第65話 一年目の約束
マルタの治療所へ通い始めてから、ひと月ほどが過ぎた。
最初は、タクマの怪我をきっかけに、回復魔法では治せないものがあることを知りたかっただけだった。傷を塞ぐことと患者を治すことは同じではない。その違いを理解するために、経験豊富な治療師から少し勉強させてもらおうと思ったのだ。
ところが、いざ始めてみると、知らないことが次から次へと出てくる。
患者の症状を聞き取る方法、薬草の種類と使い分け、傷の洗い方、熱を出した患者の経過の見方。診断魔法で身体の内部を調べられる私にとっても、その結果をどう判断すればいいのか分からないことは多かった。魔法で異常を見つけることはできても、それが何を意味するのかを理解していなければ、適切な治療にはつながらない。
それに、マルタの経験は本当に面白い。同じような症状でも原因が違うことがあり、反対に、まったく違う症状が同じ病気から生じることもある。話を聞くたびに新しい疑問が生まれ、家に帰ってから魔法書を調べたり、術式を組み直したりしていると、いつの間にか夜になってしまう。
そうして翌朝には、また新しい疑問を抱えて治療所へ向かうのだった。
「リカ、そこの薬草を取っておくれ」
「はい! 乾燥させた方ですか?」
「ああ。棚の二段目にあるやつだよ」
私は言われた薬草を取り出し、マルタへ渡した。
午前中の治療所は、いつもそれなりに忙しい。怪我をした職人や、熱を出した子供を連れた母親、腰の痛みを訴える老人など、訪れる患者は様々だった。街には他にも治療師がいるけれど、マルタのところには昔から通っている患者が多く、ちょっとした身体の不調でも相談に訪れる人がいる。
もちろん、私が一人で診察するわけではない。基本的にはマルタの指示に従い、必要に応じて診断魔法や回復魔法を使う。薬草の調合や傷の処置についても、まだ教えてもらいながら手伝っている段階だ。
それでも、ひと月も通っていれば、少しずつできることは増えてくる。
以前なら、患者の訴えを聞くとすぐに診断魔法を使っていたけれど、今はまず症状がいつから始まったのか、どんな時に悪くなるのかを尋ねるようになった。診断魔法はその後で使い、患者の話と実際の身体の状態を照らし合わせる。そうすることで、魔法だけでは気づけなかった原因が見えてくることもあった。
「……ふむ。リカ、この人の右肩を調べてみな」
「はい」
診察台に座っていたのは、四十歳ほどの男性だった。荷物を運ぶ仕事をしているらしく、数日前から右肩を動かすと痛むという。特に重いものを持ち上げる時に痛みが強くなるそうで、仕事に支障が出始めたため、ようやく治療所へ来たらしい。
私は男性に痛む場所を確かめてから、診断魔法を展開した。
骨に異常は見当たらない。けれど、肩の周囲にある筋肉や腱の一部には、傷みと炎症らしい変化が見られた。大きな損傷ではないものの、同じ動作を繰り返したことで負担が積み重なっているように思える。
「骨は大丈夫そうです。でも、肩の周りに負担がかかっているみたいですね」
「そうかい。じゃあ、どうしたらいいと思う?」
マルタに尋ねられ、私は少し考えた。
「痛みが強い間は、無理に動かさない方がいいと思います。回復魔法で傷んだ部分を修復することはできますけど、また同じように使い続けたら、繰り返すかもしれません」
「そうだね。じゃあ、どうして負担がかかったのかも聞いておこうか」
マルタは頷くと、男性へ仕事の内容を詳しく尋ね始めた。
どうやら最近、重い荷物を肩に担いで運ぶ作業が増えたらしい。しかも、いつも右肩ばかり使っているという。マルタはしばらく負担を減らすよう勧め、仕事を休めないのであれば、少なくとも荷物の持ち方を変えるようにと説明した。
私は必要な範囲で回復魔法を使い、傷んだ組織の修復を助けた。男性は肩を動かして痛みが軽くなったことを喜んでいたけれど、マルタから「楽になったからといって、今日からまた無茶をするんじゃないよ」と念を押され、苦笑しながら頷いていた。
治療を終えた男性が帰っていくと、私はその内容を記録へ書き込んだ。
こうした一つひとつの経験が、私にとっては新しい勉強になる。怪我を治すだけなら、もっと簡単な方法もあるかもしれない。けれど、なぜ怪我をしたのか、どうすれば繰り返さずに済むのかまで考えることは、これまでの私にはほとんどなかった。
