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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
聖女と英雄編

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第69話 西へ向かう荷車


「すみませんでした!」


 治療院に入るなり、私はマルタさんに向かって深々と頭を下げた。


 朝の診療が始まる少し前、薬草の匂いが漂う治療室には、すでに器具や包帯が整然と並べられていた。マルタさんは棚から取り出した薬瓶を確認していたところだったけれど、私の声を聞くと手を止め、こちらへ顔を向けた。


「……いきなり何だい。朝から大きな声を出して」


「この前のことです。せっかく仕事を任せてもらっていたのに、考え事ばかりして、ちゃんと集中できていませんでした。本当にすみません」


 顔を上げると、マルタさんはしばらく私を見つめていた。怒っているというより、私が何を言い出すのか確かめているような表情だった。


「それで、考え事の方は片付いたのかい?」


「全部解決したわけじゃありません。でも、今の私が悩んだところでどうにもならないことまで、一人で抱え込むのはやめました」


「そうかい」


 マルタさんは短く答えると、薬瓶を棚へ戻した。


「なら、もういいよ。あたしが怒ったのは、あんたが悩んでいたからじゃない。患者を前にして、別のことを考えていたからだ。そこを間違えるんじゃないよ」


「はい」


「それに、あんたが何を抱えているのか知らないけどね。ここへ来たからには、目の前の患者に集中してもらう。それができない日は、最初から休みな」


 厳しい言葉だったけれど、私は素直に頷いた。以前なら、何とか役に立とうとして無理にでも仕事を続けようとしたかもしれない。でも、患者さんを相手にする以上、私の都合で失敗するわけにはいかないのだ。


「それで、もう一つ相談があるんです」


「何だい。まだ何かやらかしたのかい?」


「違います!」


 思わず声を上げると、マルタさんは少しだけ口元を緩めた。


「実は、これからは治療院に来る日を、週に二回くらいにしようと思っているんです」


「ほう?」


「今までは時間があれば毎日のように通っていましたけど、私は冒険者でもありますから。依頼も受けたいし、魔法の研究も続けたいんです。もちろん、ここで教わったことを中途半端にするつもりはありません」


 マルタさんは腕を組み、少し考えるように天井へ目を向けた。


「別に、あんたを雇ってるわけじゃないんだから、毎日来る必要なんてないよ。そもそも、冒険者の仕事を放り出してまで通い詰めるとは思ってなかったしね」


「放り出していたわけじゃ……」


「似たようなもんだろう?」


 言い返せなかった。


 確かに、治癒魔法の可能性を知ってからというもの、私は暇さえあればここへ来ていた。新しい知識を得るのが楽しくて、気がつけばタクマに夕食の準備を任せてしまった日もある。もちろん、彼は嫌な顔一つせずに引き受けてくれたけれど、それに甘えてばかりいるのも違うと思う。


「週二回なら、来る日も決めておこうかね。あんたが来る日が分かっていれば、こっちも教える内容を考えられる」


「それなら、毎週決まった二日に通うことにします。急な依頼が入った時は、必ず連絡しますから」


「構わないよ。ただし、来る日が減ったからって、教えることまで減らすつもりはないからね」


「はい! ありがとうございます!」


「礼を言うのはまだ早いよ。ほら、さっそく仕事だ」


 そう言ってマルタさんは、私の前に一冊の古びた帳面を置いた。


「まずは前回診た患者の経過を確認するよ。どんな処置をしたか覚えているね?」


「もちろんです!」


 私は帳面を開き、書き込まれた症状と処置の記録に目を通した。


 こうして、私の治療師としての修行は、少しだけ形を変えて続くことになった。


     ◇


 その日の治療院は、いつもと変わらない忙しさだった。


 朝一番にやって来たのは、仕事中に手を切ったという職人の男性だった。傷はそれほど深くなかったけれど、木屑が入り込んでいたため、私はマルタさんの指示に従って丁寧に洗浄し、傷口の状態を確認した。


「すぐに魔法で塞いじゃ駄目なんですよね」


「そういうことさ。汚れを残したまま塞いだら、後で面倒なことになる。魔法が使えるからって、何でも簡単に済ませようとするんじゃないよ」


「はい」


 以前の私なら、傷口を見た瞬間に治癒魔法を使っていただろう。実際、それで問題なく治ってしまうことも多い。でも、タクマが怪我をした時のことを思い出すと、そんな考え方がどれほど危ういものだったのか、今ならよく分かる。


