第56話 ただいま、ノヴァグラード
ノヴァグラードの街門が見えてきたのは、午後の日差しが少しずつ西へ傾き始めた頃だった。
街道の先に伸びる城壁は、遠くから眺めると相変わらず無骨で、王都マリアベルクの壮麗な城壁とは比べようもない。それでも、私はその姿を見つけた瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなるのを感じた。
「見えてきたな」
隣を歩くタクマが、私の視線の先を見ながら言った。
「うん。ようやく帰ってきたね」
そう答えると、彼は穏やかに笑った。
王都を出てから、何日も街道を歩いてきた。途中の宿場町で休み、時には商隊と道を同じくしながら、私たちは慣れ親しんだ街を目指していた。往路とは違って急ぐ理由もなく、道中は比較的穏やかなものだったけれど、私の心まで同じように穏やかだったわけではない。
ヴィルヘルム兄上が亡くなったという事実は、王都を離れた今でも胸の奥に重く沈んでいる。
王宮で過ごした時間は、決して楽しいものばかりではなかった。父上との再会も、ヴィルヘルム兄上との別れも、七年前の私には想像できなかったことばかりだった。それでも、あの場所へ戻ったことを後悔しているかと問われれば、答えは違う。
逃げたままでは、きっと知らずに終わってしまったことがあった。
父上が何を考えていたのか。ヴィルヘルム兄上が私をどう思ってくれていたのか。そして、私がいなくなった後も、王宮ではそれぞれの人生が続いていたということ。知ってしまったからこそ悲しいこともあるけれど、知らなければよかったとは思わなかった。
「リカ」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「大丈夫か?」
「……うん。ちょっと考え事してただけ」
「そうか」
タクマはそれ以上尋ねず、私に歩調を合わせてくれた。
少し前までなら、こんな時に何を話せばいいのか、私も分からなかったかもしれない。でも今は、無理に言葉を探さなくてもいいのだと知っている。隣にいてくれるだけで、十分な時もある。
「二人とも、足が遅い」
前方から、シエラの声が飛んできた。
顔を上げると、銀色の髪を揺らした彼女が、街門の手前で立ち止まっていた。相変わらず表情は乏しいけれど、その視線にはわずかな呆れが混じっているように見える。
「別に急ぐ旅でもないでしょ?」
「早く着けば、早く休める」
「それはそうだけど」
「それに、お腹が空いた」
思わず笑ってしまった。
「もう。だったら先に行っててもよかったのに」
「三人で帰る」
それだけ言うと、シエラは私たちが追いつくのを待って、再び歩き始めた。
「シエラさん、もう少しですよ。ギルドに着いたら何か食べましょう」
タクマが声をかけると、シエラは小さく頷いた。
「分かった。タクマも食べる?」
「そうだな。俺も昼は軽く済ませただけだし」
「なら、決まり」
そんな二人のやり取りを聞きながら、私は七年前のことを思い出していた。
初めてこの街へやってきた時、こんなふうに誰かと並んで歩く未来なんて考えていなかった。あの頃の私は、ただ王宮から遠くへ行きたかった。追手に見つからず、誰にも正体を知られず、王女としての役割を押し付けられない場所へ逃げたかった。
ノヴァグラードは、そのために選んだ街だった。それが今では、帰る場所になっている。
街門の前まで来ると、門衛の一人がこちらに気づいた。
「おっ、リカじゃないか。ずいぶん久しぶりだな」
「こんにちは。しばらく留守にしてたの」
「聞いてるよ。遠征だったんだろ? そっちの兄ちゃんも一緒だったな」
「ええ。無事に戻りました」
タクマが冒険者証を取り出して答えると、門衛は軽く頷いた。
「そいつは何よりだ。最近は街道も何かと物騒だからな。無事に帰ってくるのが一番だよ」
三人分の冒険者証を確認した門衛は、いつものように通行を許可してくれた。
表向き、私たちは長期の遠征に出ていた冒険者だ。私の恩師であり、直近までタクマに剣術の修行をつけていた老人を、故郷のマリアベルまで送り届けるための旅だった。それ自体は事実だし、わざわざそれ以上の事情を説明する必要もない。
「おかえり。ゆっくり休めよ」
門衛の何気ない一言に、私は少しだけ目を細めた。
「うん。ただいま」
そう返して、街門をくぐった。
通りには、見慣れた景色が広がっていた。荷車を押す商人に、店先で値段の交渉をしている買い物客。軒先からは焼きたてのパンの匂いが漂い、道端では子供たちが走り回っている。遠くから聞こえてくる鍛冶屋の槌音も、以前と変わらない。
