第67話 帰れない理由
翌朝、私はいつもどおりマルタの治療所へ向かった。
昨夜はあまりよく眠れなかった。眠ろうと目を閉じるたびに、父から届いた手紙や、アルフォンスが記した報告の内容を思い出してしまったのだ。ヴィルヘルム兄様の死、ハインリヒ兄様への疑惑、そして王国の分裂。昨日まで知らなかったことが一度に押し寄せてきて、何から考えればいいのかさえ分からなくなっていた。
それでも、朝になれば少しは気持ちが落ち着くだろうと思っていた。父は私に自分の道を歩めと言ってくれたし、タクマも、無理に王宮へ戻る必要はないと言ってくれた。私自身、今の暮らしを捨てるつもりはない。昨日の帰り道には、これからも自分の選んだ生活を続けようと、確かにそう思ったのだ。
だから今日も、いつもどおりに過ごせばいい。
治療所へ行って、患者の診察を手伝って、マルタから新しいことを教わる。そうして一日を過ごしていれば、少しずつ気持ちも落ち着いてくるはずだった。
「おはようございます、マルタ!」
私は努めて明るい声を出し、治療所の扉を開けた。
「おはよう、リカ。……ずいぶん早いね」
「はい! 昨日教えてもらう予定だった薬草の調合、今日こそ覚えたいと思って!」
「……そうかい」
マルタは私の顔をしばらく見つめていた。いつもなら、ここで何か一言返してくれるのだけれど、今日は特に何も言わず、棚の方へ視線を向けた。
「じゃあ、先に薬草の整理を頼むよ。昨日届いた分がまだ片づいてないからね」
「分かりました!」
私は荷物を置き、薬草棚へ向かった。
乾燥させた薬草を種類ごとに分け、残量を確かめながら所定の場所へ収めていく。最近は保存状態の見分け方も教わっているので、色や香りに変化がないか確認することも忘れない。種類によっては湿気を嫌うものもあれば、乾燥させすぎると効き目が落ちるものもある。魔法を使わない治療には、こうした細かな知識が欠かせないのだ。
作業自体は難しくなかった。何度も繰り返しているので手順も覚えているし、マルタに確認しなくても大抵のことはできるようになっていた。
けれど、棚の奥へ薬草を収めようとした時、ふと昨日の手紙を思い出した。
ハインリヒ兄様が、ヴィルヘルム兄様を殺したかもしれない。
アルフォンスは決定的な証拠はないと書いていた。それでも、父が王太子の指名を変えるほどの疑いがあるという。あの慎重な父が、実の息子を後継者から外す決断を下したのだ。
もし本当なら、どうして兄様はそんなことをしたのだろう。王位が欲しかったからなのか、それともヴィルヘルム兄様との間に、私の知らない何かがあったのだろうか。
「……リカ?」
「えっ?」
顔を上げると、マルタがすぐ隣に立っていた。
「その薬草、いつまで持ってるつもりだい?」
「あっ、ごめんなさい!」
私は慌てて手元を見た。取り出した薬草の束を持ったまま、随分長いこと考え込んでいたらしい。
「ちょっと考え事をしてて……」
「……そうかい」
マルタは棚の中を一度確かめると、それ以上は何も言わずに診察室へ戻っていった。
私は小さく息を吐き、作業を再開した。
大丈夫。少し気が散っただけだ。仕事をしていれば、きっと余計なことを考えずに済む。
◇
午前中、治療所には何人かの患者が訪れた。
最初は、仕事中に足を捻ったという若い職人だった。段差を踏み外したらしく、足首が少し腫れている。私はマルタの指示に従って痛みの場所や怪我をした時の状況を聞き取り、診断魔法で骨や周囲の組織を調べた。
骨折はなく、筋や靱帯に軽い損傷が見られる程度だった。私は確認した内容をマルタに報告し、彼女の指示を受けながら処置を進めた。痛みが引いたからといってすぐに無理をしてはいけないことも、忘れずに説明する。
患者は安心した様子で帰っていった。
次に訪れたのは、手の甲を切ったという女性だった。台所仕事の最中に刃物で切ってしまい、なかなか血が止まらなかったので心配になったらしい。
「いつ怪我をしたんですか?」
「今朝です。朝ご飯の支度をしている時に」