 あの時、私は傷を治したつもりでいた。目に見える傷口は塞がり、出血も止まったのだから、もう大丈夫だと思っていたのだ。ところが翌日、タクマは高熱を出して寝込んでしまった。傷口が塞がったことと、体の中で起きている問題が解決したことは、必ずしも同じではない。その事実を、私は彼の苦しむ姿から学ぶことになった。


 もちろん、治癒魔法そのものが役に立たないわけではない。適切に使えば、普通なら何日もかかる怪我を短時間で治すことができるし、出血を抑えることだってできる。ただ、それを安全に使うためには、患者の状態を正しく理解しなければならないのだ。


 私は洗浄を終えた傷口をもう一度確認し、マルタさんの許可を得てから、ごく弱い治癒魔法を使った。皮膚がゆっくりと再生していくのを見届け、最後に清潔な布で保護する。


「うん。悪くないね」


 マルタさんの評価に、私は思わず顔をほころばせた。


「でも、次からは傷の周りもよく見な。赤く腫れているところがあっただろう?」


「あっ……」


「見落としたからって、すぐに大事になるわけじゃない。でも、そういう小さなことを見逃さないのが治療師の仕事だよ。傷だけ見て満足してちゃ駄目なんだ」


 私は慌てて帳面に書き込んだ。


 魔法学院にいた頃、私は魔法式の構造を理解することなら誰にも負けない自信があった。複雑な術式を組み上げ、魔核の出力を効率よく利用することに関しては、今でも相当な腕前だと思っている。けれど、治療院で求められるのは、魔法の腕前だけではなかった。


 患者の顔色や呼吸、傷の状態を観察し、何が必要なのかを判断する。同じように見える傷でも、怪我をしてからどれほど時間が経っているのか、どんな場所で負ったのかによって注意すべきことが変わる。そうした知識と経験については、私はまだまだ駆け出しだった。


 それが悔しくもあり、同時に楽しくもあった。知らないことを一つ覚えるたびに、今まで見えていなかったものが少しずつ見えるようになる。魔法の研究とはまた違った面白さが、ここにはあるのだ。


 昼前になると、いつも薬品を届けに来る商人が顔を出した。中年の男性は荷物を下ろしながら、マルタさんに申し訳なさそうな顔を向ける。


「すみません、次の納品なんですが、少し遅れるかもしれません」


「何だい。品物が足りないのかい?」


「品物はあるんですがね。最近、西へ向かう荷がやたらと増えてまして。荷車も御者も、そっちに取られちまうんですよ」


「西?」


「ええ。軍の注文らしいですよ。食料だの薬品だの、ずいぶんな量を運んでるみたいで」


 マルタさんは眉をひそめた。


「戦争でも始まるのかい?」


「いや、まだそこまでは。ただ、向こうの国が揉めてるでしょう? 大公国も国境を固めるんじゃないかって話です」


 私は包帯を畳んでいた手を止めた。


 向こうの国というのがマリアベルを指していることは、すぐに分かった。父がフェルディナントを新しい王太子に指名し、それを認めなかったハインリヒ兄様が西部で王を名乗った。国が二つに割れたという知らせは、遠く離れたノヴァグラードにもすでに届いている。


「まったく、偉い連中が揉めると、こっちの商売まで振り回されるんだから困ったもんですよ」


 商人はそうぼやきながら、空になった木箱を抱えた。


「それで、次はいつ届くんだい?」


「いつもより二、三日遅れるかもしれません。なるべく急がせますが」


「必要な薬まで切らしたら困るよ。足りなくなりそうなものは、先に頼んでおいた方がよさそうだね」


「ええ、そうしていただけると助かります」


 二人は納品の予定を確認し、商人は何度か頭を下げて帰っていった。


 今のところ治療院の仕事に支障が出ているわけではない。棚には薬品も包帯も十分に揃っているし、患者の数が急に増えたということもなかった。それでも、普段なら当たり前に届くものが遅れるかもしれないという話は、少し気になる。