王都に比べれば、どれも素朴なものだ。建物の高さも、通りの広さも、行き交う人々の服装も違う。王都では目立たなかったような小さな店が、ここでは通りの一角を賑わせている。
でも、私はこの雑然とした街並みが好きだった。
「まずはギルドか?」
タクマが尋ねる。
「そうね。帰還の報告もしなきゃいけないし」
「私は食堂に寄りたい」
「シエラ、さっきから食べることばっかり」
「お腹が空いたから」
まったく悪びれない返事に、タクマが笑った。
「ギルドにも食堂があるだろ。先に報告だけ済ませませんか?」
「分かった」
シエラはあっさり頷いた。
そんな他愛のない会話を交わしながら、私たちは冒険者ギルドへ向かった。
---
ギルドの扉を開けると、懐かしい喧騒が耳に飛び込んできた。
依頼掲示板の前で相談する冒険者たちに、受付に並ぶ人々。食堂からは笑い声と食器の触れ合う音が聞こえてくる。建物の中には、外の通りとはまた違った活気が満ちていた。
何も変わっていないように見えるけれど、私たちが留守にしていた間にも、ここでは毎日さまざまなことが起きていたのだろう。誰かが依頼を受け、誰かが怪我をして帰ってきて、また誰かが新しい冒険へ出発する。私たちがいなくても、この街の日常は続いている。
その当たり前のことが、少し嬉しかった。
「……あれ?」
受付の方から、聞き慣れた声がした。
顔を向けると、書類を手にしたエリナが、こちらを見て目を丸くしていた。
「リカ!? タクマも! それにシエラさんまで!」
「エリナ、ただいま!」
私が手を振ると、エリナは書類を慌てて机に置き、受付の向こうから身を乗り出した。
「おかえり! もう、いつ戻ってくるのかと思ってたんだから!」
「ごめんね。思ったより長くなっちゃって」
「いいの、いいの。無事に帰ってきてくれたなら、それで十分!」
エリナはいつもの明るい笑顔を浮かべていた。その顔を見た途端、ようやく本当に帰ってきたのだという実感が湧いてきた。
「そういえば、一緒に行ったお爺さんは?」
「ああ、ボーマンさんの事か。あの人ならマリアベルに残ることになったよ」
タクマが答える。
「そうなんだ。じゃあ、三人だけで戻ってきたのね」
「うん。向こうでやることがあるみたいだから」
「そっか。あれだけタクマに稽古をつけてたんだものね。いなくなると寂しいんじゃない?」
「そうだね。でも、教わったことは忘れないようにしないとな」
タクマがそう答えると、エリナは嬉しそうに笑った。
「ふふ、いい心がけね。ハーケンさんが聞いたら喜びそう」
エリナはそう言いながら、私たちの顔を順番に見た。そして、私のところで視線が止まると、少しだけ表情を変えた。
「……リカ?」
「なに?」
「ちょっと、疲れてる?」
思わず言葉に詰まった。自分では普段どおりに振る舞っているつもりだったけれど、どうやらエリナには何か感じ取られてしまったらしい。
「そう見える?」
「うん。長旅のせいだけじゃなさそうな気がして」
そこで彼女は言葉を切った。
以前から、エリナは私たちの事情について何かを察している節があった。先生だと私が説明していたボーマンの存在も、シエラの振る舞いも、普通の冒険者の旅としては少し不自然だったかもしれない。それでも、エリナが私の過去を詳しく尋ねてきたことはない。
きっと今回も同じなのだろう。
「……ちょっと、大変なことがあったの」
私は小さく笑って答えた。
「でも、もう大丈夫。帰ってこられたから」
エリナは一瞬だけ真剣な表情になり、それからゆっくり頷いた。
「そっか。それなら、よかった」
そして、いつもの笑顔に戻る。
「じゃあ、今夜はおいしいものでも食べて、ゆっくり休んでね。遠征帰りの冒険者には、それが一番なんだから!」
「ふふ、そうする」
「シエラさんは、もう食堂に行きたそうだしね」
「行きたい」
いつの間にか受付の横に立っていたシエラが即答すると、エリナは声を立てて笑った。
「相変わらずだね、シエラさん」
本当に、何も変わっていない。そのことが、今はありがたかった。
「おいおい、誰かと思えば!」
突然、背後から大きな声がした。振り返るより早く、聞き覚えのある笑い声が続く。
「帰ってきたなら声ぐらいかけろよ、二人とも!」
「フリーダ!」
そこには、槍使いのフリーダが立っていた。その隣には、いつもの穏やかな笑顔を浮かべたクルシュもいる。
「おかえりなさい、リカさん。タクマさんも、お疲れさまでした」
「ただいま、クルシュ!」
「ようやく戻ってきたか。随分長い遠征だったな」
フリーダはそう言いながらタクマの肩を軽く叩いた。