だから、治療所へ来るのが毎日楽しみだった。
「……ところでリカ」
「はい?」
「そろそろ、少し休んだらどうだい?」
マルタが呆れたように言った。
「え? でも、まだ午前中ですよ?」
「そういう意味じゃないよ。あんた、もうひと月近く毎日のように来てるだろう。冒険者の仕事はどうしたんだい?」
「……あ」
そういえば、最近はギルドへほとんど顔を出していなかった。
もっとも、冒険者を辞めたつもりはない。今は治療師としての勉強が面白くて、そちらを優先しているだけだ。依頼を受けるのは、もう少し勉強が落ち着いてからでもいいだろうと思っていた。
ただ、その「もう少し」がいつになるのかは、自分でもよく分からない。
「大丈夫です! ちゃんと冒険者も続けるつもりですから!」
「ならいいけどねぇ。あんた、一つのことに夢中になると周りが見えなくなるところがあるんじゃないかい?」
「……そうでしょうか?」
「自覚がないなら、なおさらだね」
マルタは苦笑しながら、次の患者を迎える準備を始めた。
私は少し考えたものの、ちょうど昨日の患者について聞きたいことを思い出したので、結局またノートを開いてしまった。
◇
最近、治療所を訪れる人たちの中には、私の顔を見て驚く人が増えていた。
「……あれ? リカさん?」
その日も、午後になって一人の冒険者が治療所へやって来た。
以前、ギルドで何度か顔を合わせたことのある男性だった。左手に包帯を巻いているけれど、歩き方や表情を見る限り、大きな怪我ではなさそうだ。
「こんにちは。どうしたの?」
「いや、依頼でちょっと手を切っちゃってさ。それより、リカさんは何してるんです?」
「見ての通り、治療のお手伝いだよ」
「……治療?」
「うん。今、マルタに色々教えてもらってるの」
男性は私とマルタを交互に見つめた。
「へえ……噂、本当だったんだ」
「噂?」
「最近、マルタさんの治療所に行くと、A級冒険者のリカさんがいるって聞いたんですよ」
「……え?」
私は思わず聞き返した。そんな噂が広まっているなんて、初耳だった。
「最初は冗談だと思ってたんですけどね。だって、A級冒険者が治療所で働いてるなんて、普通は考えないでしょう?」
「働いてるっていうか、勉強してるだけなんだけど……」
「それで、冒険者は辞めたんですか?」
「辞めてないよ!」
思わず大きな声で答えると、男性は笑い出した。
「いや、だって最近ギルドで全然見かけないからさ」
「……そんなに?」
「少なくとも俺は、ひと月くらい見てないですね」
私は少し考え込んだ。
確かに、最近は朝から夕方まで治療所にいることが多い。帰宅してからも、マルタに教わったことを調べたり、回復魔法の術式を考えたりしている。依頼を受ける時間がなかったわけではないけれど、気がつけば後回しになっていた。
「……まあ、そのうち受けるよ」
「そのうち、ですか」
男性は何とも言えない顔をした。
私は咳払いをして、話題を変えることにした。
「それより、手を見せて。どうやって怪我したの?」
「ああ、そうだった」
男性は包帯を外し、左手を差し出した。
傷はそれほど深くなかったけれど、周囲が少し赤くなっている。話を聞くと、昨日の依頼中に刃物で切った傷らしい。自分で手当てをしたものの、今朝になって痛みが増したため、念のため診てもらおうと思ったのだという。
私はマルタと一緒に状態を確認し、傷口を丁寧に洗った。診断魔法で調べた限り、深い部分に異物は残っていないようだったが、炎症の広がりには注意が必要だった。以前の私なら、そのまま回復魔法で傷を塞いで終わりにしていたかもしれない。
けれど、今は違う。
傷口を清潔に保ち、悪化の兆候がないかを確かめることも、治療の大切な一部なのだ。
「傷そのものは深くないけど、少し赤くなってるね。今日はマルタの言うとおりに手当てして、しばらく様子を見て」
「回復魔法で治してもらえば、すぐに終わると思ってたんですけど……」
「傷を塞ぐだけじゃ、かえって悪くなることもあるんだよ。私も最近知ったんだけどね」
そう説明すると、男性は少し意外そうな顔をした。
マルタが傷の状態と今後の注意点を説明し、私は必要な処置を手伝った。最後に新しい包帯を巻き直すと、男性は安心したように息を吐いた。