「リカ、手が止まってるよ」


「あっ、すみません!」


 マルタさんの声に、私は慌てて包帯を畳む作業へ戻った。


「気になる話なのは分かるけどね。今はこっちの仕事を片付けな」


「はい」


 マリアベルで何が起きているのかは知っている。でも、ここで私が考え込んだところで、薬品が早く届くようになるわけでも、父や兄たちの問題が解決するわけでもない。


 以前のように何も手につかなくなるのは、もう嫌だった。今は目の前の仕事に集中して、ここで学べることを一つでも多く身につけよう。


     ◇


 午後の診療が落ち着いたところで、私はマルタさんに挨拶をして治療院を出た。


 通りへ出ると、少し離れたところにタクマの姿が見えた。建物の壁に寄りかかり、行き交う人々を眺めていた彼は、私に気づくと片手を上げた。


「お疲れ。今日はどうだった?」


「ちゃんと謝ってきたよ。それから、これからは週二回だけ通うことにしたの」


「そうか。マルタさん、何て?」


「来る日が減っても、教えることは減らさないって」


「いかにも言いそうだな」


 タクマが笑うので、私もつられて笑ってしまった。


「でも、これでまた一緒に依頼を受ける時間が増えるね」


「ああ。こっちも今日は掲示板を見てきたけど、面白そうな依頼がいくつかあったぞ」


「本当? どんなの?」


「それは後で見に行こう。先に買い物を済ませたいんだ」


 そう言って歩き出したタクマの隣に並び、私たちは街の中心部へ向かった。


 ノヴァグラードの通りは、いつも通り人で賑わっていた。市場からは威勢のいい呼び声が聞こえ、焼きたてのパンの匂いが風に乗って漂ってくる。露店の前では値段交渉をする客が声を張り上げ、子供たちが人の間を縫うように走り回っていた。


 そんな見慣れた風景の中で、今日は少しだけ違うものが目についた。


「あれ?」


 大通りの向こうから、何台もの荷車が続いてやって来る。


 一台や二台なら珍しくない。ノヴァグラードは交易の盛んな街だし、大きな商隊が通ることもある。でも、今日の荷車は妙に統一感があった。どの荷車にも同じような幌が掛けられ、側面には見慣れない印が描かれている。積み荷は木箱や樽が中心で、荷車の前後には武装した兵士らしい男たちが付き添っていた。


「軍の輸送隊かな?」


 私が呟くと、タクマも荷車へ目を向けた。


「たぶんな。あの印、大公国軍のものじゃないか?」


「そうみたい。何を運んでるんだろう」


「食料とか装備品じゃないか。ほら、あっちの荷車には槍の柄みたいなのが見えてる」


 よく見ると、幌の隙間から長い木製の棒が何本も突き出していた。別の荷車には頑丈そうな木箱が積まれ、兵士が周囲を警戒しながら歩いている。荷車を引く馬たちも重い荷物に苦労しているらしく、御者が時折声を掛けながらゆっくりと進ませていた。


 私たちは道の端へ寄り、荷車の列が通り過ぎるのを待った。


「ずいぶん多いね」


「ああ。しかも、これだけの荷を一度に運ぶってことは、行き先でまとめて使う予定があるんだろうな」


「行き先って、西の国境?」


「そう考えるのが自然だと思う」


 タクマは荷車の数を目で追いながら、少し考え込んでいた。


「軍が動くっていうと兵士のことばかり考えがちだけど、実際には食料も薬も装備も必要になる。人間だけ集めても、何日も活動できないからな」


「そうだよね。魔法が使える兵士だって、食べなきゃお腹が空くし」


「そういうこと。それに、これだけ物資を運ぶとなると、荷車や御者の手配だけでも相当な金が動いてるはずだ。普段の商売にも影響が出るだろうな」


 私は改めて荷車の列を眺めた。


 タクマは時々、私とは違ったところに目を向ける。魔法や魔道具の話になると私の方が詳しいけれど、物の値段や商売の仕組み、人が何を求めて動いているのかといった話では、彼の方がずっと鋭い。以前いた世界では人に家を売る仕事をしていたそうだけれど、こういう時にもその経験が役に立っているのだろう。


「大公国も、戦争の準備をしてるのかな」


「準備というより、備えだろうな。隣の国があんな状態なんだから、国境の守りを固めるのは当然だと思う」


「……そっか」


 私は小さく頷いた。


 マリアベルが二つに割れたことは、すでに知っている。父がフェルディナントを王太子に指名し、それを認めなかったハインリヒ兄様が西部で王を名乗った。王国の西部にいる領主たちの中には兄を支持する者もいるらしく、今はまだ大きな戦闘が起きていなくても、この先どうなるかは分からない。