「どうだ、向こうでは何か面白いことでもあったか?」
「面白いこと、ですか……」
タクマは少し考えてから苦笑した。
「まあ、いろいろありましたよ」
「なんだよ、その含みのある言い方は」
「長くなるんですよ。本当に」
「そりゃ楽しみだ。今夜あたり飲みに行くか?」
「フリーダ、二人とも帰ってきたばかりですよ」
クルシュが横からたしなめる。
「分かってるって。今夜じゃなくてもいいさ」
「それに、あなたは昨日も飲んでいたでしょう」
「昨日は昨日、今日は今日だろ?」
「そういう問題ではありません」
二人のやり取りを聞いて、思わず笑ってしまった。
フリーダとクルシュは、私が何者なのかを知っている。今回の旅が単なる遠征ではないことも理解しているはずだけれど、王都で何があったのか、二人はまだ詳しく知らない。
それでも、ここで事情を尋ねてくることはなかった。周囲には大勢の冒険者がいるし、エリナもすぐ近くにいる。何より、私が今は普通の冒険者として帰ってきたことを、二人とも理解してくれているのだと思う。
「まあ、何にせよ無事でよかったよ」
フリーダが笑いながら言った。
「帰ってきたなら、また一緒に依頼を受けられるな」
「うん。私も楽しみにしてる」
「タクマも、また腕を上げたんじゃないか?」
「どうでしょう。旅の間も稽古は続けてましたけど」
「なら、今度はあたしとも一本やろうじゃないか」
「それは勘弁してくださいよ。フリーダさんの槍、容赦ないですから」
「ははっ、分かってるじゃないか!」
「フリーダ、帰ってきたばかりの人を捕まえて手合わせの約束をしないでください」
クルシュが苦笑する。
「何だよ。ちょっと誘っただけだろ?」
「あなたの『ちょっと』は信用できませんから」
そのやり取りに、私もタクマも笑ってしまった。
こうして、私たちは何事もなかったかのように仲間たちの輪へ戻っていった。もちろん、本当に何事もなかったわけではない。それでも、変わらず迎えてくれる人がいるというだけで、今は十分だった。
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受付で帰還の手続きを済ませた後、私たちは訓練場へ向かった。
ちょうどハーケンが若い冒険者たちの稽古を終えたところだった。相変わらずのスキンヘッドに、がっしりした体格。木剣を手にした新人たちへ何やら注意を与えていたけれど、私たちの姿に気づくと、その顔に笑みが浮かんだ。
「おお、タクマじゃないか!」
「お久しぶりです、ハーケンさん」
「帰ってきたのか。無事で何よりだな」
ハーケンは近づいてくると、タクマの肩を力強く叩いた。
「どうだった、長旅は?」
「いろいろ勉強になりましたよ」
「そいつは結構。そういえば、あの先生はどうした?」
「マリアベルに残られました」
「そうか。まあ、あの御仁にも事情があるんだろう」
ハーケンはそれ以上深く尋ねなかった。
ボーマンがただの老人ではないことは、以前から分かっているはずだ。何しろ、あれほどの剣技を持つ人なのだから。
「で、どうだ?」
ハーケンがタクマを見た。
「何がです?」
「剣だよ、剣。向こうでも鍛錬は続けていたんだろう?」
「ええ。旅の間も、できる限りは」
「なら、また一本やってみるか?」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
ハーケンとタクマの手合わせは、以前にも一度見たことがある。あの時は、先生の修行によって大きく成長したタクマが、ハーケンを相手に互角に近い戦いを繰り広げた。
結果はハーケンの辛勝だったけれど、タクマの剣技が以前とは比べものにならないほど上達していることは、誰の目にも明らかだった。
あれから、さらに時間が経っている。
王都へ向かう旅の間もタクマはボーマンとの稽古を続けていたし、実戦も経験してきた。今なら、どんな戦いになるのだろう。
「ぜひ、お願いします」
タクマは迷わず答えた。
ハーケンは嬉しそうに笑った。
「いい返事だ。だが、今日は帰ってきたばかりだろう。明日にしようじゃないか」
「分かりました。明日ですね」
「ああ。前のようにはいかんぞ」
「それは、こちらの台詞かもしれませんよ」
タクマがそう返すと、ハーケンは一瞬目を丸くし、それから豪快に笑った。
「はっはっは! 言うようになったじゃないか!」
私は二人のやり取りを見ながら、自然と頬が緩むのを感じていた。
タクマは、もう駆け出しの冒険者ではない。この街へやってきたばかりの頃は、剣の握り方から教わっていたのに、今ではハーケンとこんなふうに笑い合いながら再戦の約束ができる。