「そうですか。じゃあ、傷を見せてくださいね」
私は女性の手を取り、傷の状態を確認した。出血はすでに落ち着いており、傷口も比較的きれいだった。診断魔法で深さや異物の有無を調べたところ、幸い大きな問題は見つからなかった。
「マルタ、深いところまでは傷ついていないみたい。異物も見当たらないよ」
「そうかい。じゃあ、まずはきれいに洗っておこうか」
「はい」
私は清潔な水を用意し、傷口を丁寧に洗い始めた。
その間、女性は少し緊張が解けたのか、世間話を始めた。今朝の市場の混雑や、最近の野菜の値段について話した後、ふと思い出したように言った。
「そういえば、娘が昨日、西の国の王都で何かあったって話していたんですけど……」
「……西の国?」
思わず顔を上げた。
「ええ。商人の人たちが、王様が二人になったとか何とか言っていたそうで。詳しいことは知らないんですけどね。そんなこと、本当にあるんでしょうか」
私は女性の顔を見つめたまま、返事ができなかった。
マリアベルのことだ。
まだ大規模な戦闘は始まっていないと聞いていたけれど、王国が分裂したという話は、すでに商人たちを通じて広まり始めているらしい。
王様が二人になった。
女性は何気なくそう言ったけれど、私にとっては、父と兄が互いに王を名乗ることになったという意味だった。
「……リカ」
マルタの声で、私は我に返った。
「手元を見な」
「あっ……はい」
私は慌てて視線を戻した。幸い、傷口を洗っている途中だったので、処置を間違えたわけではない。けれど、患者の手を預かったまま、別のことを考えていたのは事実だった。
その後は余計なことを考えないよう意識し、マルタと一緒に処置を終えた。女性には傷口を清潔に保つことや、赤みや腫れが強くなった場合には再び診せに来ることを説明する。女性は何度も礼を言い、治療所を後にした。
その姿が扉の向こうへ消えると、マルタが私を呼んだ。
「リカ。ちょっとこっちへ来な」
「……はい?」
私は言われたとおり、診察室の奥へ向かった。
マルタは腕を組み、厳しい顔で私を見ていた。
「今日はもう帰りな」
「……え?」
思いがけない言葉に、私は聞き返した。
「でも、まだ午前中ですよ? 午後からは薬草の調合を教えてもらう予定でしたし、棚の整理もまだ全部は終わってなくて……」
「そんなことはどうでもいい。今日は帰るんだよ」
「……どうして?」
マルタは少しだけ眉をひそめた。
「本当に分からないのかい?」
私は答えられなかった。
確かに、今日は少し集中できていない。それは自分でも分かっている。けれど、診察も処置も間違えていないし、患者に迷惑をかけたつもりもなかった。
「……私、何か失敗しましたか?」
「失敗するまで待てっていうのかい?」
マルタの声が、一段厳しくなった。
「いいかい、リカ。患者は自分の身体をあんたに預けてるんだ。どんなに立派な魔法が使えても、目の前の患者を見ていなけりゃ意味がないんだよ」
「……でも、診察はちゃんと……」
「手順を間違えなかったから、それでいいと思ってるのかい? さっきの患者が話していたことを、あんたはどれだけ聞いていた? 傷の具合が気になって不安そうにしていたのに、途中から返事もしていなかったじゃないか」
私は唇を噛んだ。
確かに、女性が西の国の話を始めてから、私は自分のことばかり考えていた。処置の手順は覚えていたし、必要な確認もしたつもりだったけれど、患者が何を話していたのか、途中からほとんど覚えていない。
マルタはそんな私を見つめ、少しだけ声を落とした。
「何か事情があるんだろう。それを無理に聞くつもりはないよ。誰だって、仕事に身が入らない日はある。あんただけじゃない」
「……はい」
「でもね、ここはあんたが嫌なことを忘れるための場所じゃない。患者を診ている間は、その人のことを一番に考える。それができないなら、今日は休むべきなんだよ」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