 その話を聞いた時、私は遠く離れた故郷のことばかり考えていた。父は大丈夫だろうか、フェルディナントはどんな気持ちで王太子になったのだろうか。そんなことを考えては、何もできない自分に腹を立てていた。


 でも、こうして目の前を通り過ぎていく荷車を見ていると、あの国の問題がマリアベルだけで収まるものではないのだと分かる。国境の向こうで何かが起きれば、それに備えなければならない人々がいる。直接争いに関わっていない国でも、兵士を動かし、食料を集め、武具を運ばなければならないのだ。


 荷車の列はゆっくりと西へ進み、やがて大通りの向こうへ消えていった。


     ◇


 買い物を済ませる頃には、街のあちこちで似たような話を耳にするようになっていた。


「最近は軍からの注文が多くてねえ。ありがたい話だよ」


 食料品を扱う店の主人は、タクマにそう話していた。


「干し肉に小麦、豆なんかもよく売れる。まとめて買ってくれるから、こっちとしては大助かりさ」


「じゃあ、ずいぶん儲かってるんですね」


「まあな。ただ、運ぶ方が追いつかなくて困ってる。荷車を頼もうにも、いつもの業者が軍の仕事で手いっぱいなんだよ」


 主人は肩をすくめながら笑った。


 別の店では、いつもより仕入れ値が高くなったと店員がぼやいていた。軍が大量に買い付けるものは需要が増え、輸送に使う人手まで取られてしまうらしい。今のところ市場から品物が消えるほどではないけれど、普段通りに商売を続けるのが少しずつ難しくなっているようだった。


「何だか不思議だね」


 店を出たところで私が言うと、タクマは首を傾げた。


「何が?」


「戦争になるかもしれないって話なのに、嬉しそうな人もいるんだなって」


「商売だからな。注文が増えれば喜ぶ人もいるさ。もちろん、本当に戦争になったらどうなるかは別の話だけど」


「そうだよね……」


「それに、今はまだ国境を守るための準備だろうしな。大公国の軍だって、何か起きてから物資を集め始めたんじゃ遅い」


 タクマの言うことはもっともだった。


 マリアベルで起きていることを思えば、隣国が何の備えもしない方が不自然だろう。もし国境付近で争いが起きたり、逃げてくる人々が増えたりすれば、それに対応するための人員や物資も必要になる。兵士たちだって、戦いたくて準備をしているとは限らないのだ。


「でも、薬品まで軍に持っていかれちゃうと、治療院が困るんだよね」


「何かあったのか?」


「今日、薬を届けに来た商人さんが、次の納品は少し遅れるかもしれないって言ってたの。荷車が足りないんだって」


「なるほど。そっちにも影響が出始めてるのか」


「まだ困ってるわけじゃないけどね。マルタさんも、必要なものは早めに頼んでおくって言ってた」


 私は手に持った買い物袋を抱え直した。


 治療院で学ぶようになってから、薬品や包帯の大切さを以前より強く感じるようになった。魔法で何とかできることも多いけれど、そうではないこともたくさんある。患者を治すためには、治療師の腕だけでなく、必要な道具や薬品が揃っていることも大切なのだ。


 以前の私は、魔法さえ使えれば大抵のことは解決できると思っていた。けれど、実際に治療の現場へ入ってみると、そんな単純な話ではないと分かる。治療師がどれほど優秀でも、必要なものがなければできることは限られてしまう。


「さて、そろそろギルドに行くか」


 タクマがそう言って歩き出す。


「うん! さっき言ってた面白そうな依頼、見せてよ」


「ああ。ただ、ちょっと変わった依頼も増えてたから、そっちも見てみるといい」


「変わった依頼?」


「行けば分かるさ」


 妙にもったいぶった言い方をするので、私は彼の腕を軽く小突いた。


     ◇


 冒険者ギルドに入ると、いつもの賑やかな声が迎えてくれた。


 昼過ぎということもあって、依頼を終えて戻ってきた冒険者や、これから仕事へ向かう者たちが受付の前に集まっている。酒場の方からは笑い声が聞こえ、掲示板の前では数人の冒険者が依頼票を見比べていた。