その成長を間近で見てきた私にとって、二人が対等な剣士として言葉を交わしていることが、何だかとても嬉しかった。
「リカも見に来るだろう?」
ハーケンがこちらへ視線を向けた。
「もちろん!」
「なら、明日は少し賑やかになりそうだな」
「私も見る」
隣に立っていたシエラが、短く言った。
「お前さんもか。こりゃ気が抜けんな」
ハーケンは笑いながら、新人たちの方へ戻っていった。
その背中を見送ってから、タクマが私を見た。
「明日、頑張らないとな」
「ふふ。楽しみにしてる」
「随分気楽だな」
「だって、私は見てるだけだもの」
そう答えると、タクマは苦笑した。
けれど、その表情に緊張は見えなかった。以前の手合わせでは、勝てるかどうか分からない相手に挑む真剣さがあったけれど、今は自分の力を確かめることそのものを楽しみにしているようだった。
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ギルド長の執務室を訪ねたのは、それから少し経ってからだった。
扉を叩くと、中から聞き慣れた低い声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けると、バルザックが大きな机の向こうに座っていた。書類を確認していたらしく、手元には何枚もの紙が広げられている。
「おう、戻ったか」
「ただいま、バルザック」
「お久しぶりです」
タクマが頭を下げると、バルザックは軽く手を上げた。
「無事で何よりだ。まあ、あの顔ぶれで出かけておいて、そう簡単に何かあるとも思っていなかったがな」
「それでも、長い旅だったよ」
「だろうな。座れ」
勧められるまま椅子に腰を下ろす。シエラも一緒に部屋へ入り、静かに扉を閉めた。
ここには、私の事情を知らない人間はいない。
それを確認したのか、バルザックは先ほどまでの気軽な表情を改めた。
「……まずは、ヴィルヘルム殿下のことだ」
その名前を聞いた瞬間、私は思わず背筋を伸ばした。
「マリアベル王国から、正式な知らせが届いている。国葬も執り行われたそうだな」
「……うん」
「遅くなったが、お悔やみを申し上げる」
バルザックは椅子に座ったまま、静かに頭を下げた。
私は慌てて首を振った。
「そんな、頭を下げないで。バルザック」
「いや。これは一人の人間としての礼儀だ。お前さんの兄君が亡くなったんだからな」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
「……ありがとう」
バルザックは静かに頷き、それから顔を上げた。
「王都では、いろいろあったんだろう」
「うん。……本当に、いろいろ」
私は少しだけ考えてから、ゆっくり言葉を続けた。
「父上とも話せたし、昔の知り合いにも会えた。ヴィルヘルム兄上のことも、ちゃんと聞くことができたの」
「そうか」
「行く前は、正直少し怖かった。七年前に逃げ出した場所だもの。また戻ったら、自由にしてもらえないんじゃないかって」
バルザックは何も言わず、続きを待ってくれた。
「でも、行ってよかったと思ってる。ちゃんと話せたこともあったし、知らなかったことも知れたから」
「そうか。それなら、無駄な旅じゃなかったな」
「うん」
私は小さく頷いた。
「それでね。私、やっぱりここで冒険者を続けることにしたの」
バルザックは、少しだけ口元を緩めた。
「最初から、そのつもりだったんじゃないのか?」
「そうなんだけど……」
「なら、それでいいだろう」
あまりにもあっさりした返事に、私は思わず瞬きをした。
「それだけ?」
「何か言ってほしいのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「だったら問題ない。お前さんがどこで生まれたかなんぞ、うちのギルドには関係のない話だ。依頼を受けて、きちんと仕事をしてくれるなら、それで十分だろう」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
バルザックは、私が王女だと知っても態度を変えなかった数少ない人の一人だ。冒険者としての私を認め、必要以上に特別扱いすることもない。
だからこそ、私はこの人を信頼している。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。それより、長いこと留守にしていたんだ。依頼の勘が鈍っていないか、そっちの方が心配だな」
「失礼ね。そんな簡単に鈍らないわよ」
