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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
聖女と英雄編

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第66話 父王の決断


 冒険者ギルドを訪れるのは、ずいぶん久しぶりだった。


 別に避けていたわけではない。ただ、マルタの治療所で覚えることがあまりにも多く、気づけば毎日の予定がそちらで埋まっていただけだ。朝から患者の診察を手伝い、空いた時間には薬草の調合を教わり、家へ帰ってからも新しい術式について考える。そんな生活を続けているうちに、いつの間にかひと月以上が過ぎていた。


 冒険者を辞めるつもりはないし、依頼を受ける気がなくなったわけでもない。けれど、ギルド長からわざわざ呼び出されたとなると、さすがに少し気まずかった。


「……やっぱり、怒られるのかな」


「まだ気にしてたのか?」


 隣を歩いていたタクマが、呆れたように笑った。


「だって、バルザックから呼び出されるなんて珍しいんだもん。何か大きな依頼があるなら、普通はエリナから連絡が来るでしょ?」


「まあ、そうだな。でも、話があるってだけなんだから、行ってみないと分からないよ」


「……うん」


 タクマはいつもどおり落ち着いている。彼はこのひと月も冒険者として活動していたから、ギルドに来ること自体は珍しくない。フリーダやクルシュと組んで依頼を受けたり、商人から指名された護衛の仕事をこなしたりと、むしろ以前より忙しくしているくらいだった。


 それに比べて私は、最近のギルドの様子すらよく知らない。


 少し反省しながら建物の扉を開けると、見慣れた喧騒が耳に飛び込んできた。掲示板の前で依頼を選ぶ冒険者たち、報酬の分配について話し合う一団、受付で職員と相談している若い男女。朝のギルドは相変わらず賑やかで、私がしばらく来なかったからといって、何かが変わった様子はなかった。


 そのことに少し安心して、私は受付へ向かった。


「エリナー!」


 書類を整理していたエリナが顔を上げた。


「あっ、リカ! 久しぶり!」


 エリナは嬉しそうに笑ったかと思うと、すぐにいたずらっぽい表情になった。


「最近また変なことやってるって、ギルドでも評判になってるよ!」


「変なことって……。勉強だよ、勉強!」


「私たちから見れば十分変なことだよ。A級冒険者が依頼も受けずに治療所へ通い詰めてるんだから」


「う……。でも、ちゃんと意味があるんだよ?」


「それは知ってるって。マルタさんの治療所、最近ちょっと評判なんだよ?」


「……そうなの?」


 思いがけない言葉に、私は聞き返した。


「うん。リカが診察を手伝ってるって話、冒険者の間でも広まってるよ。怪我をして行ったら、A級冒険者に診てもらえたって驚いてた人もいたし」


「ああ……。何人か知ってる人が来たけど、その人たちかな」


「たぶんね。それに、ちゃんと話を聞いてくれるから安心するって評判もあるみたい。リカ、もともと回復魔法も出来たけど、最近は随分丁寧に診てくれるんだって」


「それはマルタのおかげだよ。私、今まで知らなかったことがいっぱいあってね」


 私は思わず身を乗り出した。


「例えば、同じ傷でも原因によって処置が違うし、傷口を塞げばそれで終わりってわけじゃないの。あと、患者さんが普段どんな仕事をしてるか聞くのも大切で……」


「はいはい。分かった、分かった」


 エリナが笑いながら手を振った。


「ほら、そういうところだよ。ちょっと話を振っただけで、もう止まらなくなるんだから」


「……そんなに?」


「うん。かなり」


 隣でタクマまで頷いている。


「タクマまで!」


「いや、楽しそうでいいと思うぞ。ただ、最近は夕食の時も治療所の話ばっかりだからな」


「だって面白いんだもん……」


 私が少し頬を膨らませると、二人は顔を見合わせて笑った。


 まったく、二人ともひどい。


 けれど、久しぶりにエリナとこうして話していると、やっぱりギルドもいいものだと思う。治療所での毎日は楽しいけれど、ここにはここで、長い付き合いの友人たちがいるのだ。