 私たちもその中に混じり、掲示板へ目を向ける。


「……本当だ。護衛の依頼が多いね」


 普段なら魔獣討伐や採集依頼が目立つ場所に、今日は輸送護衛の依頼票が何枚も貼られていた。西方へ向かう商隊の護衛、街道沿いの魔獣排除、軍用物資の輸送補助。中には、数日間にわたって荷車に同行する仕事もある。


 もっとも、依頼票の大半はまだ通常の仕事だった。街の周辺に出没する魔獣の討伐や、森での薬草採集、行商人の護衛など、冒険者ギルドではお馴染みの内容が並んでいる。その中に、西方への輸送に関係する仕事が少しずつ増えてきたという印象だった。


「こっちは報酬が高いな」


 タクマが一枚の依頼票を指差した。


「確かに。普通の護衛依頼より少し高いかも」


「急いで人を集めたいんだろうな。輸送する荷が増えれば、それだけ護衛も必要になる」


「でも、軍の兵士が護衛すればいいんじゃないの?」


「全部を兵士だけで賄うのは難しいんじゃないか? 国境の警備にも人が必要だろうし、冒険者に任せられる仕事は任せたいんだと思う」


「なるほどね」


 確かに、荷車の護衛に兵士を何人も付ければ、その分だけ国境で働ける兵士が減ってしまう。街道の魔獣を追い払ったり、商隊に同行したりする仕事なら、冒険者でも十分に務まるだろう。


 私は別の依頼票に目を移した。


 そこには、軍用魔石の輸送という文字があった。


「ねえ、タクマ。軍用魔石って、何に使うんだろう?」


「魔道具じゃないか? 軍なら色々使い道がありそうだけど」


「うーん。どんな術式を使ってるのかな。普通の魔石と何か違うのかな……」


 思わず考え込んでしまう。


 魔石は魔道具を動かすための重要な材料だけれど、用途によって求められる性質も違う。大量の魔力を必要とするものもあれば、安定した出力を長時間維持することが重要なものもある。軍で使うとなれば、どんな魔法式が組み込まれているのか、少し興味がある。


 もちろん、軍用魔道具の中には機密扱いになっているものもあるだろう。魔法学院でも軍事利用を前提とした術式については、一般の学生が自由に閲覧できない資料があった。私自身、王家にいた頃の経験から、軍が魔法をどのように利用するのかについては複雑な思いがある。


 それでも、魔法そのものへの興味までなくなったわけではない。むしろ、どんな仕組みで動いているのかを知りたいという気持ちは、今でも変わらなかった。


「リカ、顔が研究者になってるぞ」


「だって気になるじゃない。軍用の魔道具って、普通はなかなか見られないんだよ?」


「気持ちは分かるけど、輸送の護衛を引き受けたからって、中身を調べられるわけじゃないからな」


「分かってるよ。それくらい」


 私が頬を膨らませると、背後から聞き慣れた声がした。


「何? 今度は軍の魔石にまで興味を持ったの?」


 振り返ると、エリナが呆れたような顔で立っていた。


「エリナ!」


「こんにちは、二人とも。依頼を探してるの?」


「うん。タクマと一緒に受けられる仕事がないかなって」


「そう。だったら、あまり遠くまで行く依頼は勧めないわよ。最近は西方へ向かう護衛依頼が増えてるけど、戻ってくるまで時間がかかるものも多いから」


「そうなんだ」


「それにしても、リカが魔石の話をしてると、どうしてもこの前のことを思い出すのよね」


 エリナは私を見ながら、わざとらしくため息をついた。


「討伐四体って言ったのに、魔石を十五個も持ってきた人がいたでしょう?」


「だから、あれは四頭分だってば!」


「分かってるわよ。でも、魔石を砕くほどの魔法を使うなんて、普通は考えないからね?」


「ちょっと威力の調整を間違えただけだよ」


「ちょっと?」


 エリナの目が細くなる。


 隣ではタクマが笑いを堪えていた。


「タクマまで笑わないでよ!」


「いや、悪い。でも、あれはさすがに驚いたからな」


「もう!」


 私は二人を睨んだけれど、エリナは楽しそうに笑うばかりだった。


 先日のアーマーボア討伐では、久しぶりに思い切り魔法を使うことができた。タクマが前衛として魔獣を引きつけてくれたおかげで、私は新しく組み上げた指向性爆裂魔法を試すことができたのだけれど、結果として魔獣の魔石まで砕いてしまったのだ。