「はっはっは! なら、明日からでも働いてもらうか」
「明日は少し予定があるんです」
タクマが口を挟んだ。
「ほう?」
「さっきハーケンさんと会いまして。明日、久しぶりに手合わせをすることになったんです」
「ああ、なるほどな。あいつも喜んでいただろう」
「ええ。随分楽しみにしてくれているみたいで」
「そうか。なら、明日はそっちを優先するといい。腕が鈍っていないか、しっかり確かめてもらえ」
バルザックはそう言うと、机の端に置いてあった書類を手に取った。
「遠征の報告は受付で済ませたんだろう? 細かい話は後で構わん。今日はもう帰って休め」
「うん。そうする」
立ち上がりかけたところで、バルザックがもう一度私を呼んだ。
「リカ」
「なに?」
「……帰ってこられて、よかったな」
その声は、先ほどまでより少しだけ静かだった。
私は小さく頷いた。
「うん。本当に」
---
ギルドを出る頃には、日がだいぶ傾いていた。
「さて、帰る前に買い物しなきゃね」
私がそう言うと、タクマが頷いた。
「そうだな。家の食料もほとんど残ってないだろうし」
「今日は簡単なものでいいよね。パンと、何かおかずになるものを買って帰ろうか」
「いいと思うよ。明日の朝の分も買っておこう」
「うん。そうしよう」
「私は食堂に戻る」
シエラが言った。
「えっ、まだ食べるの?」
「さっきのは昼食。今度は夕食」
「……まだ夕方なんだけど」
「早めに食べる」
あまりにも当然のように答えるので、私は思わず笑ってしまった。
「分かった。じゃあ、また明日ね」
「うん」
「シエラさん、今日はありがとうございました。また明日」
タクマが声をかけると、シエラは小さく手を上げた。
そして数歩進んだところで振り返る。
「リカ」
「なに?」
「……おかえり」
一瞬、返事が遅れた。
シエラは普段、こんなことをわざわざ口にする人ではない。だからこそ、その短い言葉が妙に嬉しかった。
「うん。ただいま、シエラ」
彼女は小さく頷くと、今度こそギルドの方へ戻っていった。
「シエラさんも、変わったよな」
隣でタクマが呟いた。
「そう?」
「ああ。最初の頃に比べると、随分話すようになったと思う」
「ふふ。確かにね」
シエラが私のそばにいる理由は、普通の冒険者仲間とは少し違う。でも、今ではそれだけではないと思っている。
一緒に依頼を受け、食事をして、旅をして、時にはくだらない話もする。少なくとも私は、彼女を大切な仲間だと思っているし、きっとシエラも同じなのだろう。
そんなことを考えながら、私たちは市場へ向かった。
夕方の市場は、店じまいを始める商人と、夕食の買い物に訪れた人々で賑わっていた。店先には焼きたてのパンや燻製肉、野菜などが並び、あちこちから客を呼び込む声が聞こえてくる。
「このパン、久しぶりだね」
私は馴染みのパン屋の前で足を止めた。
「そうだな。王都でもパンは食べたけど、ここのはまた違うからな」
「ふふ。私はこっちの方が好き」
店主に挨拶して、夕食と翌朝の分を買う。続いて燻製肉と野菜をいくつか選び、日持ちする食材も少し買い足した。
タクマは荷物を受け取りながら、私の方を見た。
「これくらいあれば、明日は買い物に出なくても大丈夫そうだな」
「うん。明日はハーケンさんとの手合わせもあるし、ゆっくりしたいものね」
「手合わせするのは俺なんだけどな」
「私は応援するの。大事な仕事でしょ?」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら買い物を終えると、私たちは街の外へ向かった。
ノヴァグラードの城壁を抜け、街道から少し外れた森へ入る。
周囲に人の気配がないことを確かめながら木々の間を進んでいくと、やがて見慣れた場所に辿り着いた。一見すると、そこには何もない。ただ木々が生い茂り、落ち葉が積もっているだけの森の一角だ。
けれど、私には分かる。
「……久しぶりね」
私は足元へ視線を落とした。
そこには、私が以前から使っている転移魔法陣が隠されている。認識阻害の魔法によって、普通の人には存在そのものが分からないようにしてあるのだ。
「ここを使うのも、久しぶりだな」
タクマが言った。
「そうね。帰りはずっと歩いてきたもの」
私は荷物を持ち直し、魔法陣の中心へ進んだ。
「じゃあ、帰ろっか」
「ああ」
タクマが隣に立つ。
魔法陣へ魔力を流すと、足元に淡い光が広がった。見慣れた魔法式が静かに起動し、周囲の景色がわずかに揺らぐ。
次の瞬間、私たちは森の奥にある自宅近くへ転移していた。
「到着!」
