいつでも魔法を使えるようにしている。私は引き続き魔力の流れを調べていたけれど、先ほど感じた揺らぎは消えなかった。
むしろ、意識を集中させるほど、以前にも似たようなものを感じたことがあるような気がしてくる。
どこだっただろう。
そう考えているうちに、前回の迷宮調査で見た光景が頭に浮かんだ。
迷宮の奥。異常な数の魔獣。そして、その中心にいた母巣獣。
「……まさか」
私が小さく呟いた時、シエラが戻ってきた。
「見つけた」
「何を?」
「魔獣が集まってる場所。かなり多い」
私は思わず顔を上げた。
「その中心に、変わった魔獣はいなかった?」
「いた。見たことのないやつ」
やっぱり。
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
「……案内してくれる?」
「うん。でも、近づきすぎない方がいい」
シエラはそう言って、再び先頭を歩き始めた。
私たちは彼女の後を追い、森の奥へ進んでいった。
やがて、木々の間から少し開けた場所が見えてきた。
そこには、予想以上の数の魔獣が集まっていた。
小型の獣型魔獣だけではない。普段なら別々の場所に生息しているはずの種類まで、同じ場所に集まっている。
しかも、互いに争っている様子はほとんどなかった。
それぞれが落ち着きなく動き回りながらも、一定の範囲から離れようとしない。時折、魔獣同士が体をぶつけ合うことはあったけれど、激しい争いに発展する様子もなかった。
まるで、何かに引き寄せられているようだった。
私はその光景を見て、息を呑んだ。
「……いた」
群れの中心に、一体の魔獣がいた。
大きさは周囲の魔獣と比べても、それほど目立つものではない。けれど、その体から感じられる魔力は、ほかの魔獣とは明らかに違っていた。
周囲へ向かって、独特の揺らぎが広がっている。
私はその感覚を覚えていた。
以前、迷宮の奥で遭遇した母巣獣と同じものだった。
「……間違いない。母巣獣だよ」
私がそう告げると、フリーダが小さく舌打ちした。
「くそっ、本当にいやがったか」
「ええ。しかも、周囲の魔獣の数が尋常ではありませんね」
クルシュも険しい表情で魔獣たちを観察していた。
タクマは群れの様子を確認しながら、静かに尋ねた。
「あれを倒せば、魔獣の増殖は止まるのか?」
「少なくとも、あの母巣獣の影響はなくなるはずだよ」
「だったら、今ここで倒せないか?」
その言葉に、私は少し考え込んだ。
母巣獣そのものは、決して無敵の魔獣ではない。以前の迷宮調査でも、仲間たちと協力することで討伐できた。今の私なら、強力な攻撃魔法を使えば倒せる可能性は十分にある。
けれど、問題は周囲の魔獣だった。
目の前にいるだけでも相当な数がいる。さらに、森の奥からは新たな魔獣の気配が近づいてきているようだった。
ここで母巣獣を攻撃すれば、周囲の魔獣が一斉に襲いかかってくるかもしれない。木々の間で包囲されれば、逃げ道を確保することも難しくなるだろう。
「……やれなくはないと思う。でも、ちょっと危ないかも」
私がそう答えると、フリーダが頷いた。
「ああ。あたしもそう思う。母巣獣だけ狙って突っ込んだところで、周りから囲まれたら面倒だ」
「蔦で道を作ることはできますが、この数を相手に長時間拘束し続けるのは難しいでしょうね」
クルシュも慎重な意見だった。
私はもう一度、魔獣たちを見つめた。
範囲魔法を使えば、まとめて倒すことはできるかもしれない。けれど、ここは森の中だ。
火を使えば延焼する危険があるし、強力な爆発魔法を使えば、周囲の木々や地面にも大きな影響が出る。以前の迷宮で使ったような局所的な爆発なら、ある程度は被害を抑えられるかもしれないけれど、それでも周囲にいる魔獣すべてを確実に仕留められるとは限らない。
もちろん、魔法の種類や威力を調整すれば、被害を抑えることはできるだろう。それでも、周辺にどれほどの魔獣が潜んでいるのか分からない状況で、大規模な攻撃を仕掛けるのは危険だった。
「ここで無理をする必要はないと思う」
タクマが静かに言った。
「場所は分かったんだし、一度戻って準備を整えよう。今回は調査が目的だったんだろ?」
「……うん」
私は頷いた。
目の前に母巣獣がいるのに、そのまま帰ることには抵抗があった。
もし今ここで倒せば、少なくともこの周辺で起きている異変を抑えられるかもしれない。そう考えると、すぐにでも魔法を放ちたくなる。
けれど、母巣獣が一体だけとは限らない。
ここで無理をして、私たちが動けなくなってしまえば、ほかの場所を調べることもできなくなる。バルザックに情報を持ち帰ることさえできなくなれば、今後の対策にも支障が出るだろう。
何より、私たちは五人だけで森へ来ている。
自分の力を過信して、仲間たちを危険に晒すわけにはいかなかった。
「……分かった。今日は戻ろう」
「それがいい。討伐するなら、周りの魔獣をどうするかも考えてからだな」
フリーダがそう言って、槍を持ち直した。