 四頭の魔獣を討伐したのに、回収した魔石は破片も含めて十五個。エリナが驚くのも無理はないけれど、私としては少し納得がいかない。魔石を壊したかったわけではなく、単に魔法の威力が予想以上だっただけなのだから。


「まあ、無事に帰ってきたんだからいいけどね。次はもう少し穏やかに討伐してきてちょうだい」


「努力します……」


「そこは約束してほしいんだけど」


 そんなやり取りをしていると、受付の方からエリナを呼ぶ声が聞こえた。


「あ、いけない。戻らなきゃ」


 エリナは振り返りかけてから、ふと思い出したように足を止めた。


「そういえば、最近はマリアベル方面から来る冒険者も少し増えてるみたいよ」


「マリアベルから?」


「ええ。詳しい事情までは聞いてないけど、向こうの情勢が落ち着かないから、こっちで仕事を探そうって人もいるんじゃないかしら」


 私は思わずタクマと顔を見合わせた。


 マリアベルにも冒険者ギルドはあるし、普段から国をまたいで活動する冒険者は珍しくない。けれど、わざわざこの時期に移ってくる人が増えているのだとすれば、やはり王国の混乱が関係しているのだろうか。


「今はまだ大した人数じゃないけどね。登録の手続きについて聞かれることも増えたし、しばらくはこういう状況が続くのかもしれないわ」


「そっか。ありがとう、エリナ」


「どういたしまして。それじゃ、二人とも依頼を決めたら受付に来てね」


 エリナはそう言い残し、忙しそうに受付へ戻っていった。


 私はもう一度、掲示板を眺めた。


 依頼票の枚数は、以前とそれほど変わらないように見える。でも、そこに書かれている内容は少しずつ変わり始めていた。西へ向かう荷車が増え、護衛の仕事が増え、そしてマリアベルから冒険者がやって来る。


 どれも小さな変化だけれど、全部が無関係というわけではないのだろう。王国の分裂という大きな出来事が、こうして街の仕事や人の流れにまで影響しているのだ。


「さて、どうする?」


 タクマに尋ねられ、私は顔を上げた。


「今日はもう遅いし、明日受ける依頼を決めて帰ろうか」


「そうだな。近場の討伐依頼なら、朝から出れば夕方には戻れるだろう」


「うん。それがいい!」


 私は掲示板の中から、街の近くで受けられる魔獣討伐の依頼を探し始めた。


     ◇


 森の家へ戻った頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。


 買ってきた食材を台所へ運び、タクマと二人で夕食の支度をする。今日は市場で手に入れた肉と野菜を煮込むことにした。鍋から立ち上る湯気には香草の匂いが混じり、少しずつ家の中が温かくなっていく。


「そういえば、治療院は週二回にしたんだよな」


 野菜を切っていたタクマが、ふと思い出したように尋ねた。


「うん。毎週決まった二日に通うことにしたの。マルタさんとも約束してきたよ」


「じゃあ、それ以外の日は冒険者の仕事か?」


「そうだね。もちろん、魔法の研究もしたいし、たまにはのんびりしたいけど」


「それなら、依頼の予定も立てやすくなるな」


「でしょ?」


 私は鍋をかき混ぜながら笑った。


 今までは、治療院へ行くこと自体が楽しくて、つい毎日のように通ってしまっていた。でも、私は治療師になりたいから冒険者を辞めるつもりはないし、魔法の研究をやめるつもりもない。


 魔法学院にいた頃から、興味を持ったことにはとことん取り組んできた。新しい魔法式を思いつけば、納得できるまで研究を続けたし、冒険者になってからも未知の魔法や魔道具を見つけるたびに夢中になってしまう。そんな私だからこそ、治療という新しい分野にもすっかりのめり込んでいたのだろう。


 けれど、今の私にはタクマとの生活がある。一緒に冒険へ出かけ、食事を作り、くだらない話をしながら過ごす時間も、研究と同じくらい大切だった。何か一つを選んで他を諦めるのではなく、少しずつでも全部を続けていけたらいいと思う。