私が笑うと、タクマも周囲を見回して頷いた。
「やっぱり便利だな、この魔法」
「今さら?」
「いや、何度使ってもそう思うよ」
「ふふ。まあ、私もそう思うけどね」
そこから家までは、ほんの少し歩くだけだった。
久しぶりに見る我が家は、外から眺める限り、出発した時と何も変わっていなかった。玄関の扉も、窓の形も、庭先の小さな植え込みも、そのままだ。
「……帰ってきたね」
私が呟くと、タクマが鍵を取り出した。
「そうだな。まずは中に入ろう」
扉が開くと、しばらく人が住んでいなかった家特有の、少し乾いた空気が流れてきた。それでも、見慣れた家具が目に入った瞬間、私は思わず笑ってしまった。
「ただいま!」
誰もいない家に向かって、少し大きな声で言ってみる。
タクマも笑いながら続いた。
「ただいま」
荷物を下ろし、窓を開けると、森の空気が閉め切っていた室内へ流れ込んできた。長く留守にしていたせいか、家具には薄く埃が積もっていたけれど、何もかもが出発した時のままだった。
王宮の部屋は、確かに立派だった。広い寝台も、柔らかな絨毯も、美しい調度品も揃っていたし、必要なものは頼まなくても用意されていた。
でも、私はあの部屋で、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
それに比べれば、この家はずっと小さい。家具だって高価なものばかりではないし、食事の準備も掃除も、自分たちでしなければならない。それでも、ここにいると自然に息ができる気がした。
「まずは掃除かな」
部屋を見回して言うと、タクマが頷いた。
「そうだな。埃も溜まってるだろうし、寝室だけでも先に片づけよう」
「じゃあ、私が風魔法で一気に……」
「待て待て。埃を全部舞い上げるつもりか?」
「ちゃんと集めるわよ」
「前にそれで大変なことになっただろ」
「……あれは、ちょっと加減を間違えただけ」
タクマは何も言わず、私を見た。
その顔が妙におかしくて、私は吹き出してしまった。
結局、掃除は普通に行うことになった。
タクマが家具の埃を払い、私は布を濡らして机や棚を拭いていく。魔法を使えばもっと簡単にできることもあるけれど、こうして二人で家を整える時間は嫌いではなかった。
むしろ、久しぶりの家事が少し楽しいくらいだった。
寝室と居間を片づけ終えた頃には、すっかり夕方になっていた。
「夕飯、どうする?」
私が尋ねると、タクマは台所に置いた買い物袋を指差した。
「さっき買ってきたものでいいだろ。今日は簡単に済ませよう」
「そうね。パンもあるし、燻製肉と野菜で何か作ろうか」
「俺も手伝うよ」
「じゃあ、野菜を切ってもらおうかな」
「了解」
そうして、私たちは夕食の支度を始めた。
王都から何日もかけて帰ってきたばかりなのに、今度は二人で台所に立っている。考えてみれば、何だかおかしな話だ。
でも、私はこういう時間が好きだった。
どこかへ逃げるためでも、誰かに命じられたからでもなく、自分たちの夕食を作るために台所に立つ。そんな当たり前のことが、今はとても贅沢に思えた。
---
夕食を終え、片づけまで済ませた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
久しぶりの我が家で食べる食事は、特別な料理ではなかったけれど、驚くほどおいしく感じられた。
タクマは食後に温かい飲み物を用意してくれた。私はそれを受け取り、居間の椅子に腰を下ろす。窓の外からは、木々を揺らす夜風の音がかすかに聞こえていた。
「……静かだね」
「そうだな」
タクマは向かいの椅子に座り、私を見た。
「疲れたか?」
「少し。でも、嫌な疲れじゃないよ」
「そっか」
しばらく、二人で黙って飲み物を口にした。
昼間は、ギルドの仲間たちとの再会が嬉しくて、あまり考える暇がなかった。でも、こうして静かになると、どうしても王都での出来事が頭に浮かんでくる。
父上と交わした言葉や、久しぶりに会ったユリアナとアルフォンスの姿。そして、もう二度と話すことのできないヴィルヘルム兄上のこと。
「……ねえ、タクマ」
「うん?」
「私ね、まだ時々、ヴィルヘルム兄上が亡くなったって信じられなくなるの」
言葉にしてみると、胸の奥が少し痛んだ。
「王宮に行けば、また会えるんじゃないかって。あの頃みたいに、普通に話せるんじゃないかって思っちゃう」
タクマは黙って聞いていた。
「七年間も会ってなかったのにね。今さら、そんなことを考えるなんて変だよね」
「変じゃないと思うよ」
彼は静かに答えた。
「七年間会っていなくても、リカのお兄さんだったことは変わらないだろ」