「そういえば、リカ」


 ひとしきり笑った後、タクマが声をかけてきた。


「バルザックさんに呼ばれてるんだろ?」


「あっ、そうだった!」


 私は慌ててエリナへ向き直った。


「ねえ、バルザックって今いる?」


「いるよ。あ、その件なんだけどね」


 エリナは少し声を落とした。


「ギルド長、タクマも一緒に来てって言ってたよ」


「……俺も?」


 タクマが意外そうに聞き返した。


「うん。二人で来るようにって。詳しいことは聞いてないけど、何か大事な話みたい」


 私はタクマと顔を見合わせた。


 依頼を受けていないことについて注意されるだけなら、タクマまで呼ぶ必要はない。彼は普通に冒険者として仕事をしているし、最近は指名依頼まで受けている。


 それなのに、二人で来るようにと言われた。


 さっきまで気にしていたこととは、どうやら別の話らしい。


「……何だろうね」


「さあ。でも、行ってみよう」


 タクマがそう言ったので、私は頷いた。


 エリナに礼を言い、二人で奥の階段へ向かう。いつもなら何とも思わない廊下が、今日は少しだけ長く感じられた。


◇


 ギルド長室の扉を叩くと、中からバルザックの声が返ってきた。


「入れ」


「失礼しまーす」


 私は扉を開け、タクマと一緒に部屋へ入った。


 大きな机の向こうには、いつもどおりバルザックが座っている。けれど、その手前に置かれた椅子には、もう一人、見知った人物がいた。


「……え? シエラ?」


 銀色の髪をしたダークエルフの女性が、こちらへ顔を向けた。


「久しぶり、リカ」


「久しぶりって……どうしてシエラがここにいるの?」


 シエラは普段、必要以上に目立つ行動を取らない。王宮からの密命で私の護衛をしていた頃も、表向きはB級冒険者として振る舞い、自分の立場を知る者以外には余計なことを話さなかった。


 その彼女が、ギルド長室でバルザックと一緒に待っている。


 それだけで、何か普通ではない事情があると分かった。


「リカの事情は、バルザックも知っているから」


「……それはそうだけど」


「今回は、情報を共有した方がいいと思った」


 シエラの口調はいつもどおり淡々としている。けれど、私が入ってきても椅子から立ち上がらず、静かにこちらを見ている様子には、普段と違う緊張が感じられた。


 バルザックが机の上の書類を揃え、私たちへ椅子を勧めた。


「二人とも、座ってくれ。今日は少し長い話になる」


 私は言われたとおりに腰を下ろした。


 隣に座ったタクマが、バルザックとシエラを見比べる。


「……もしかして、マリアベル絡みの話ですか?」


 バルザックは頷いた。


「そうだ。しかも、あまりいい知らせじゃない」


 その一言で、胸の奥が冷たくなった。


 マリアベル。


 七年前に飛び出した、私の生まれ故郷。


 つい最近、私は一度だけ王宮へ戻った。ヴィルヘルム兄様の死を知り、父や昔の知人たちと再会したけれど、結局、王宮に残ることは選ばなかった。


 あの場所には、今も私の家族がいる。


「……何があったの?」


 私が尋ねると、バルザックは少し間を置いてから口を開いた。


「王太子が決まった」


「……え?」


「ヴィルヘルム殿下が亡くなられた後、空席になっていた王太子の座だ。グスタフ陛下が、正式に後継者を定められたらしい」


 私は思わず背筋を伸ばした。


 ヴィルヘルム兄様が亡くなった以上、次の王太子はハインリヒ兄様になる。普通に考えれば、そうなるはずだった。


 兄様は第二王位継承者で、王家の一員として長く政治に関わってきた人物だ。私が王宮にいた頃から、父の後を継ぐ可能性がある立場として扱われていた。


 だから、私は当然その名前が出るものだと思っていた。


「……ハインリヒ兄様が?」


「いや」


 バルザックは首を横に振った。


「フェルディナント殿下だ」


「……フェルディナント?」


 私は思わず聞き返した。


 フェルディナント・フォン・マリアベル。


 父の弟の長男で、私にとっては従兄にあたる人物だ。歳は私とほとんど変わらず、幼い頃には王宮で顔を合わせる機会も多かった。王家の一員として相応の教育を受けていることも知っているけれど、王太子になる人物として考えたことはなかった。