「助かりました。ありがとうございます」
「うん。もし赤みが広がったり、熱を持ったりしたら、また来てね」
「分かりました。今度から怪我したら、早めに診てもらうことにします」
男性は何度も礼を言って帰っていった。
その後も、似たようなことが何度かあった。
ある日は、以前依頼で顔を合わせたことのある女性が、母親の薬を受け取りに来た。私を見つけると驚いた顔をしていたけれど、事情を説明すると、母親の体調について色々と話してくれた。以前より食欲が戻り、最近は家の中を歩く時間も増えたらしい。マルタはその話を聞き、次に薬を取りに来る時には、できれば本人も一緒に連れてくるよう頼んでいた。
別の日には、ギルドで見かける若い冒険者が、仲間の怪我について相談に来た。本人は怪我をしていなかったけれど、仲間が治療所へ来るのを嫌がっているらしく、どう説得すればいいか困っているという。
私はマルタと相談し、まずは症状を詳しく聞いた上で、必要なら本人を連れて来るよう伝えた。怪我をした本人を診ないまま、話だけで治療方法を決めるのは危険だからだ。
そんなことを繰り返しているうちに、治療所を訪れる人たちの間でも、私がここにいることが当たり前になっていった。
「リカさん、今日もいるんですね」
「うん。今日もいるよ!」
「……本当に冒険者なんですよね?」
「だから、辞めてないってば!」
何度も同じようなやり取りをすることになったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、顔見知りの人たちが治療所へ来てくれるのは嬉しかったし、以前よりも色々な話を聞けるようになった気がする。
冒険者として依頼を受けている時には、怪我をした人を治療して、そのまま別れることも多かった。けれど、治療所では、同じ患者が何度も訪れることがある。傷が治っていく様子を確かめたり、薬を飲んで症状がどう変わったかを聞いたりするうちに、その人の仕事や家族のことまで知るようになる。
患者を治療するというのは、怪我や病気だけを見ることではないのだと、改めて感じた。
ある日の帰り際、薬を受け取りに来た年配の女性が、私に向かって深々と頭を下げた。
「いつもありがとうございます。娘も、リカさんがいてくれると安心するって言ってましたよ」
「そんな、大したことはしてませんよ。私もまだ勉強中ですから」
「それでも、話を聞いてもらえるだけで安心するものなんです。これからもよろしくお願いしますね」
女性はそう言って微笑んだ。
私は少し照れながら礼を返した。
治療所へ来る人たちは、私がどんな魔法を使えるのか、どれほど強い冒険者なのかを気にしているわけではない。ただ、自分や家族の身体を心配していて、少しでも安心したいと思っている。
その気持ちに応えられることが、今の私には何より嬉しかった。
◇
一方、タクマは相変わらず冒険者として忙しくしていた。
私が治療所へ通うようになってからは、フリーダとクルシュの二人と組んで依頼を受けることが増えたらしい。もともと二人とは何度も一緒に仕事をしているし、タクマの剣の腕も随分と上達している。今では三人で依頼を受けても、特に問題なく役割を分担できるようになっていた。
ある日の夕食時、タクマがそんな話をしてくれた。
「今日はフリーダさんたちと、街道沿いの魔獣を討伐してきたんだ」
「へえ。どうだった?」
「思ったより数が多かったけど、特に問題なかったよ。フリーダさんが前に出て、俺が横から回り込んで、クルシュさんが動きを止めてくれたからな」
「ふふ。相変わらず息が合ってるね」
「ああ。あの二人とは随分やりやすくなったよ」
タクマはそう言って笑った。
フリーダとクルシュは、もともと経験豊富なB級冒険者だ。二人とも実力があり、何度も依頼を共にしてきたからこそ、互いの動きもよく理解している。そんな二人と自然に肩を並べて戦えるようになったのだから、タクマも本当に強くなったと思う。
「そういえば、明日は指名依頼が入ってるんだ」
「指名依頼?」
「ああ。前に護衛した商人から、また頼みたいって言われてさ。今回は荷物の運搬も兼ねた護衛らしい」
「へえ! すごいじゃない!」
「いや、そんな大したことじゃないよ。前の依頼で顔を覚えてもらっただけだと思う」