「それにしても、今日は荷車が多かったね」


 夕食の席で私がそう言うと、タクマは頷いた。


「ああ。しばらくは増えるんじゃないか。国境の備えを固めるなら、食料も装備も相当な量が必要だろうし」


「マリアベルは、これからどうなるんだろう」


 口にしてから、私は少しだけ考え込んだ。


 父が何を考えているのか、ハインリヒ兄様がどこまで本気なのか、私には分からない。フェルディナントが王太子になったことで、事態が落ち着く可能性だって、まだ残っているのかもしれない。


 でも、今日見た荷車の列を思い出すと、周囲の国々は決して楽観していないのだと感じる。大公国が国境の守りを固めているということは、それだけマリアベルの情勢を警戒しているのだろう。まだ戦争が始まったわけではないのに、すでに多くの人々がその可能性に備えて動き始めている。


「分からないな」


 タクマは静かに答えた。


「ただ、今すぐ戦争になると決まったわけじゃない。大公国だって、何も起きなければそれでいいと思ってるはずだ」


「……そうだよね」


「それに、リカが全部背負う必要はないだろう。お父さんも、そう言ってくれたんじゃなかったか?」


「うん」


 私は小さく頷いた。


 父から届いた手紙には、自分の道を選べと書かれていた。


 それがどれほど難しいことなのか、父自身が一番よく分かっているはずだ。国王として、家族として、きっと色々なものを抱えている。それでも、私に自由でいることを許してくれた。


 七年前、私は王宮を飛び出した。王女としての立場も、将来約束されていた生活も、すべて置いてきた。あの時はただ、自分の魔法を誰かの命令で人を傷つけるために使いたくなかっただけだったけれど、今ではそれだけが理由ではなくなっている。


 ノヴァグラードで暮らし、冒険者として働き、たくさんの人と出会った。そしてタクマと出会い、今はこうして二人で暮らしている。私が守りたいものは、もう王宮の中にはないのだ。


 だから、今の生活を大切にしたい。父やフェルディナントのことが心配でなくなったわけではないけれど、それを理由に自分の人生を諦めるつもりもなかった。


「明日は何を討伐するんだっけ?」


 少しだけ重くなった空気を変えたくて尋ねると、タクマは笑いながら答えた。


「森の外縁に出てる魔獣だよ。依頼票、ちゃんと見てただろ?」


「見てたよ! 確認しただけ!」


「そうか。じゃあ、今度は魔石を砕かないようにな」


「タクマまでそれ言うの!?」


 思わず声を上げると、彼はとうとう吹き出した。


 私だって、好きで魔石を砕いたわけじゃない。あの時は少しだけ魔法の威力を試してみたかっただけで、結果が予想より派手になってしまっただけなのだ。そもそも、あの魔法は威力を一方向へ集中させるために組み上げたもので、周囲への被害を抑えることだって考えていた。


 ……まあ、地面まで大きく抉ってしまったのだから、まだ改良の余地はあると思うけれど。


 食事を終えた私たちは、明日の準備を済ませてから、いつものように居間でくつろいだ。


 窓の外には静かな森が広がり、遠くで夜鳥の鳴く声が聞こえている。街の賑わいも、荷車の車輪が石畳を叩く音も、ここまでは届かない。家の中にいると、今日の街で見聞きした出来事が、少し遠いことのように感じられた。


 今日、ノヴァグラードの街を通り過ぎていった荷車は、今頃どこまで進んだのだろう。あの荷物が届けられる西の国境では、きっと多くの兵士たちが慌ただしく働いているのだと思う。食料を倉庫へ運び込み、武具を点検し、万が一に備えて準備を進めているのかもしれない。


 マリアベルの混乱は、遠く離れたこの街にも少しずつ影響を及ぼし始めていた。それが今後どれほど大きなものになるのか、私にはまだ分からない。


 それでも、明日になれば私はタクマと一緒に森へ出かける。魔獣を討伐し、依頼を終えて、またこの家へ帰ってくる。決まった日には治療院へ通い、マルタさんに叱られながら新しいことを学ぶだろうし、時間ができれば魔法の研究にも取り組みたい。


 そんな毎日を、私はこれからも大切にしていきたかった。


 タクマが隣で小さく欠伸をしたので、私は彼の肩にそっと寄りかかった。彼は何も言わずに少しだけ姿勢を変え、私が寄りかかりやすいようにしてくれる。


「ねえ、タクマ」


「ん?」


「明日は、ちゃんと魔石を四つ持って帰るからね」


「討伐する数によるだろ、それ」


 もっともな返事に、私は思わず笑ってしまった。


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