「……うん」
「会えなかった時間が長いからって、悲しくなくなるわけじゃないさ」
私は俯いた。
ヴィルヘルム兄上は、私が王宮を出た後も、ずっと私のことを気にかけてくれていたという。私がどこで何をしているのか、詳しく知らなくても、王家へ戻ることを望まなくても、それでも元気で暮らしていてほしいと思ってくれていた。
そのことを、私はもっと早く知りたかった。
「……ヴィルヘルム兄上に、タクマを会わせたかったな」
ぽつりと呟く。
「きっと、驚いたと思うの。私が誰かと一緒に暮らしてるなんて」
「そうだろうな」
「それに、タクマのこと、いろいろ聞かれたかもしれない」
「何を?」
「どこで知り合ったのかとか、どんな人なのかとか。ちゃんと私を大事にしてくれるのか、とかね」
タクマは少し困ったように笑った。
「それは緊張するな」
「ふふ。兄上、優しい人だったけど、そういうところは結構真面目だったから」
私はヴィルヘルム兄上の顔を思い浮かべた。
きっと最初は驚いて、それから少し困った顔をして、最後には笑ってくれたのではないだろうか。そんな光景を想像すると、胸が温かくなるのと同時に、どうしようもなく寂しくなった。
「……会わせたかった」
今度は、はっきりと口にした。
タクマは椅子から立ち上がり、私の隣へ来てくれた。そして、何も言わずに肩を抱いてくれた。
私はその胸に額を寄せた。
少しだけ、涙が出た。
王宮でも泣いたし、帰り道でも何度か泣きそうになった。もう十分に泣いたと思っていたのに、悲しみというものは、そんなに簡単には消えてくれないらしい。
「……ごめんね」
「何が?」
「せっかく帰ってきたのに、こんな話ばっかり」
「いいよ。話したいなら、いくらでも聞く」
その言葉が嬉しくて、私は彼の服を少しだけ握った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
しばらく、そうしていた。
やがて涙が落ち着くと、私はゆっくり顔を上げた。
「でもね、タクマ」
「うん」
「王都に行って、よかったと思ってる」
彼は静かに頷いた。
「父上とも話せたし、ユリアナにも会えた。ボーマンだって、向こうに残ることを自分で決めたんだもの」
「そうだな」
「それに、ヴィルヘルム兄上が私のことをどう思ってくれていたのかも、知ることができた」
私は窓の外へ目を向けた。
七年前の私は、王宮から逃げ出すことしか考えていなかった。自分の魔法が王家のために使われることが怖くて、誰かの命令で生きることが嫌だったから、自由を求めて遠くへ逃げた。
その選択を、今でも間違っていたとは思っていない。
けれど、あの場所に残された人たちの気持ちまで、考えられていたわけではなかった。
「私、ずっと王宮に帰ったら、また自由を奪われるんじゃないかって思ってたの」
「うん」
「でも、今回は違った。父上も、最後には私の気持ちを聞いてくれたし……ヴィルヘルム兄上も、きっと同じだったんだと思う」
タクマは何も言わず、続きを待ってくれた。
「だから、もう逃げなくてもいいのかなって」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
七年前、王宮から逃げ出した私は、それ以来ずっと自由であることを守ろうとしてきた。王女だと知られないように、王家に連れ戻されないように、誰かに自分の人生を決められないようにと、必要以上に周囲を警戒していた時期もある。
でも、今は少し違う。
王宮へ戻らないという選択を、私は自分の意思で伝えることができた。父上も、それを受け止めてくれた。
もちろん、これから先、王国がどうなるのかは分からない。父上のことも、ユリアナたちのことも心配だし、ハインリヒ兄上が何を考えているのかも気になっている。
それでも、今の私には自分で選んだ暮らしがある。
「……私、ここで暮らしていきたい」
タクマの顔を見て言った。
「冒険者を続けて、いろんなところへ行って、知らないものを見て。それで、帰ってきたらタクマと一緒にご飯を食べて……そういう毎日がいい」
彼は微笑んだ。
「俺も、そういう暮らしが好きだよ」
「本当?」
「ああ。まあ、時々とんでもないことに巻き込まれるのは、少し考えものだけどな」
「それは私のせい?」
「さて、どうだろう」
「もう!」
思わず彼の胸を軽く叩くと、タクマは笑った。私もつられて笑ってしまう。