タクマは照れくさそうに笑ったけれど、私はそうは思わなかった。
冒険者にとって、依頼主から直接指名されるというのは、それだけ信頼されている証拠だ。もちろん、実力がなければ護衛は任せられない。けれど、依頼主が安心して仕事を頼めるかどうかは、強さだけで決まるものでもない。
タクマは、初めて会った相手にも丁寧に接する。相手の話をよく聞くし、分からないことがあれば素直に尋ねる。以前、商人の護衛を引き受けた時にも、荷物の扱いや移動の予定を細かく確認していた。そういうところが、依頼主にも伝わっているのだと思う。
「タクマって、そういうところがすごいよね」
「……どういうところ?」
「人に信頼されるところ。私、そういうのはタクマの方が上手だと思う」
「いや、リカだって十分信頼されてるだろ」
「私はほら、魔法が使えるからね。でも、タクマはそれだけじゃないでしょ?」
私がそう言うと、タクマは少し困ったように笑った。
「……まあ、そう言ってもらえるのは嬉しいけどな」
私は満足して頷いた。
タクマが異世界へ来てから、もうすぐ一年になる。
最初は冒険者としての経験もなく、剣の扱いにも慣れていなかった。けれど、ハーケンの指導を受け、ボーマンとの厳しい修行を乗り越え、今ではB級冒険者として立派に依頼をこなしている。
考えてみれば、その昇級速度はかなり異常だった。
F級からE級、そしてD級へ。さらにB級まで上がるのに、まだ一年も経っていないのだ。私自身も、冒険者としてはかなり速い方だったと思う。けれど、タクマはそれに匹敵するどころか、場合によっては私より速いかもしれない。
もっとも、A級への昇格となると話は別だ。
A級冒険者は、単に強いだけでは認められない。実績や信頼性に加え、国の承認も必要になるため、B級からA級へ上がるには長い時間がかかることが多い。私もB級までは比較的順調だったけれど、A級になるまでには随分と時間がかかった。
タクマも、これからはそう簡単に昇級できないだろう。
けれど、それでいいと思う。
冒険者の階級は、強さだけを示すものではない。依頼を確実にこなし、周囲から信頼されることも大切なのだから。そして、今のタクマは、その両方を少しずつ積み重ねている。
「……何だよ、さっきから」
「ん?」
「いや、何か嬉しそうに見てるから」
「ふふ。タクマ、立派になったなあって思って」
「……誰目線なんだよ」
タクマは呆れたように笑った。
私はそんな彼を見て、ますます嬉しくなってしまった。
◇
それから数日後。
夕食を終え、二人で食器を片づけていた時、私はふと日付を思い出した。
「……あっ」
「どうした?」
「ねえ、タクマ。今日が何の日か覚えてる?」
タクマは手に持っていた皿を置き、少し考え込んだ。
「今日? ……なんだっけ?」
「もう。忘れちゃったの?」
「……何か約束してたっけ?」
私は思わず笑ってしまった。タクマは本当に分からないらしく、困ったような顔をしている。
「私がタクマを拾った日。今日で一年経つんだよ?」
「……マジか」
タクマは目を丸くした。
その反応が面白くて、私は少し得意げに笑った。
「忘れてたでしょ?」
「いや、忘れてたっていうか……もう一年も経ったのか」
「うん。ちょうど一年」
私は頷いた。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
森の中で魔物に襲われていた、見慣れない服装の青年。武器も持たず、革靴で足を滑らせながら、拾った枝で必死に身を守ろうとしていた。
最初は何者なのか分からなかった。身につけている服も、この辺りでは見たことのないものだったし、何より、魔法も魔物も知らないという。助けた後に事情を聞いてみれば、彼は自分が日本という国から来たのだと言った。
もちろん、そんな国は聞いたことがなかった。話を聞けば聞くほど、どうやら彼の知っている世界と私の知っている世界は、根本的に違っているらしい。
結局、その日のうちに街へ連れていくのは難しいと判断して、私は彼を自宅へ招いた。
それから、タクマとの生活が始まった。
「……懐かしいね」
「ああ。あの時は本当に何が何だか分からなかったよ」
「ふふ。そうだったね」