私たちは母巣獣の位置を確認し、地図に記録した。そして、魔獣たちに気づかれないよう慎重にその場を離れた。
◇ ◇ ◇
帰り道、私は何度も森の奥を振り返りそうになっていた。
母巣獣が存在することは確認できた。それだけでも、今回の調査には大きな意味があったと思う。
けれど、実際に目の当たりにした魔獣の数は、私の想像を超えていた。
以前の迷宮調査では、母巣獣の影響は主に迷宮の内部に現れていた。あの時も異常な数の魔獣がいたけれど、少なくとも森の外へ影響が広がっている様子はなかった。
今回は違う。
迷宮の外にまで魔獣が増え、森の環境そのものが変わり始めている。餌を求めて地面を掘り返した跡や、踏み荒らされた下草を見れば、魔獣たちの活動が以前よりも活発になっていることは明らかだった。
もし、このまま増殖が続けば、周辺の街道や集落にも影響が出るだろう。
既にその兆候は現れているのかもしれなかった。
「……リカ?」
隣を歩いていたタクマが声を掛けてきた。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと考え事してただけ」
「さっきの母巣獣のことか?」
「そう。あの一体だけなら、まだ何とかなると思うんだけど……」
私はそこで言葉を止めた。
もし、ほかにも母巣獣がいたらどうなるのだろう。
前回は一体を討伐することで、迷宮の異変を収束させることができた。けれど、複数の母巣獣が別々の場所で活動しているなら、一体を倒しただけでは意味がない。
それぞれの個体を探し出し、討伐しなければならない。しかも、その間にも魔獣は増え続けるかもしれないのだ。
そんなことを考えていると、不意に周囲の魔力が揺らいだ。
「……待って」
私は足を止めた。
タクマたちも振り返る。
「どうした?」
「今、何か……」
私は森の奥へ視線を向けた。
先ほど母巣獣を発見した場所とは、まったく違う方向だった。
最初は、迷宮の内部から漏れ出している魔力かと思った。けれど、どうも違う。
迷宮はもっと南側にある。それなのに、今感じた揺らぎは、東側の森から伝わってきたように思えた。
私は目を閉じ、もう一度魔力の流れを探った。
周囲にはさまざまな魔力が存在している。その中から、先ほど感じた揺らぎを探し出すのは簡単ではなかった。
けれど、しばらく集中していると、微かな反応を捉えることができた。
「……似てる」
思わず呟いた。
「何がだ?」
フリーダが尋ねた。
「さっきの母巣獣と、魔力の感じが似てるの」
その言葉に、全員の表情が変わった。
「別の母巣獣がいるってことか?」
タクマが尋ねる。
「……まだ分からない。距離が遠いし、反応も弱いから」
私は首を振った。
先ほど発見した母巣獣と同じものなのか、別の原因による魔力の揺らぎなのか、今の段階では判断できなかった。
シエラが私の指差した方向を見つめる。
「調べる?」
私は少し迷った。
ここからさらに森の奥へ進めば、反応の正体を確かめられるかもしれない。けれど、既に日は傾き始めている。
周囲には多くの魔獣がいるし、夜になれば視界も悪くなる。シエラなら暗い森でも動けるだろうけれど、五人全員が安全に行動できるとは限らなかった。
「いや、今日はここまでにしようぜ」
フリーダが口を開いた。
「母巣獣が一体いることは確認できたんだ。それだけでも十分な成果だろ。これ以上無理して、夜の森をうろつく必要はねえ」
「そうですね。追加の調査は、改めて準備してからの方がいいと思います」
クルシュも賛成した。
私はもう一度、東側の森を見つめた。
あの魔力の揺らぎが何なのか、今すぐ確かめたい気持ちはある。けれど、今日の目的はあくまで調査だった。
母巣獣の存在を確認できたこと、そして別の場所にも異常な反応があるかもしれないこと。その情報を持ち帰り、バルザックに報告する必要がある。
「……うん。戻ろう」
私は頷いた。
シエラが再び先頭に立ち、私たちは森を抜ける道を進み始めた。
帰り道でも、何度か魔獣の気配を感じた。けれど、シエラの案内で危険な場所を避けながら進んだおかげで、大きな戦闘になることはなかった。
やがて木々の間から街道が見え始めた頃、私はもう一度だけ森の奥を振り返った。
そこには、いつもと変わらない緑の森が広がっていた。
遠くから眺める限り、何か異常が起きているようには見えない。風に揺れる木々も、葉の隙間から差し込む夕方の光も、いつもと変わらない穏やかな景色だった。
けれど、その奥には既に多くの魔獣が集まっている。
そして、私たちが確認できた母巣獣は、まだ一体だけだった。
もし、あの魔力の揺らぎが別の母巣獣によるものだったとしたら、今この瞬間にも、森の別の場所で魔獣が増え続けているのかもしれない。
私は胸の奥に広がる不安を感じながら、タクマたちの後を追った。
あの森の中で、今どれだけの魔獣が増えているのか。
その全体像を、私たちはまだ知らなかった。