悲しみが消えたわけではないし、きっとこれからもヴィルヘルム兄上のことを思い出して泣く日はあるだろう。それでも、悲しいことがあったからといって、楽しいことまで失われるわけではない。大切な人を失っても、今そばにいてくれる人を大切にしていいのだと、少しずつ思えるようになっていた。
王都へ行ったことは、私にとって決して楽しい経験ではなかった。けれど、七年前の自分が置き去りにしてきたものと向き合えたことには、きっと意味があったのだと思う。
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寝室へ入ると、久しぶりに使う寝台が私たちを待っていた。
王宮のものと比べれば、ずっと小さいけれど、二人で眠るには十分な広さがある。私は寝台に腰を下ろし、靴を脱いでから、思いきり身体を伸ばした。
「ああ、やっぱり自分の寝台が一番!」
「さっきまで、王宮の寝台は立派だったって話してなかったか?」
「立派なのと、落ち着くのは別なの」
「なるほど」
タクマは笑いながら荷物を片づけていた。
私はその様子を眺めてから、寝台の端を軽く叩いた。
「タクマ、こっち」
「どうした?」
「いいから」
彼が近づいてくると、私はその腕を引いて隣に座らせ、そのまま肩に寄りかかった。
「……どうしたんだ、本当に」
「別に。こうしたかっただけ」
「そっか」
タクマは少し笑って、私の髪を撫でた。
その手の温かさに目を細める。
旅の間も、王宮にいた時も、彼はずっとそばにいてくれた。でも、こうして誰にも気を遣わず、二人きりで過ごせる時間は久しぶりだった。
「明日はハーケンさんと手合わせなんでしょ?」
「ああ。久しぶりだからな」
「勝てそう?」
「どうかな。やってみないと分からないよ」
「ふふ。前は惜しかったもんね」
「あの時は完全にやられたと思ったんだけどな。ハーケンさんも、最後まで隙を見せなかったし」
「でも、今のタクマならきっといい勝負になるよ」
彼は少し考えてから頷いた。
「そうだといいな」
私はその横顔を見つめた。
初めて会った頃のタクマは、この世界の魔法も知らなければ、冒険者としての経験もなかった。剣の扱いについては故郷で学んだ経験があったものの、この世界の魔物を相手にする戦い方は、何もかもが手探りだった。
それでも、彼は慣れない世界で必死に自分の居場所を探し、ハーケンやボーマンの教えを受けながら少しずつ成長してきた。今では立派な冒険者になり、私の隣で戦ってくれる。
そのことが、何より嬉しかった。
「明日、楽しみにしてるからね」
「ああ。期待に応えられるように頑張るよ」
「無理はしないでね?」
「分かってる」
そう言いながら、タクマは私の肩を抱き寄せた。
私は彼に身体を預け、ゆっくり目を閉じた。窓の外からは夜の森の音が聞こえてくる。木々を揺らす風の音も、遠くで鳴く虫の声も、王宮では聞くことのなかったものだ。
それが、こんなにも懐かしい。
「……ねえ、タクマ」
「うん?」
「帰ってきたね」
少しだけ間を置いて、彼が答えた。
「ああ。おかえり、リカ」
その言葉に、私は目を開けた。そして、彼の顔を見上げながら笑った。
「……ただいま」
七年前、私は自由を求めて王宮を飛び出した。
あの時は、どこへ行けばいいのかも、これからどう生きればいいのかも分からなかった。ただ、自分の人生を誰かに決められることだけは嫌で、王宮から遠く離れた場所へ逃げることしか考えられなかった。
その先で冒険者になり、仲間ができて、タクマと出会った。
嬉しいことも、怖いことも、悲しいこともあった。自分の力を誇らしく思った日もあれば、何もできないことが悔しかった日もある。それでも、この街で積み重ねてきた日々は、少しずつ私の人生を形作ってくれた。
王宮にいた頃の私は、王女として生きることを当然のように求められていた。どれほど恵まれた暮らしを与えられていても、その先に用意された道を自分で選べないことが、何より苦しかったのだと思う。
けれど、今は違う。
この家で暮らすことも、冒険者として依頼を受けることも、タクマと一緒にいることも、誰かに命じられたわけではない。私自身が望み、選び取ってきたものだった。
明日になれば、また冒険者としての日常が始まる。
タクマはハーケンと剣を交え、私はその様子を見守るのだろう。ギルドへ行けばエリナが笑顔で迎えてくれるし、フリーダたちに会えば、きっとまた賑やかな時間が始まる。シエラも、いつもの涼しい顔で私たちの隣にいるに違いない。
そんな明日を、私は心から楽しみにしていた。
タクマの胸に頬を寄せると、彼の腕がそっと私を包んでくれた。私はその温もりを感じながら、ようやく戻ってきた自分の居場所で、静かに眠りについた。