「魔物に襲われたと思ったら、いきなり地面から岩が飛び出してきてさ。今でも覚えてるよ」
「そうそう。タクマ、ずっと枝を握りしめてたよね」
「……あれしか武器がなかったんだから仕方ないだろ」
タクマは苦笑した。
「でも、リカが来てくれなかったら、本当に危なかったな」
「うん。あのままだったら、かなり危なかったと思う」
「……改めて、ありがとうな」
私は少し照れくさくなって、笑ってごまかした。
「どういたしまして。まあ、あの時は私も暇だったしね」
「……暇?」
「うん。ちょうど依頼を終えて帰るところだったんだけど、最近ちょっと退屈だなって思ってたの」
「それで、俺を拾ったのか?」
「拾ったっていうか、助けたんだけどね」
私がそう言うと、タクマは声を出して笑った。
「……そういえば、最初からそんな感じだったな」
「そんな感じって?」
「いや、何というか……ずいぶん気軽に家へ招いてくれたなって」
「だって、あのまま森に置いていくわけにもいかないでしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ。初対面の男を家に入れるのは危ないんじゃないかって、俺の方が心配したくらいだぞ」
「ふふ。言ってたね」
私は笑った。
あの時、タクマは自分が助けてもらう立場だというのに、私が初対面の男を家へ入れて大丈夫なのかと心配していた。その反応が、妙に印象に残っている。
「でも、私、結構強いから」
「……それも言ってたな」
「実際、強いでしょ?」
「それはもう、嫌というほど知ってるよ」
タクマは苦笑した。
私は満足して頷いた。
あの日のタクマは、魔法を見て驚き、結界で隠された家を見て驚き、私が説明するこの世界の常識にも、いちいち驚いていた。
けれど、ただ驚いているだけではなかった。
家へ着いて少し落ち着くと、彼はこの国のことや街のこと、仕事のこと、そしてお金のことを尋ねてきた。自分の知っている世界とは違う場所に来てしまったかもしれないというのに、まず生活のことを考えていたのだ。
私はその時、案外たくましい人なんだなと思ったのを覚えている。
「そういえば、最初にギルドへ行った時も大変だったよね」
「ああ。登録するだけで緊張したな」
「ふふ。今じゃB級冒険者なのにね」
「……そう考えると、随分遠くまで来た気がするよ」
タクマは少し感慨深そうに言った。
私はその横顔を見つめた。
一年前、森の中で彼を助けた時、こんな未来になるなんて想像もしていなかった。彼が冒険者になり、私と一緒に依頼を受けるようになって、やがて恋人になった。今では、彼がこの家にいることが当たり前になっている。
朝起きればタクマがいて、夜になれば一緒に食事をする。仕事で疲れて帰ってきても、話を聞いてくれる人がいる。それが、こんなにも嬉しいことだなんて、以前の私は知らなかった。
「……私ね、あの日タクマを連れて帰ってよかったって思ってる」
私がそう言うと、タクマは少し驚いたようにこちらを見た。
「……俺も、リカに拾ってもらえてよかったよ」
「ふふ。拾ったって言い方、やっぱり変かな?」
「いや、実際拾われたようなもんだからな」
二人で笑った。
私は食器を片づけ終えると、棚の奥から小さな包みを取り出した。
「実はね、ちょっとだけ用意してたんだ」
「……何を?」
「お祝い!」
包みの中には、街で買っておいた焼き菓子が入っていた。特別に高価なものではないけれど、普段はあまり買わない、少しだけ贅沢なお菓子だ。
「せっかく一年経ったんだから、何かしたいなって思って」
「……ありがとう。俺、何も用意してないのに」
「いいの。私が勝手に覚えてただけだもん」
私は笑いながら皿を取り出し、焼き菓子を二つに分けた。タクマは少し申し訳なさそうにしていたけれど、やがて諦めたように笑って、飲み物を用意してくれた。
二人で向かい合って座り、ささやかなお祝いを始める。
「じゃあ……出会って一年、おめでとう?」
「ふふ。何それ」
「いや、こういう時って何て言えばいいんだろうな」
「何でもいいんじゃない? 私は嬉しいし」
「……そっか」
タクマは笑った。
私も笑い返し、焼き菓子を一口食べた。
甘い香りが口の中に広がる。特別な料理も、豪華な飾りもない。ただ、いつもの家で、いつものようにタクマと向かい合っているだけだ。けれど、私はそれで十分だった。