マルタは、私が王女だったことを知らない。マリアベルの王位継承問題も、父や兄様たちのことも知らないはずだ。
それなのに、私が何かから目を背けようとしていることだけは、見抜いていた。
昨日、私は父の手紙を読んだ。自分の道を歩めと言われ、これからも今の暮らしを続けようと決めた。だから、今日もいつもどおり治療所へ来たのだと思っていた。
けれど、本当は違ったのかもしれない。
ここに来れば、患者のことを考えていれば、父や兄様たちのことを忘れられる。そんな期待が、どこかにあったのではないだろうか。
「……ごめんなさい」
私は小さく頭を下げた。
マルタはしばらく黙っていたが、やがて少しだけ表情を和らげた。
「別に、あんたを追い出したいわけじゃないんだよ。勉強したいなら、また来ればいい。ただし、ちゃんと患者の顔を見られるようになってからね」
「……はい」
「それに、あんた、今日は顔色もよくないよ。無理して来たって、覚えられるものも覚えられないだろう」
私はもう一度頭を下げ、治療所を後にした。
◇
外へ出ると、まだ昼前だった。
いつもなら、この時間は治療所で患者の診察を手伝っている。午後になれば薬草の調合を教わり、夕方までには帰宅する。そんな生活がすっかり当たり前になっていたので、急に予定がなくなると、何をすればいいのか分からなかった。
家へ帰ろうかとも思ったけれど、タクマは朝から依頼に出ている。今帰っても、家には誰もいない。
一人になれば、きっとまた昨日の手紙を読み返してしまうだろう。
私はしばらく街を歩いた。市場では商人たちが声を張り上げ、通りには荷車が行き交っている。どこかの店から焼きたてのパンの香りが漂ってきたけれど、あまり食欲は湧かなかった。
気づけば、私は冒険者ギルドの前に立っていた。
「……あれ?」
昨日も来たばかりなのに。
自分でも少し不思議に思った。何か依頼を受けたいわけでもないし、誰かと約束しているわけでもない。それでも、ここへ来れば何かすることが見つかるような気がしたのだ。
私は扉を開け、見慣れた喧騒の中へ足を踏み入れた。
受付へ向かうと、エリナがすぐに私に気づいた。
「あれ、リカ? 昨日も来てたよね?」
「うん。ちょっと暇になっちゃって」
「珍しいね。今日は治療所じゃないの?」
「……うん。今日はお休み」
「リカが?」
「……私が」
エリナは一瞬きょとんとした後、私の顔をじっと見つめた。
「……何かあった?」
「別に、大したことじゃないよ。ちょっと集中できなくて、マルタに休んでこいって言われちゃった」
「……そっか」
エリナは少し心配そうだったけれど、それ以上は聞いてこなかった。
「じゃあ、久しぶりに依頼でも探す? 今日は討伐依頼もいくつか残ってるよ」
「……そうだね。ちょっと見てみようかな」
私は掲示板の前へ向かった。
依頼は色々と貼り出されていた。街道の護衛、薬草の採取、魔獣の討伐、荷物の運搬。普段なら内容を見ただけで、大体の難易度や所要時間を判断できる。
けれど、今日はどうにも頭に入ってこなかった。
魔獣討伐の依頼書を読んでいると、ふと父の手紙を思い出す。
王国が分裂した。ハインリヒ兄様が国王を名乗り、西部の領主たちが兵を集め始めている。
もし戦争が始まれば、魔獣の被害とは比べものにならないほど多くの人が傷つくかもしれない。戦場で命を落とす兵士だけではなく、住む場所を失う人や、食べ物を手に入れられなくなる人も出るだろう。
そんなことを考えているうちに、私は依頼書から目を離していた。
結局、何も選ばないまま掲示板を離れ、ギルドの片隅にある席へ腰を下ろした。
◇
しばらくすると、何人かの冒険者が声をかけてきた。
「よう、リカ。久しぶりだな」
「あ、こんにちは」
声をかけてきたのは、以前マルタの治療所で診たことのある男性だった。冒険中に腕を怪我して訪れた人で、傷そのものはそれほど深くなかったものの、仕事を休まなければならないことを随分気にしていたのを覚えている。
「この前は助かったぜ。おかげで腕もすっかりよくなった」
「……あ、うん。よかったね」