 父には三人の子供がいた。ヴィルヘルム兄様が第一王位継承者、ハインリヒ兄様が第二、そして私が第三。傍系にあたるフェルディナントが王位を継ぐのは、普通ならもっと先の話になるはずだった。


「グスタフ陛下は、フェルディナント殿下を養子に迎え、正式に王太子として指名されたそうだ」


「……どうして?」


 思わず口から出た言葉に、バルザックはすぐには答えなかった。


「理由については、公式には詳しい説明がない。王家の安定と継承の正統性を考慮した決定だと発表されているが、当然、それで納得しない者もいる」


「……ハインリヒ兄様?」


「ああ」


 バルザックは頷いた。


「ハインリヒ殿下は、この決定に強く抗議されたそうだ。自分こそが正当な後継者であると主張し、指名の撤回を求めた。だが、グスタフ陛下は決定を覆されなかった」


 私は黙って話を聞いた。


 父は、一度決めたことを簡単には曲げない人だ。


 それでも、王位継承という重大な問題で、実の息子を差し置いて甥を選ぶなんて、よほどの理由がなければ考えられない。


「それで……ハインリヒ兄様は、どうしたの?」


「王宮を去った」


「……え?」


「王太子の指名が覆らないと分かると、ハインリヒ殿下は王都を離れた。現在は王国西部に拠点を移し、複数の有力領主と行動を共にしている」


 そこまでは、まだ理解できた。


 王位継承を巡って対立した王族が、地方の領主を頼ることはあり得る。もちろん、穏やかな話ではないけれど、それだけなら政治的な駆け引きの範囲に収まる可能性もある。


 けれど、バルザックの話はそこで終わらなかった。


「西部の領主たちの中には、以前から王都の政策に不満を持つ者がいた。行政や税制の改革を求めていた一派だが、その一部がハインリヒ殿下を支持する立場を明確にした。そして先日、ハインリヒ殿下は彼らの前で宣言されたそうだ」


 バルザックは一度言葉を切った。


「自らが、マリアベル王国の正統な国王であると」


「…………え?」


 私は意味が分からず、しばらくバルザックの顔を見つめた。


 国王。


 ハインリヒ兄様が?


 でも、父はまだ生きている。王位を退いたという話も聞いていない。


「……待って。お父様は?」


「グスタフ陛下は、今も王都で国王として政務を執っておられる」


「じゃあ、どうして……」


「ハインリヒ殿下は、現在の王政が正統性を失ったと主張している。フェルディナント殿下の王太子指名を不当なものとし、グスタフ陛下の統治そのものを否定しているんだ」


 タクマが小さく息を吐いた。


「……つまり、王様が二人いる状態になってるんですね」


「そういうことだ」


 バルザックは険しい顔で頷いた。


「まだ大規模な戦闘が始まったという報告はない。だが、西部ではハインリヒ殿下に従う領主が兵を集め始めている。王都側も警戒を強め、主要な街道や国境の警備を増やしているそうだ」