この一年で、色々なことがあった。
冒険者として一緒に依頼を受け、危険な目に遭ったこともある。タクマが怪我をして、心配で眠れなかった夜もあった。王宮へ戻ることになり、もう二度と帰りたくなかった場所へ足を踏み入れたこともあった。
それでも、今こうして二人で笑っていられる。
私はそのことが、何より嬉しかった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「来年も、こうしてお祝いしようね」
タクマは少しだけ目を細めた。
「ああ。もちろん」
その返事を聞いて、私は満足して頷いた。
来年、私たちがどんな暮らしをしているのかは分からない。けれど、できることなら、今と同じようにタクマと一緒に笑っていたい。
私はそんなことを思いながら、残りの焼き菓子を口へ運んだ。
◇
記念日から数日が経った。
私は相変わらず治療所へ通い、マルタの手伝いを続けていた。最近は、患者の診察だけでなく、薬草の保存方法や調合の仕方についても詳しく教えてもらっている。薬草の種類によっては、乾燥させた方が長持ちするものもあれば、採取してすぐに使った方が効果の高いものもあるらしい。
そうした違いを覚えるのが面白くて、気がつけばまた新しいノートを使い始めていた。
「……リカ、あんた本当に飽きないねぇ」
マルタは呆れたように笑っていた。
「だって、まだ知らないことがいっぱいあるんです!」
「そりゃそうだろうね。あたしだって、今でも知らないことはあるんだから」
「じゃあ、もっと勉強しないと!」
「……そういうところだよ」
マルタは苦笑した。
私はその意味がよく分からなかったけれど、とりあえず今日教わったことをノートへ書き込んだ。
夕方になり、治療所の片づけを終えて森の家へ戻ると、タクマはすでに帰宅していた。
「ただいま!」
「おかえり。今日も遅かったな」
「うん。薬草の調合を教えてもらってたの」
「そっか。楽しそうで何よりだ」
タクマは微笑ましそうに笑った。
最近、彼は私が治療所の話を始めると、いつもそんな顔をする。自分でも少し夢中になりすぎている気はするけれど、タクマが楽しそうに聞いてくれるので、つい色々と話してしまうのだった。
「そういえば、リカ」
「ん?」
「バルザックさんが、明日ギルドに来てくれって言ってたぞ」
「……え?」
私は思わず動きを止めた。
「今日、依頼の報告に行ったら、伝えておいてくれって」
「……バルザックが?」
「ああ。詳しいことは聞いてないけど、リカに話があるらしい」
私は少し考え込んだ。
バルザックから、わざわざ呼び出しがあるなんて珍しい。何か重要な依頼でも入ったのだろうか。それとも、ギルドで何か問題が起きたのだろうか。
しばらく考えているうちに、ふと思い当たることがあった。
「……あ」
「どうした?」
「……う、流石に依頼受けなさ過ぎたかな」
タクマは一瞬黙った後、何とも言えない表情になった。
「……俺もそうだと思う」
「だ、だって! 治療所で覚えることがいっぱいあって!」
「うん。知ってる」
「それに、マルタから教わることって、本当に面白いんだよ! 今日だってね、薬草の保存方法で……」
「いや、それは分かってるから」
タクマは苦笑しながら私の言葉を遮った。
「でも、バルザックさんにも事情を説明した方がいいんじゃないか?」
「……そうだよね」
私は小さく頷いた。
冒険者を辞めるつもりはないし、これからも依頼を受けるつもりだ。けれど、気がつけばひと月以上、ほとんどギルドへ顔を出していなかった。A級冒険者として、それは少し問題なのかもしれない。
「……怒られるかな?」
「さあ。でも、事情を話せば分かってくれると思うぞ」
「……うん。そうだよね」
私は自分に言い聞かせるように頷いた。
明日は、久しぶりにギルドへ行こう。
バルザックに事情を説明して、必要なら依頼も受けることにしよう。治療所での勉強も続けたいけれど、冒険者としての仕事を忘れてしまってはいけない。
私はそう考えながら、明日の予定を頭の中で組み立て始めた。
けれど、その時の私はまだ知らなかった。
バルザックが私を呼び出した理由は、依頼を受けていないこととは、まったく別のところにあったのだ。