「それでさ、今度また一緒に依頼でもどうだ? ちょっと厄介な魔獣が出てるらしくてな」
「うん、そうだね。……あれ? 腕、まだ痛むの?」
男性は目を丸くした。
「いや、だから治ったって言ったろ?」
「あっ……そうだったね。ごめん」
「……大丈夫か? 何か疲れてるみたいだけど」
「うん。ちょっと考え事してただけ」
男性は少し首をかしげたけれど、それ以上は追及せず、また今度声をかけると言って去っていった。
その後も、顔見知りの冒険者が何人か話しかけてきた。最近はどんな依頼を受けているのか、治療所での勉強はどうなのか、タクマとは相変わらず一緒に暮らしているのか。どれも普段なら楽しく答えられる話題だった。
けれど、今日は返事をするたびに、どこか遠くから自分の声を聞いているような気がした。
相手が何を話しているのかは分かる。質問の意味も理解できる。それなのに、返事を考えようとすると、別のことが頭に浮かんでしまうのだ。
やがて話しかける人がいなくなり、私は窓の外を眺めた。
昨日から、ずっと同じことを考えている。
ハインリヒ兄様が、ヴィルヘルム兄様を殺したかもしれない。
アルフォンスは決定的な証拠はないと書いていた。だから、まだ本当だと決まったわけではない。けれど、父はその疑惑を抱いたまま、ハインリヒ兄様を後継者から外した。
もし本当に兄様が犯人だったら、私はどうすればいいのだろう。
昔から野心的な人ではあった。王国の将来について熱心に話し、ヴィルヘルム兄様とは意見が対立することもあった。けれど、私にとっては兄だった。王宮で顔を合わせれば声をかけてくれたし、私が魔法の勉強に夢中になっていると、呆れながらも話を聞いてくれることがあった。
そんな兄が、もう一人の兄を殺したのだとしたら。
私は、その事実をどう受け止めればいいのか分からなかった。
王女であることは、七年前に辞めたつもりだった。王宮を飛び出し、冒険者として生きることを選んだ時、王家の都合に振り回される人生とは決別したつもりだった。
けれど、父の娘であることや、兄様たちの妹であることまで辞められるわけではない。
私は両手を組み、机の上へ視線を落とした。
王宮には戻りたくない。でも、父が心配だ。ハインリヒ兄様のことも気にかかるし、ヴィルヘルム兄様の死についても、何も分からないままでいたくない。
その一方で、今の暮らしを失うことは考えられなかった。
タクマと一緒に暮らし、冒険者として働き、マルタの治療所で勉強する。そんな毎日が、私は好きだった。
だからこそ、余計に苦しかった。
今の生活を大切にしたいと思うことが、遠い祖国で苦しんでいる家族から目を背けることのように感じられてしまう。
頭では違うと分かっているのに、気持ちだけがどうしても追いつかなかった。
◇
「……リカ?」
聞き慣れた声がして、私は顔を上げた。
タクマが立っていた。
「あ、タクマ。おかえり」
「ただいま。……どうしたんだ、こんなところで」
タクマは少し驚いたように私を見た。朝、彼が依頼へ出かける時には、私はいつもどおり治療所へ行くつもりでいたのだから、こんな時間にギルドで会うとは思っていなかったのだろう。
「今日は治療所じゃなかったのか?」
「……うん。マルタに帰れって言われちゃった」
「……何かあったのか?」
「別に。ちょっと集中できてなかっただけ」
私はできるだけ軽く答えたつもりだった。
けれど、タクマは私の顔を見つめた後、何となく事情を察したようだった。
「……そっか」
彼はそれ以上問い詰めず、隣の椅子へ腰を下ろした。
「少し休もうか」
「……タクマは、もう依頼終わったの?」
「ああ。今日はこれで終わり。さっき報告も済ませたよ」
「じゃあ、帰る?」
「リカが帰りたいならな」
私は返事ができなかった。
家へ帰りたくないわけではない。けれど、帰ってもまた昨日のことを考えてしまう気がした。だからといって、ここにいたところで何かが変わるわけでもない。
タクマはそんな私を見て、何も言わずに待ってくれた。
しばらく沈黙した後、私はぽつりと尋ねた。