「……そんな」


 ようやく、その言葉だけが口から漏れた。


 国が割れた。


 生まれ育ったマリアベル王国が、父を支持する者と、兄を支持する者に分かれてしまったのだ。


 私は七年前、王宮を飛び出した。王女としての義務も、王位継承権も、もう自分には関係ないものとして暮らしてきた。


 けれど、だからといって祖国がどうなってもいいと思っていたわけではない。


 あの国には、父がいる。昔から世話になった人たちもいる。そして、私が冒険者になる前に暮らしていた街や、何度も歩いた王都の通りがある。


 その場所が、戦争になるかもしれない。


 そう考えると、胸の奥が重くなった。


「……リカ」


 隣からタクマが声をかけてきた。


 私は顔を上げたけれど、うまく返事ができなかった。


 バルザックはそれ以上急かさず、私が落ち着くのを待ってくれた。


◇


 しばらくして、シエラが静かに口を開いた。


「リカ。もう一つある」


「……何?」


 シエラは懐から一通の封書を取り出した。


 厚手の紙で作られた封筒には、見覚えのある王家の紋章が押されている。


「これ、お父君から。リカだけに渡すようにと」


「……お父様から?」


「うん。私も中身は知らない。封は開けていないから」


 私は差し出された封書を受け取った。


 指先に触れる紙の感触が、妙に懐かしかった。王宮にいた頃は、こうした封書を目にする機会も多かったけれど、自分宛てに父から届くことは滅多になかった。


 七年前に王宮を飛び出してからは、なおさらだ。


 つい最近、父とは一度だけ顔を合わせた。


 けれど、あの時はヴィルヘルム兄様の死を巡る混乱の中で、ゆっくり話すことなどできなかった。私が王宮には戻らないと告げても、父は強く引き留めようとはしなかった。


 それが何を意味していたのか、今でも完全には分からない。


 私は封書を見つめたまま、少しためらった。


「……ここで読んでもいいのかな」


「リカだけに渡すようにとは言われた。でも、読む場所までは指定されていない」


 シエラはそう答えた。


 私は頷き、慎重に封を切った。


 中には二通の書簡が入っていた。


 一通は、父の筆跡で宛名が書かれたもの。


 もう一通には、見覚えのある署名があった。


「……アルフォンス?」


 マリアベル王国宰相、アルフォンス・ヴァルテンベルク。


 王宮にいた頃から知っている人物で、私が戻った時にも、王国の政務を取り仕切っていた。


 どうして父の手紙に、宰相からの書簡まで入っているのだろう。


 疑問に思ったけれど、私はまず父の手紙を開いた。


 そこには、驚くほど短い文章が記されていた。


『リカルティールへ。


 王国がこのような状況に陥り、お前に再び心配をかけることになった。父として、申し訳なく思っている。


 だが、これは国王である私が責任を負うべき問題だ。お前が背負う必要はない。


 どうか案ずることなく、お前自身が選んだ道を歩みなさい。


 父、グスタフ』


 私は何度も読み返した。


 短い手紙だった。


 なぜフェルディナントを王太子にしたのか、ハインリヒ兄様との間に何があったのか、詳しい説明は何もない。


 ただ、心配をかけて申し訳ないという謝罪と、私には自分の道を歩んでほしいという言葉だけが書かれている。


「……お父様」


 思わず、小さく呟いた。


 父は、いつも国王だった。


 幼い頃から、私の前でも王として振る舞うことが多かった。もちろん、父親として優しくしてくれたこともある。けれど、王宮で暮らしている限り、私たちは単なる親子ではいられなかった。


 私が王宮を飛び出したのも、結局はそのことが嫌だったからだ。


 王女として生まれた以上、国のために生きなければならない。誰と結婚するのか、どこで暮らすのか、どんな仕事をするのか。そうしたことまで、王家の都合で決められる未来が待っていた。


 だから、逃げた。


 それなのに父は、今になって、私の選んだ道を歩めと言っている。


 国王としてではなく、父親として。


 そのことが、少しだけ嬉しかった。


 けれど、同時に胸が苦しくなった。


 父は、本当に大丈夫なのだろうか。


 ヴィルヘルム兄様を失い、今度はハインリヒ兄様と対立している。王国が分裂しかけているというのに、私には心配するなと書いている。


 そんなことを言われても、心配しないでいられるはずがなかった。


 私は手紙を丁寧に折り畳み、もう一通の書簡へ目を向けた。


◇


 アルフォンスの手紙は、父のものとは対照的だった。


 何枚もの紙に細かな文字が並び、冒頭には、国王の私信に別の書簡を添える非礼を詫びる一文が記されていた。


 そして、その後に続く文章を読んで、私は息を呑んだ。


『王女殿下。


 本書は、陛下のご意向によるものではございません。王国の現状を鑑み、殿下にも事情をお伝えすべきと判断した、私個人の責任による報告でございます。』


 私は思わず顔を上げた。


 アルフォンスが、独断で手紙を入れた?


 父が私に心配をかけまいとしていることは、先ほどの手紙からも分かる。それを承知の上で、宰相であるアルフォンスは、私に事情を知らせる必要があると判断したらしい。


 私は再び視線を落とした。


 書簡には、ヴィルヘルム兄様の死後、王宮で行われた調査について詳しく記されていた。


 兄様の死は、事故でも病死でもない。


 何者かによって命を奪われたことは、すでに分かっている。


 しかし、その背後に誰がいたのかについては、いまだ決定的な証拠が見つかっていないという。


 私はその部分を読みながら、王宮で見た兄様の姿を思い出した。


 安置された遺体。


 かつて私に優しく接してくれた兄様が、もう二度と目を開けないという現実。


 あの時は、ただ悲しかった。


 けれど、アルフォンスの書簡は、さらに残酷な可能性を示していた。


『調査の結果、事件前後における複数の関係者の動向、宮廷内の勢力変化、ならびに事件によって利益を得る立場にあった人物について、看過できない事実が確認されております。


 これらはいずれも、単独では犯行を立証するに足るものではございません。


 しかし、総合的に判断した場合、ハインリヒ殿下が本件に関与された可能性は極めて高いと考えられます。』


「…………」


 私は、その文章から目を離せなくなった。


 ハインリヒ兄様が。


 ヴィルヘルム兄様を?


 そんなことが、本当にあるのだろうか。


 確かに、二人の兄様は昔から考え方が違っていた。


 ヴィルヘルム兄様は真面目で、父の後を継ぐことを当然の責務として受け止めていた。一方のハインリヒ兄様は、もっと野心的で、王国を変えようという意欲が強かった。


 私が王宮にいた頃から、二人の意見が対立することはあった。


 けれど、それは政治についての考え方の違いだと思っていた。


 まさか、兄が兄を殺すなんて。


 私は手紙を持つ手に力が入っていることに気づき、慌てて指を緩めた。


 まだ、決まったわけではない。


 アルフォンス自身も、決定的な証拠はないと書いている。ハインリヒ兄様が犯人だと断定しているわけではない。


 それでも、王国の宰相がこれほど強い疑念を示している。


 そして、父もまた、同じ疑いを抱いているらしかった。


 私は続きを読んだ。


 書簡によれば、グスタフは調査の結果を受け、ハインリヒを王太子に指名することをためらうようになったという。


 だが、証拠がない以上、実の息子を兄殺しの罪で公然と告発することはできない。


 もし疑惑を理由にハインリヒを拘束すれば、王家の内部で重大な対立が起きる。逆に、何事もなかったかのように王太子へ指名すれば、将来の王位を、兄を殺したかもしれない人物に委ねることになる。


 どちらを選んでも、王国にとって大きな危険があった。


 その末に父が選んだのが、フェルディナントだった。


 傍系の王族を養子に迎え、正式な王太子とする。


 ハインリヒ兄様を直接罪に問うことはできなくても、王位を継がせないという決断だけは下せる。


 アルフォンスは、その判断に至るまで、父が長く苦悩していたことを記していた。


 そして、王太子の指名が公表された後、ハインリヒ兄様が激しく反発したことも。


 兄様は、自分の正当な継承権が奪われたと主張した。王家の血筋とこれまでの慣例に照らせば、次の王太子は自分であるべきだと訴え、指名の撤回を求めたという。


 しかし、父は応じなかった。


 アルフォンスは、二人の間で交わされたすべての言葉を把握しているわけではないと断った上で、少なくとも父が最後まで決定を変えなかったこと、そしてハインリヒ兄様が王宮を去ったことを記していた。