「……ねえ、タクマ。家族って、何なんだろうね」
タクマは少し驚いたように私を見た。
けれど、すぐには答えなかった。
彼も、家族を遠い場所に残している。日本という、私たちの世界とは違う場所に。
「……難しいな」
しばらくして、タクマが言った。
「俺も、まだよく分からないよ」
「……タクマも?」
「ああ。俺は突然こっちに来たからさ。向こうの家族には、何も説明できてないんだ」
私は黙って頷いた。
タクマは以前から、日本に残してきた家族のことを気にしていた。いつか無事を知らせたいと言っていたこともある。けれど、帰る方法どころか、日本へ連絡する方法さえ、まだ見つかっていない。
「きっと、向こうじゃ大騒ぎになってると思う。俺がいなくなった理由なんて、誰にも分からないだろうし」
「……うん」
「でも、今の俺には帰る方法が分からない。だからって、こっちでの生活を全部投げ出して、帰る方法だけを探し続けるのも違うと思ってる」
タクマは少しだけ笑った。
「俺は今、リカと一緒に暮らしてるし、冒険者の仕事も楽しい。こっちでの生活が大事なんだよ」
「……うん」
「でも、それと日本の家族を心配する気持ちは別なんだ。どっちかを選んだから、もう片方がどうでもよくなるわけじゃない」
私はタクマの顔を見つめた。
どちらも、大事。
その言葉が、少しだけ胸に残った。
タクマは日本へ帰る方法が見つからないから、こちらで暮らしている。けれど、今の生活を大切にしているからといって、日本の家族を忘れたわけではない。
それは、私にも当てはまることなのかもしれない。
「……私ね。お父様が心配なの」
「うん」
「それに、ハインリヒ兄様のことも。もし本当にヴィルヘルム兄様を殺したんだとしたら、私、どうすればいいのか分からない」
「……そうだよな」
「でも、王宮には戻りたくない。今の生活を手放したくないの」
私は俯いた。
「……こんなの、わがままなのかな」
タクマは首を横に振った。
「俺はそうは思わないよ」
「……本当?」
「ああ。家族のことを心配するのと、家族の問題を全部背負わなきゃいけないって思うのは、別じゃないか?」
私は顔を上げた。
「……別?」
「うん。リカはお父さんのことを心配してる。でも、だからってリカが王国の問題を全部何とかしなきゃいけないわけじゃないだろ」
タクマは穏やかに続けた。
「それに、グスタフ陛下だって、リカには自分の道を歩いてほしいって書いてたんだろ?」
「……うん」
「だったら、今すぐ何かを決めなくてもいいと思う。心配なら心配してていいし、何かできることが見つかったら、その時に考えればいい」
私はしばらく黙っていた。
タクマの言うことは、たぶん正しい。
父のことを心配していても、王宮へ戻らなくていい。兄様たちのことが気になっても、今の暮らしを続けていい。その二つは、必ずしも矛盾していない。
けれど、頭では分かっていても、気持ちはなかなか追いつかなかった。
「……ありがとう、タクマ」
私は小さく笑った。
タクマも笑い返してくれた。
それでも、まだ胸の奥には重たいものが残っている。家族のことを考えるたびに、どうしようもない不安が湧いてくるのだ。
私は机の上に置いた自分の手を見つめ、もう一度小さく息を吐いた。
◇
しばらくして、タクマがふと思いついたように口を開いた。
「……なあ、リカ」
「ん?」
「明日、久しぶりに二人で依頼を受けないか?」
「……依頼?」
「ああ。できれば魔獣討伐がいいな」
私は思わず首をかしげた。
最近はタクマも一人で依頼を受けたり、フリーダやクルシュと組んで仕事をしたりすることが多かった。私の方は治療所に通い詰めていたので、二人で冒険に出かける機会は随分減っている。
けれど、どうして今、魔獣討伐なのだろう。
「……どうして?」
「こういう時は、身体を動かすのが一番だと思うんだよ」
タクマは少し笑った。
「魔獣相手に爆裂魔法でも叩き込んでやればいい。ちょっとはすっきりするぞ」
「……え?」
私は目を瞬かせた。
爆裂魔法?