 さらに、西部の改革派領主たちが兄様を支持する動きを見せ、現在では独自の政権を形成しつつあるという。


 バルザックから聞いた話と、ほぼ同じ内容だった。


 けれど、そこに至るまでの事情を知ったことで、事態の見え方がまったく変わってしまった。


 単なる王位継承争いではない。


 父は、息子が兄を殺したかもしれないという疑いを抱いたまま、その息子を後継者から外したのだ。


 そして、ハインリヒ兄様はその決定を受け入れず、自ら王を名乗った。


 私は最後の一枚を読み終え、ゆっくりと手紙を下ろした。


「……ハインリヒ兄様が、ヴィルヘルム兄様を?」


 声に出した途端、その言葉が急に重みを持った。


 タクマがこちらを見た。


「……リカ?」


 私は顔を上げた。


 バルザックもシエラも、黙って私を見ている。


「……アルフォンスからの手紙に、書いてあったの」


 私は言葉を選びながら、内容を説明した。


 ヴィルヘルム兄様の死について、王宮で調査が行われていたこと。


 決定的な証拠はないものの、ハインリヒ兄様の関与を強く疑う事情があること。


 そして、その疑惑が、父の王太子指名に影響していたこと。


 話し終えると、部屋の中はしばらく静まり返った。


「……そういうことか」


 バルザックが低い声で呟いた。


「こちらに入ってきた情報だけでは、なぜグスタフ陛下があそこまで強硬な決定を下されたのか分からなかった。だが、それなら筋は通る」


「……でも、証拠はないんだよね」


 私は念を押すように言った。


「ああ。少なくとも、その手紙に書かれている限りではな」


 バルザックは慎重に答えた。


 シエラも小さく頷いた。


「私も、そこまで詳しい事情は知らなかった。王都からの連絡では、継承問題が深刻化していることしか聞いていない」


 私はもう一度、手元の書簡を見つめた。


 アルフォンスは、私に何かを命じているわけではなかった。


 王宮へ戻れとも、父を助けろとも書いていない。


 ただ、王国で何が起きているのかを、できる限り正確に伝えようとしていた。


 それが、かえって苦しかった。


◇


 私は二通の手紙を机の上へ置き、しばらく考え込んだ。


 父が心配だった。


 ヴィルヘルム兄様を失ったばかりなのに、今度はハインリヒ兄様と決別することになった。しかも、その原因が兄殺しの疑惑だというのなら、父がどれほど苦しんだのか、想像するだけでも胸が痛む。


 けれど、だからといって、私に何ができるのだろう。


 私は七年前に王宮を飛び出し、王族としての生活を捨てた。


 今では冒険者として暮らし、タクマと一緒に生活している。最近は治療師としての勉強まで始めて、毎日が楽しくて仕方ない。


 そんな私が今さら王宮へ戻ったところで、何かが変わるとは思えなかった。


 むしろ、王位継承権を持つ私が戻れば、状況をさらに複雑にしてしまう可能性もある。


 フェルディナントを支持する者たちにとっても、ハインリヒ兄様を支持する者たちにとっても、私は無視できない存在になってしまうかもしれない。


 それは、私が望んでいることではなかった。


「……リカ」


 タクマが静かに声をかけてきた。


「どうしたい?」


 私は顔を上げた。


 タクマは、私を急かすでもなく、ただ返事を待っていた。


 その表情を見て、少しだけ気持ちが落ち着いた。


「……今は、何もできないと思う」


 私は正直に答えた。


「お父様が心配だし、マリアベルがどうなるのかも怖い。でも、私が王宮へ戻ったところで、ハインリヒ兄様の疑惑を解決できるわけじゃないし、王国の分裂を止められるとも思えない」


 言葉にしてみると、自分がどれほど無力なのかを思い知らされるようだった。


 私は魔法が得意だ。


 冒険者としても、A級まで上がった。


 戦えば、かなりの相手に勝てる自信がある。


 けれど、今起きている問題は、魔法で敵を倒せば解決するようなものではない。


 父と兄の対立を止める魔法なんて、私は知らなかった。


「……お父様が心配。でも、私は王宮には戻りたくない」


 私は小さく呟いた。


 自分勝手だと思われるかもしれない。


 家族が大変な時に、自分だけ自由に暮らしていたいなんて、薄情なのかもしれない。


 けれど、それが私の本当の気持ちだった。


 タクマはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「それでいいと思う」


「……いいのかな」


「少なくとも、リカが戻れば何とかなるって話じゃないだろ。むしろ、リカまで継承問題に巻き込まれたら、余計にややこしくなるかもしれない」


「……うん」


「それに、グスタフ陛下も、リカには自分の道を歩いてほしいって書いてるんだろ?」


 私は父の手紙を見つめた。


 確かに、そう書いてあった。


 父は、私に戻ってきてほしいとは言っていない。


 むしろ、自分の選んだ道を歩めと伝えてくれている。


「……そうだね」


 私は小さく頷いた。


 バルザックが口を開いた。


「リカ。俺からも一つ言っておくが、今のところギルドとしてお前に何かを求めるつもりはない。マリアベルの内情は、あくまで他国の政治問題だ。こちらから不用意に介入するわけにはいかん」