今まで真面目に話していたのに、突然そんなことを言い出すなんて。
「最近、攻撃魔法を撃ってないだろ?」
「……そういえば」
私は少し考えた。
確かに、最近は治療所で回復魔法や診断魔法ばかり使っていた。家でも研究しているのは、治療や防御に関する術式が中心だ。
以前なら、新しい魔法の使い方を思いつくたびに森へ出かけ、色々と試していた。魔獣の討伐依頼を受ける時も、どんな術式が使えるか考えるのが楽しみだった。
けれど、最近はそういうことをほとんどしていない。
「最近のリカって、ずっと誰かのためのことばっかり考えてるだろ」
タクマは続けた。
「患者のためとか、俺のためとか。今度は家族のことまで心配してる」
「……うん」
「それが悪いって言ってるんじゃない。でも、ずっとそんなこと考えてたら疲れるよ」
私は黙ってタクマを見つめた。
「たまには頭を空っぽにして、好きなことやった方がいいんじゃないか?」
「……好きなこと」
「ああ。リカ、魔法が好きだろ?」
私は思わず笑ってしまった。
「……うん。大好き」
「だろ? だったら、久しぶりに思いきり使ってみようよ」
タクマは少しだけ楽しそうに笑った。
「俺も、最近リカの派手な魔法を見てないしな」
「……見たいの?」
「ああ。久しぶりに見たい」
私は少し考えた後、にやりと笑った。
「ふふ。じゃあ、すごいの見せてあげようか?」
「……周りの地形が変わらない程度で頼むよ」
「……そこは約束できないかな」
「おい」
思わず声を出して笑ってしまった。
タクマも呆れたように笑っている。
その顔を見ていると、胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
もちろん、マリアベルの問題が解決したわけではない。父のことも、兄様たちのことも、今でも心配だ。けれど、だからといって、私が好きなことを楽しんではいけない理由にはならない。
タクマは、きっとそのことを言いたかったのだろう。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「明日、どこに行こうか?」
「そうだな。せっかくだし、少し遠くまで行ってみるか?」
「いいね!」
私は立ち上がった。
「じゃあ、今から依頼を探そう!」
「……元気になったな」
「ふふ。だって、久しぶりに魔獣討伐だもん!」
タクマは笑いながら立ち上がり、私と一緒に掲示板へ向かった。
◇
依頼掲示板の前には、まだいくつかの討伐依頼が残っていた。
私は一枚ずつ内容を確認し、タクマと相談した。
街道近くに出没する魔獣の討伐もあったけれど、そこでは大規模な攻撃魔法を使いにくい。人通りが多い場所では、周囲への被害を考えなければならないからだ。
結局、私たちが選んだのは、街から少し離れた森に出没する魔獣の討伐依頼だった。
近くに集落はなく、依頼書にも周辺で確認された魔獣の数や行動範囲が記されている。もちろん、現地の状況を確認せずに大きな魔法を使うわけにはいかないけれど、少なくとも街道沿いの討伐依頼よりは自由に動けそうだった。
「これなら、少し派手にやっても大丈夫そうだね」
「……少し、な」
「分かってるって!」
私は依頼書を手に取り、受付へ向かった。
エリナは私たちを見ると、少し驚いた顔をした。
「あれ? リカ、依頼受けるの?」
「うん! 明日、タクマと二人で行ってくる!」
「……さっきまで、あんなにぼんやりしてたのに」
エリナは私の顔をじっと見つめた。
「何かあった?」
「ふふ。ちょっと魔法を撃ちたくなっちゃって」
「……何それ」
エリナは呆れたように笑った。
けれど、さっきまでの心配そうな表情は、少し和らいでいた。
「まあ、元気になったならいいけど。タクマ、あんまり無茶させないでね?」
「……努力するよ」
「ちょっと! 私、そんなに無茶しないよ!」
エリナとタクマは、そろって黙り込んだ。
「……二人とも、何か言ってよ!」
私が抗議すると、二人は顔を見合わせて笑い出した。
まったく、失礼なんだから。
でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
私は依頼の手続きを済ませ、明日の準備についてタクマと相談しながらギルドを出た。
◇
帰り道、私は久しぶりに攻撃魔法のことを考えていた。
どんな術式を使おうか。以前試した爆裂魔法を改良してみるのも面白いかもしれないし、風魔法と組み合わせて威力や爆発の広がり方を調整する方法も試してみたい。
もちろん、周囲に被害が出ないように気をつける必要はある。魔獣の数や位置を確認し、タクマの動きを妨げないようにすることも大切だ。特に最近のタクマは前衛として随分頼もしくなっているので、彼の動きに合わせて魔法を使うことも考えなければならない。
けれど、そうしたことを考えるのも楽しかった。
魔法の仕組みを考え、術式を組み立て、実際に使ってみる。思いどおりに動かなければ原因を探し、別の方法を試す。私は昔から、そういう時間が大好きだった。
王宮にいた頃も、魔法の勉強だけは飽きることがなかった。学院で学ぶだけでは物足りず、自分で術式を考えては試していた。王女としての役割を求められることは嫌だったけれど、魔法を学ぶ時間だけは、誰にも邪魔されたくなかった。
そして、自由に魔法を使い、自分の足で世界を歩いてみたくて、私は王宮を飛び出したのだ。
最近は、少しだけそのことを忘れていたのかもしれない。
タクマの怪我をきっかけに治療魔法の研究を始め、マルタの治療所で患者を助けることに夢中になった。それは今でも大切なことだし、これからも勉強を続けたいと思っている。
マルタに今日帰されたことも、もう納得していた。患者の前で別のことを考えていたのは、やっぱりよくなかった。次に治療所へ行く時は、きちんと気持ちを整えてから行こうと思う。
けれど、魔法は誰かを助けるためだけのものではない。
私にとっては、使うことそのものが楽しいものでもある。
新しい術式を思いつけば試してみたいし、今まで使えなかった魔法が使えるようになれば嬉しい。自分の力でできることが増えるたびに、世界が少し広がったような気がする。
そういう楽しさを、私はずっと大切にしてきた。
タクマは、きっとそのことを思い出させてくれたのだろう。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「明日、どんな魔法を使おうかな?」
「……普通に倒してくれれば十分なんだけどな」
「ふふ。せっかくだから、新しいのを試してみたい!」
「……ほどほどにな」
私は笑いながら、タクマの手を握った。
王国のことを考えれば、今でも胸が苦しくなる。父のことも、二人の兄様のことも、簡単に忘れられるはずがなかった。明日になっても、きっと心配する気持ちは消えないだろう。
けれど、私は王女である前に、一人の冒険者だ。
魔法が好きで、知らない場所へ行くのが好きで、自分の力を試すことが楽しくて、そういう人生を送りたくて王宮を飛び出した。
今の私には、タクマがいる。一緒に冒険して、一緒に笑って、帰る場所を分かち合える人がいる。私が何かを抱え込んでいる時には、こうして隣に座り、思いがけない方法で元気づけてくれる。
だから、明日は久しぶりに思いきり冒険を楽しもう。
もちろん、魔獣討伐の依頼だから、油断はできない。周囲への被害にも気をつけなければならないし、タクマと連携することも大切だ。
でも、それを含めて、私は冒険が好きなのだ。
私は隣を歩くタクマを見上げ、もう一度笑った。
明日が、少し楽しみになった。