「……うん」


「ただし、戦争になれば話は変わる。国境を越える商人や旅人にも影響が出るだろうし、難民が流れてくる可能性もある。ノヴァグラードのギルドとしても、情勢には注意を払う必要がある」


 私は顔を上げた。


 難民。


 その言葉を聞いて、マルタの治療所を思い出した。


 もし戦争が始まれば、怪我をする人が出る。


 住む場所を失う人もいるだろう。病気になっても、十分な治療を受けられない人が増えるかもしれない。


 王国の政治を動かすことはできなくても、そうした人たちを助けることなら、私にもできるかもしれない。


 バルザックは続けた。


「何か新しい情報が入れば、お前たちにも伝える。シエラとも連絡を取っておくつもりだ」


「私も、王都との連絡は続ける」


 シエラが静かに言った。


「リカには、必要なことを伝える」


「……ありがとう、シエラ」


 彼女は小さく頷いた。


 私は二通の手紙を丁寧に折り畳み、封書へ戻した。


 父の短い言葉と、アルフォンスの詳しい説明。


 どちらも、今の私には重かった。


 けれど、知らないままでいるよりはよかったのだと思う。


◇


 ギルドを出ると、街はいつもどおりの賑わいを見せていた。


 通りには商人たちの声が響き、荷車が石畳の上をゆっくりと進んでいる。店先では買い物客が品物を選び、冒険者らしい若者たちが依頼の報酬について話し合っていた。


 ついさっき、遠いマリアベル王国で国が割れたという話を聞いたばかりなのに、目の前の景色は何も変わっていない。


 それが、少し不思議だった。


 もちろん、ノヴァグラードの人たちにとって、マリアベルは隣国の一つにすぎない。王位継承を巡る争いが起きていると聞いても、すぐに自分たちの生活が変わるわけではないだろう。


 けれど、私はあの国で生まれ育った。


 王宮の廊下も、庭園も、父の執務室も覚えている。ヴィルヘルム兄様が本を読んでいた姿も、ハインリヒ兄様が政治について熱心に話していたことも、今では遠い記憶になりかけていたけれど、確かに私の中に残っている。


 その家族が、今は互いに敵対する立場になっている。


 私は歩きながら、父の手紙を思い返した。


 心配するな。


 自分の道を歩め。


 父はそう書いていた。


 けれど、心配しないでいられるはずがなかった。


「……リカ」


 隣を歩いていたタクマが、私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か?」


「……うん。大丈夫、とは言い切れないかな」


「そっか」


 タクマはそれ以上、無理に励まそうとはしなかった。


 ただ、私の歩く速度に合わせて、隣を歩いてくれる。


 そのことが、今はありがたかった。


 しばらく無言で歩いていると、通りの向こうに薬草を扱う店が見えてきた。


 私はそこで、ふと明日の予定を思い出した。


「……そういえば、明日も治療所に行くんだった」


「ん?」


「マルタに、新しい薬草の調合を教えてもらう約束してるの」


 タクマは少し驚いたように私を見た後、微笑んだ。


「そっか。じゃあ、いつもどおりだな」


「……うん」


 私は頷いた。


 王国がこれからどうなるのかは分からない。


 ハインリヒ兄様が本当にヴィルヘルム兄様を殺したのかも、父がこの先どんな決断を下すのかも、今の私には分からなかった。


 けれど、私には今の暮らしがある。


 タクマと一緒に暮らす家があり、冒険者としての仕事があり、マルタの治療所で学ぶ毎日がある。


 そして、治療所には、今日も身体の痛みや病気に悩む人たちが訪れている。


 王国の政治を動かすことはできなくても、目の前の人を助けることならできる。


 それは、私が自分で選んだ道だった。


「……ねえ、タクマ」


「何?」


「今日は、少し早く帰ろうか」


「ああ。そうしよう」


 私はタクマの手を取り、歩き始めた。


 父の手紙は、鞄の中に大切にしまってある。


 今はまだ、そこに書かれた言葉をどう受け止めればいいのか、うまく整理できていない。


 それでも、父が私の自由を認めてくれたことだけは、忘れたくなかった。


 だからこそ、私は自分の選んだ道を歩き続けようと思う。


 遠い祖国で、何が起ころうとしているのかを、まだ十分に理解できないまま。


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